本日、満中陰の法要があり、本位牌(memorial tablet)の開眼(開眼するto consecrate)を伴います。仏さまがそなえられるという五種の眼についてお話しいたしました。お寺に戻ってから、『望月仏教大辞典』「五眼」を調べてみました。

 

『望月仏教大辞典』は、『大智度論』巻第三十三の記述を引用しています。それは以下の通りです。

 

(305c17)菩薩摩訶薩欲得五眼29者。(c18)當學般若波羅蜜。

(復た次ぎに舎利弗よ、)菩薩摩訶薩、五眼を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。

 

30論何等五。肉眼天眼慧(c19)眼法眼佛眼。31肉眼見近不見遠見前不見(c20)後見外不見内見晝不見夜見上不見(c21)下。以此礙故求天眼。

何等か五なる。肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼なり。肉眼は、近きを見て遠きを見ず、前を見て後を見ず、外を見て内を見ず、昼を見て夜を見ず、上を見て下を見ず、此の礙(さわり)を以っての故に、天眼を求む。

 

肉眼(にくげん)は、障害物があれば見ることができない、など、一般にいう私たちの眼のはたらき、肉眼(にくがん)と同じです。

 

得是天眼遠近皆見。(c22)前後内外晝夜上下悉皆無礙。是天眼見和(c23)合因縁生假名之物不見實相。所謂空無相(c24)無作無生無滅。如前中後亦爾。爲實相故(c25)求慧32眼。

是の天眼を得れば、遠近を皆な見、前後、内外、昼夜、上下も悉く皆な礙(さわり)なし。是の天眼は和合因縁生(の)仮名の物のみを見て実相を見ず。(実相とは)謂わゆる空、無相、無作、無生、無滅なり。前の如く、中、後も亦た爾かり。実相の為の故に、慧眼を求む。

 

天眼は、天人がそなえる眼のはたらきをいうのでしょうか、障害物があっても、遠くても、暗くても、問題なく見ることができる、とあります。過去・未来のことがらも知ることができるのでしょうか。ただし、実相(ものごとの真実のあり方)は知ることはできません。実相とは、空(śūnyatā)、無相(animitta)、無作(= 無願apraṇihita.この三つを三解脱門ともいいます)、無生・無滅(= 不生・不滅)をいうとあります。実相を見るためには、慧眼が必要です。(「前の如く、中、後も亦た爾かり。」とはこのような意味です。)

 

得慧眼不見衆生。盡滅一異相(c26)捨離諸著不受一切法。智慧自内滅是名(c27)慧眼。但慧眼不能度衆生。所以者何。無所(c28)分別故。以是故生法眼。

慧眼を得ば、衆生(の親疎等)を見ず、尽(ことごと)く一・異の相(= 差別相)を滅し、諸著(= 分別)を捨離して、一切の法を受けず。智慧、自ら内に滅する、是れを慧眼と名づく。但だ、慧眼は衆生を度すること能わず。所以は何んとなれば、分別する所なきが故なり。是を以っての故に、法眼を求む。

 

「智慧、自ら内に滅する」(分別する所なき)とは、むつかしい表現です。ただ、それがために「衆生を度すること能わず」とあるのです。慧眼は声聞、辟支仏にそなわるとされますが、ものごとの実相を見ることができます。

 

法眼令是人行是(c29)法得是道。知一切衆生各各方便門33令(306a01)得道證。法眼不能遍知度衆生方便道。以(a02)是故求佛眼。

法眼は、是の人をして是の法を行じ、是の道を得しめ、一切衆生の各各の方便門を知りて、道証を得しむ。法眼は遍く衆生を度する方便道を知る能わず。是を以っての故に、仏眼を求む。

 

法眼は菩薩にそなわるとする解釈もあります。

 

佛眼無事不知。覆障雖密無(a03)不見知。於餘人極遠於佛至近。於餘幽闇(a04)於佛顯明。於餘爲疑於佛決定。於餘微細(a05)於佛爲麁。於餘甚深於佛甚淺。是佛眼無(a06)事不聞無事不見。無事不知 無事爲難。(a07)無所思惟 一切法中佛眼常照。後品五眼義(a08)中當廣説

仏眼は事(= 法)として知らざるなく(= 肉眼以上)、覆障密なりと雖も見知せざることなし(= 天眼以上)。余人に於いては極遠なるも仏に於いては至近に、余に於いて幽闇なるも仏に於いては顕明に、余に於いて疑なるも仏に於いては決定し、余に於いて微細なるも仏に於いては麁たり。余に於いて甚深なるも仏に於いては甚だ浅し。是の仏眼は事として聞かざるなく、事として見ざるなく、事として知らざるなく、事として難たるものなく、思惟する所なし。一切法の中に仏眼は常に照らす。後品の五眼の義中に当に広説すべし。

 

仏眼については、「後品の五眼の義」を見よ、あります。それは、『大智度論』釋往生品第四之下、卷四十の、以下の記述をいうようです。

 

釋曰。菩薩住十地中。具足六波羅蜜乃(350b20)至一切種智。菩薩入如金剛三昧破諸煩(b21)惱習。即時得諸佛無礙解脱即生佛眼。所(b22)謂一切種智十力四無所畏四無礙智。乃至(b23大慈大悲等諸功徳是名佛眼。

釈して曰く、菩薩、十地中に住して、六波羅蜜、乃至一切種智を具足す。菩薩は如金剛三昧に入りて、諸の煩悩の習(= 習気)を破れば、即時に諸仏の無礙解脱を得て、即ち仏眼を生ず。謂わゆる、一切種智、十力、四無所畏、四無礙智、乃至大慈大悲等の諸功徳、是れを仏眼と名づくればなり。

 

問曰。智慧(b24)見物是眼相。云何大11慈悲等名爲眼。答曰。(b25)諸功徳皆與慧眼相應故通名爲眼。

問うて曰く、智慧もて物を見る、是れ眼相(= 眼のあり方)なり。云何が大慈悲等を名づけて眼と爲す。答えて曰く、諸功徳は皆な慧眼と相応(そうおう)するが故に、通じて、名づけて眼と爲せばなり。

 

復次慈(b26)悲心有三種。衆生縁法縁無縁。凡夫人衆生(b27)縁。聲聞辟支佛及菩薩初衆生縁後法縁。諸(b28)佛善修行畢竟空故名爲無縁。是故慈悲亦(b29)名佛眼。已説佛眼。今説佛眼所用。是眼無(c01)法不見12不聞不知不識。

 

復た次ぎに、慈悲心に三種有り、衆生縁、法縁、無縁なり。凡夫なる人は衆生縁(困っているひと、生き物を見て、助けたいとして、はたらく心)、声聞、辟支仏、及び菩薩は初めは衆生縁にして、後は法縁(ものごとの実相を知って、有情の救済に誘う、心のはたらき)なり。諸仏は善く、畢竟空(= 最終的な段階に達した空)を修行するが故に名づけて無縁と為す。是の故に慈悲も亦た仏眼と名づく。已に仏眼を説く、今は仏眼の所用を説くに、是の眼、として見ざる、聞かざる、知らざる、識らざるなし。

 

無縁(むえん)は、「対象(縁)を選ばない仏の慈悲」(「仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもって、もろもろの衆生を摂したもう」)を指す語として用いられます。三種の慈悲については、後日考えることにします。

 

飛鳥の山田寺 国宝「銅造仏頭」白鳳時代