和英対照仏教聖典より Buddha Chp.3-Ⅰ-1 pp.50-51.
2 Buddh’s body is Enlightenment itself. Being formless and without substance, it always has been and always will be. It is not a physical body that must be nourished by food. It is an eternal body whose substance is Wisdom. Buddha, therefore, has neither fear nor disease; He is eternally changeless.
仏の身はさとりであるから、永遠の存在であってこわれることがない。食物によって保たれる肉体ではなく、智慧より成る堅固な身であるから、恐れもなく、病もなく、永遠不変である。
formless :[adjective] without a definite shape
substance:類義語 essence
Being formless and without substance直訳:[一定の、決まった]姿形をもたず、実体(*svabhava自性)なきものとして(常にあり、これからもありつづける)
an eternal body whose substance is Wisdom直訳:その本質が智慧である永遠なる身体
同じ、substanceでも翻訳上は使い分けなければならないようです。後者はessenceの意味であり、前者は materialの意味合いのようです。
fear: [countable, uncountable] the feeling you get when you are afraid or worried that something bad is going to happen
has neither fear nor disease 直訳:(死の)恐れも病もない
「病もない」に関連して、『維摩経』弟子品第三の一節「如来の身は金剛の体なり。」があります。(鳩摩羅什訳『維摩詰所説經』大正蔵No.475. vol.14.542a7-8)大谷大学きょうのことば - [2002年03月]を抜粋せずに、ご紹介しておきます。
大乗経典に『維摩経』があります。そこには維摩居士(ゆいまこじ)が登場します。居士とは、家に居る人つまり在家者のことです。維摩は大乗の智慧の体得者であり、これを登場させることにより、これまでに理想とされてきた出家者の仏教は小乗であって、大乗こそが本当の仏教であることを示そうとしています。『維摩経』の中には、維摩の立脚する大乗と、出家者のみの仏教である小乗との関係を端的に表している場面があって、維摩は仏弟子たちを痛烈に批判し、大乗の仏教を語ります。
上に掲げた言葉は、維摩が阿難(あなん)に対して「如来の身」とは何かを語ったものです。如来とは、仏・世尊(せそん)ともいい、真理(如。筆者補:真如)よりやって来た者という意味です。阿難は、だれよりも多くの教えを聴聞した仏弟子であり、長い間、侍者として世尊にお仕えした人です。彼は、世尊が(筆者補:晩年になって)病気がちなことを察して、牛乳をさしあげようと思いました。そこで、鉢を持って、牛乳を布施してもらえそうな家の門前に立っていました。そこに維摩が来て「なぜそこに立っているのですか」と尋ねました。阿難が「世尊が病気がちであるため牛乳をさしあげようと思ったからです」と答えた途端、維摩は言います。「やめよ、やめよ、阿難よ、そのようなことを言ってはいけない。如来の身は、ダイヤモンド(金剛vajra)のように壊れることのないお体なのだ。如来はさまざまな悪を断ち切り、一切の善を身に具えている方だ。それなのに、如来にどういう病気や苦悩があるというのか。黙って立ち去りなさい。」
一口に仏といっても、阿難と維摩とでは見えている仏にちがいがあります。阿難は、「世尊」の体が自分と同じような肉体で(筆者補:あり、いま)、病気がちであると見て(筆者補:心配して)います。対して、維摩は、世尊を如来として見ていたのです。「如来」の身は金剛石のようにしっかりとしたものであり、自在なはたらきをもつものであると見ています。(筆者補:金剛・金剛杵vajraに対する『大日経疏』の注釈があります。)阿難に見えているのは、仏弟子としてお仕えしている「世尊」であり、肉体をもってやがては入滅していく仏なのです。さとりを得た方であっても、肉体があるために、欲望が生じたり(筆者補:びっくり!)、病気にもなるような仏に見えているのです。しかし、維摩が見ている仏は、人間の延長線上にある「世尊」ではなく、「如来」でした。仏を仏にさせている本質、さとりそのものに彼の眼は向けられています。阿難のような仏弟子は、仏の教えを聞いてさとりを得ようとすることから、声聞(しょうもん)と呼ばれます。維摩は、その立場から見る仏ではなく大乗の教えに立った仏を示そうとします。それは欲望を生み出すもととなる肉体としての仏ではなく、世尊が目覚めた真理そのもの、法身(ほっしんdharmakāya)を意味します。それ故に、如来の身とは、どのような病気や苦悩さえも離れた金剛の体であると教えているのです。
わたしなどは、毎日朝夕薬を飲んでいます。朝は9種類、夕は3種類です。(えへん!) 投薬をやめれば、これからも仏教を学び、皆さまに少しでも有益な情報をお伝えすることもできませんので、(すぐに疲れる)この身体でも、大切に維持できればと願うからです。