三十七菩提分法・八正道(正見、正思惟)
『仏教要語の基礎知識』水野弘元著、春秋社1972より、修道論概説pp.188-189.
仏教は、「いかにあるか」「いかにあるべきか」ということを問題とするものであるが、最後の目的は「いかにあるべきか」という実践修道(じっせん・しゅどう)の面にある。原始経典に説かれている多くのものはこの実践修道に関することである。
【補説】「いかにあるか」「いかにあるべきか」とあるのは、理論(存在論、認識論)と実践に関することであり、前者は世界観(人間観を含む)、後者は人生観(いかに生きてゆくべきか)といいかえることができるようです。八正道の正見(正しい見解、信仰)については、「正しい見方であって、仏教の正しい世界観や人生観としての縁起や四諦に関する智慧である。しかし未だこの智慧を確立していない者にとっては正しい信仰として現われる(後略)」(同p.185)とありました。なお「原始経典」とは原始仏典、初期仏典と同じであり、概ね、阿含(四阿含)・ニカーヤ(五ニカーヤ)を指します。
「この世界はいかにあるか,この世界でいかに生きてゆくべきか」秋山 知宏
ところで理想に向かわせる信仰や実践の面になると、その人の性格や環境に従って、もっとも適した教えを説くというのが釈尊の態度であった。医者が患者の病気に応じて適切な処置をしたり、薬を与えたりするように、人びとの性格、その偏りや欲望などの煩悩といわれるものには種々さまざまのものがあるから、それらの煩悩を対治(たいじ。対処)するにもっとも適した教えを説いて人びとを理想(最終的には、解脱、涅槃)に進ませられたのが仏の説法であった。八万四千の法門といわれるものはそれである。
【補説】人びとを導くための、お釈迦さまが用いられた、このようなあり方を、応病与薬(おうびょうよやく)、対機説法(たいきせっぽう)といいます。人びとの性格、その偏りを指して、「性欲」(しょうよくāśaya。楽欲)といいます。なお「應病與藥」の用例として、竺法護訳『正法華經』(大正蔵No.263)「藥草品」第五があります。「一切世間 尋興慧雲(84b14)而降法雨 暢發微妙 應病與藥(b15)常爲衆生 説賢聖*誼」。『妙法蓮華経』鳩摩羅什訳との明確な対応は指摘できませんでしたが、應病與藥とともに、初期仏典における「方便」「善巧(ぜんぎょう)方便」については考えてみたい課題のひとつです。
A 三十七菩提分法
このように多くの実践修道の教えがあるが、原始経典におけるもっとも代表的な実践論とされるのは、部派仏教で三十七菩提分法(さんじゅうしち・ぼだいぶんほう)としてまとめられた七種類の修道(しゅどう)説である。三十七菩提分法とは旧くは三十七道品(どうぼん)とか三十七品経(ほんきょ)とか訳されているが、菩提分法(bodhipakkhiya dhamma, bodhipakṣika dharma)とは菩提(悟り)の資助(たすけ)となる修行法の意味である。その七種類とは次のごとくである。
四念処(ねんじょ。四念住)
四正勤(しょうごん。四正断)
四神足(じんそく。四如意足)
五根(こん)
五力(りき)
七覚支(かくし。七菩提分)
八正道(聖八支道)
この七種のほかにも原始経典の中には、たとえば信・戒・聞・捨・慧の五財、これに慚・愧を加えた七財など、その他、少欲・知足・遠離・精進・正念(不忘念)・定・慧・不戯論の八大人覚とか、八正道に正智・正解脱を加えた十無学法とかいうような種々の修道論が説かれている。
【補説】「三十七菩提分法」という表現は部派(ぶは)仏教になって、いいかれば、経・律・論の論蔵において用いられるようになったようです。詳細については、池田練太郎さま「三十七菩提分法説の成立について」などの論文があります。なお本文では、それぞれの原語が表記されていますが、ここでは省略しています。
ここでは復習になりますが、八正道について記しておきます。以下は、同pp.185-186からの引用です。
八正道の解釈 八正道は八支聖道といわれるように、聖道であって、本来は悟りの世界における修行法を指すが、一般社会の日常生活にも適用できるとされているから、いまも聖俗の両面にわたって考えてみたい。
【補説】「本来は悟りの世界における修行法」とありますが、それは、聖者に至った者が、悟りを求めて行う無漏(むろ)としての修行方法という意味です。無漏に対して有漏(うろ)ということがあります。有爲(うい)と無爲(むい)と混同しないように注意してください。有爲の中、苦諦・集諦は有漏であり、道諦は無漏です(ただし有漏道・有漏の六行観という概念もあります)。そして涅槃である滅諦は無爲であり無漏です。
正見 正しい見解、信仰
正しい見方であって、仏教の正しい世界観や人生観としての縁起や四諦に関する智慧である。しかし未だこの智慧を確立していない者にとっては正しい信仰として現われる(これは、前掲しました)。また日常生活において何か事業をなす場合の全体的な計画や見通しが正見に相当する。
【補説】成道会にちなんで 八正道の説明2024/12/07もあわせてご参照くださいませ。
正思惟(しょうしゆい. sammā-saṅkappa, samyak-saṃkalpa)正しい意思、決意
身・語による行為(= 身業・口業のことです)を為す前の正しい意思、意志または決意(*niścaya)を指す。出家者ならば、出家者にふさわしい柔和や慈悲や清浄の心で思念・思惟することである。一般社会でも、学生や勤め人や事業家など、自分の立場を常に正しく考えて意思することが正思惟である。
【補説】正思惟の「思惟」(saṅkappa, saṃkalpa)は、心業・意業、心の働き全般をいうのでしょうか。日本語の意思・意志(決意)双方を含んでいるようです。具体的には「思學問、思和敬、思誡愼、思無害。是爲世間正思。思出處、思忍默、思滅愛盡著。是爲道正思」です。
(未完)