『理趣釈』第四段・四種不染三摩地の観想について

 

『理趣釈』に、「自の金剛と彼の蓮華とを二体和合するを以て、成じて定(samādhi)・慧(prajñā)と爲る」との記述あり、「密意に、二根交會し、(諸欲の対象である)五塵(色、声、香、味、触)[が、そのまま]大佛事を成ず」との『(金剛頂)瑜伽』の廣品の記述を念頭においたものであると、不空三蔵ご自身は明かしています。その観想の仕方の一例として、

 

「(自他平等なり。)或る時は、己身(の心)に紇利Hrīḥ字門を想え。八葉蓮華と成る。胎中(= 華台)に金剛法(= 観自在菩薩)を想い、八葉の上に於いて八佛を想え。(また、)或る時は、他身(の心hṛdaya)に吽Hūṃ字を想え。五股金剛杵なり。中央の把處に十六大菩薩を想え。[そして、自他平等・自他転換して]自の金剛と彼の蓮華とを二体和合するを以て、成じて定(samādhi)・慧(prajñā)と爲る。」

 

とします。そして、その観想の成果として、

 

「この三摩地を以て、[みずから自身を]一切如来に奉献すれば(=「おのれを空しうすれば」)、また能く、妄心より起する所の雑染、速やかに滅して、疾(と)く本性清浄の法門を証す。是の故に観自在菩薩、手に蓮華を持して、一切有情の身中の如来蔵性の自性清浄の光明(は)、一切の惑染の染すること能わざる所なり(= 本性清浄なり)と観ず。観自在菩薩の加持に由て離垢清浄を得て、聖者(=観自在菩薩)に等同なり。」

 

と述べられています。(この『理趣釈』の一節は、『法華経開題』重円性海本にも、引用されています。)ここでは、『理趣経』を学ぶうえで、どうしても言及せねばいけない課題のひとつである「二体和合」「二根交會」とある意味、真言密教における人間・性差の捉え方について少しお話しいたします。

 

この問題を考えるための資料は、実はこれまでの投稿分において既に提示してあります。それは以下の三種のものでした。

 

まずその一つは、「自己はこのうえもなく愛しい。(それは他の人々すべても同じ。)されば、おのれの愛しいことを知るものは、他のものを害してはならぬ。」(八正道について 正語、正業、正命2025-09-29)というものです。

 

この、釈尊のことばに対応する、佐々木閑『ブッダ100の言葉』宝島社2015より、佐々木先生の和訳もあわせて示しておきます。

 

 心によってあらゆる方向を探し求めても、自分より愛しい者はどこにも見つからなかった。他の人たちにしても同じである。みなそれぞれに自分が愛しいのだ。だからこそ、自己を愛する人は、他者を害してはならない。『サンユッタ・ニカーヤ』第Ⅲ篇第1章-8. 同書p.72. 

 

この記述からは、自分も他者も、自らを愛し、自ら自身を正しく制御すべきであり、そのことには、なんら変わりはないということが学ばれるべきです。決して、自分のみを愛しく考えることではないのです。また、私たちは、他のお方をあたかも自分の一子のように大切にする、母親の立場であるべきであるとも説かれます。

 

 母が、自分のたった一人の息子を命懸けで守るように、人はあらゆる生き物に対する無量の慈しみの心を鍛錬していかねばならない。『スッタニパータ』第1-149. 同書p.64.

 

まずは、仏典における、他者に対する見方が指摘されます。それは、自他ともに、苦に生きる有情として何ら差異があるわけではないこと、平等性という考え方です。

 

次に「自の金剛、彼の蓮華と二体和合するを以て」に暗示される自他の転換という考え方があります。ここでは、シャーンティデーヴァ(Śāntideva 685-763)の『入菩提行論』(Bodhicaryāvatāra)における、自他平等の詩群ともいうべき、二つの部分に分かれる一連の記述(BCA VIII-90-119, 120~173)あり、それぞれの内容の要約ともいうべき、各部分の第一の偈を紹介いたします。

 

BCA VIII-90:

はじめに注意して次のように自他の平等性を修習せよ。すべての人は等しい苦楽をもつ[のだから]己のごとく守られねばならない。

 

parātmasamatām ādau bhāvayed evam ādarāt /

samadukhasukhāḥ sarve pālanīyā mayātmavat //

 

BCA VIII-120:

自他を速やかに救おうと願う者は、自他の転換という(、大乗のみに知られる)最高の秘密を説くべき(? 実践すべき √car Opt.)である。

ātmānaṃ ca parāṃś caiva yaḥ śīghraṃ trātum icchati //

sa caret parama guhya parātmaparivartanam //

 

自己と他者のおきかえ(転換)によって自我への執着をはなれるべきことをうたいます。翻訳は、石田智宏「『入菩提行論』における自他平等の思想」に拠りました。自他の転換の内容については、ツォンカパ『菩提道次第大論』(Ram lim chen mo)における当該箇所などを参照して稿を改めなければなりません。そこには、「なんであれ、[この]世間において、楽というもの(sukhita)は、すべて他者の楽を願うことから[生じる]。」(BCA VIII-129cd)、「自己の楽(sukha)を他者の苦(duhkha)と交換しないならば、仏たることの完成はなく、輪廻にあっても、なにが楽であろうか(saṃsāre ‘pi kutaḥ sukham)」(BCA VIII-131)も引用されています。

 

次に「自の金剛、彼の蓮華と二体和合するを以て、成じて[自ら]定・慧と爲る(= 仏体となる)。」とあるように、密教的発想、マンダラにおける男形・女形は、必ずしもその像(かたち)にかかわらず、ジェンダーとしての性差を表わすのではないという理解があります。たとえば、般若(prajñā)と方便(upāya)のときは、般若が母で、方便が父であるとされ、一方、般若と三昧(samādhi)のときは、三昧が女性尊の姿をとってマンダラに描かれます。ここでは『大日経疏』の中から、それに該当する記述を示します。

 

巻第三「本尊の形(かたち)の如きは、女は是れ禪定、男は是れ(612b25)智慧なり。」(「本尊形色の文」) 講伝本第二巻86頁

 

巻第四「復(619c11)た次、地神は是れ女天なり。女は是れ三摩地の義なり。即ち是れ、大日世(c12)尊の、一切衆生の心地を護持したまう三昧なり。(以下略)」

講伝本第二巻175頁

 

巻第五「女人とは、是れ三昧の像(かたち)なり。男(627c24)子とは、是れ智慧の像なり。亦た、端正威徳にして、人に愛敬せらるる類を取る。」

 

これらの前提をもって、「二体和合」「二根交會」を理解すれば、仏教思想として、充分評価されるのではないでしょうか。なお私の知るところは少ないですが、後期密教では、実体をともなって修せられることになったのでしょうか。

 

(ひとつ、肩の荷をおろした感じです。)