先の正思惟が実際の行動となって、他者にも認知される、正語、正業、正命等となります。
三十七菩提分法・八正道(正見、正思惟、まで)の承けてのものです。
参考文献は
水野弘元『仏教要語の基礎知識』春秋社1972、四諦各説 D道諦よりpp.185ff.
同『釈尊の生涯と思想』佼成出1989、釈尊の教えよりpp.84ff.
です。以上を抜粋、要約して、正語、正業、正命についてご説明いたします。
正語 正しい言語的行為 妄語(うそをつき、いつわりを語ること)、悪口(人をののしり、あしざまにいうこと)、両舌(離間語。ねたみ、中違いのための中傷など)、綺語(かざりの発話、無益なむだ口)等を離れ、真実を語り、慈愛をもって正しく賞賛して励まし、他を融和させる、理想に役立つ有益な言語をなすことをいいます。正語は、正しい言語的行為そのものだけでなく、その行為の余力としての習慣を含んでいます。したがって、繰り返される習慣は性格の形成ともなり、日常、修行生活において、きわめて大きな役目をなすものなのです。
正業 正しい身体的行為 生きものを故意の殺すこと、すなわち殺生、他人のものをそれと知りつつ盗むこと、すなわち偸盗(ちゅうとう)、邪淫等を離れ、生命あるもの(環境、自然をも含めて)の愛護、財物や教法などを惜しむことなく施し与えること、そして正しい夫婦・人間関係をたもつことをいいます。
【補説】正語、正業は、十善戒では、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌に相当し、身三(しんさん)・口四(くし)[・意三(いさん)]と数えます。正思惟、正見は不慳貪、不瞋恚、不邪見に相当すると解してもいいでしょう。なお「業説」(因果応報)の業(karma)という概念は言語的行為、身体的行為だけでなく、その前提となる心の中での動き、心的作用、すなわち意業(いごう)を含み、したがって、その残余としての習慣力、好・悪の結果(「報い」)を伴なう、齎(もたら)すものとしての善・悪の行い・動作をいいます。
正命 正しい生活法 正しい生活手段、職業等によって、衣・食・住等をととのえ、規則正しい生活を営み、修行に励むこと。規則的な生活習慣は、健康、家庭、経済生活など、いかなる境遇にあっても、きわめて大切なことである、といえます。
(付録)正語、正業、正命のお話しにちなんで、「おのれを愛すべきものと知らば――自愛」として紹介される仏典を読んでおきます。増谷文雄『仏教百話』筑摩書房1962、pp.160-161、同『仏教の根本聖典』大蔵出版1983(1993)pp.133ff.を参照しています。
以下にご紹介する仏典は、コーサラ国・パセナーディー王に対する教えとなっています。パセナーディー王は賢く思慮深く、でも、奥さまのマリッカー夫人に対して「そなたは自分自身よりも、(このうえもなく、)もっと愛(いと)しいと思われる者があろうか」と問うほど、少し“甘えん坊”なお方だったようです。マリッカー夫人の返答は「自分よりももっと愛しいと思うものは考えられない」という真実のことばであり、それをうけてのパセナーディー王に対する教えです。
「身(しん)・口(く)・意(い)によって悪業をなす者は、誰でも、真(しん)に(= 本当は)自己を愛してはいない。身・口・意において善業をなす者は、その人こそ、まことに自己を愛する者である。」「おのれを愛すべきものと知らば、おのれを悪に結ぶことなかれ。悪しき業をなす人々には、安楽は得がたいものなればなり」
したがって、
「自己はこのうえもなく愛しい。(それは他の人々すべても同じ。)されば、おのれの愛しいことを知るものは、他のものを害してはならぬ。」
とするのです。なおここでの「愛する」とは、自らを制御することに他なりません。さらに、パセナーディー国王は具体的に考えを深めています。
「世尊よ、何びとであれ、行為(おこない)において悪しき行為をなし、言葉において悪しき行為をなし、その意(こころ)において悪しき思いをいだくならば、彼は自己を護れる人ではないであろう、たとい彼が、象軍により護られ、騎兵により護られ、歩兵により守られ、戦車によりて守られていようとも、彼はよく自己を護ってはいないのである。何となれば、外なるこれらの守護(まもり)は、決して内なる守護でないからである。その故に、彼は真に自己を護る人であるとは言えないのである。」
お釈迦さまはそれを承認されて、次のように語っています。
「身において自らを制するはよい。語(ことば)において自らを制するはよい。意(こころ)において自らを制するはよい。すべてにおいて自らを制するはよいかな。すべてにおいて自らよく制する者は、よく守られたる人と言われる。」
漢訳の対応箇所は、以下です。求那跋陀羅訳『雜阿含經』(大正蔵No.99, vol.2)
「(336b16)善護於身口 及意一切業(b17)慚愧而自防 是名善守護」
正思惟、正語、正業、正命は、自らを正しく愛し、制御し、よく守ることであるのです。