増谷文雄『阿含経典による仏教の根本聖典』第三篇・根本説法、第三章・行苦説法pp.89-99は
「五蘊は苦なり」南伝、相応部経典(SN)XXII.13 Dukkham(苦)
「無常なるものは苦なり」南伝、相応部経典(SN)XXXV.32有験Sappāya
「生きとし生ける者の法則」南伝、小部経典 経集(Suttanipata) 三、八 箭経 vv.574-593
「夢の如し」南伝、小部経典 経集(Suttanipata) 四、六 老経 vv.804-813
からなります。ここでは、前二つに関してお話しをいたします。
「五蘊は苦なり」は、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊、すなわち一切は皆な苦であると知り、厭い離れ、欲を離れ、解脱し、解脱したとの智を生じよ、と教えます。そうすれば、再び、迷い(、悩み、苦しむことを繰り返す、苦蘊)の生活にもどることはない、と知ることができるのです。
「無常なるものは苦なり」は、眼は無常(、ここでは、歳とともにおとろえること)であり、苦(、ここでは、患いによる苦痛など)であり、わが有(もの)でない、とします。耳、鼻、舌、身、意、すなわち六根すべてについても同じです。
この眼は「わが有(もの)でない」とは、私の自由にはならない、というほどの意味です。自分の自由にならないものを「わが有」とすることから苦が生じます。自分の自由にならないものを「わが有」とすることから離れよとなれば、私たちも納得することができるようです。
わたしたちは、六根を通して、外部のありかたを知ることができます。でも、眼は外部のありかたを正しく見ている、もしくは、正しく見る能力を有しているのでしょうか。耳はどうでしょうか。
仏さまは五眼を有しておられるといいます。(本位牌の開眼 仏眼、天眼、肉眼など2025-10-11参照)私たちが有しているのは肉眼のみです。そのことを肝に銘じて、毎日を過ごします。
本日は午後から、久しぶりに護摩を修します。午前中には最低限の準備だけは済ませました。