主夫のコラム〜家事と育児とときどき手品〜 -14ページ目

主夫のコラム〜家事と育児とときどき手品〜

主なしごと
・主夫
・くじら保育園園長
・NPO法人ファザーリング・ジャパン関西副理事長


座右の銘
「笑ろてるパパがええやん!」
「いきあたりバッチリ」
「無限多様性の調和」

フェイスブックnoriaki.wada
ツイッターnontapapa

うちの夫婦はときどきキッチンでぶつかる。

物理的でも認識でも。
同時でも時間差があっても。

物理的・同時のぶつかりはこんな感じ。

夕食、妻がいるときは妻が作る。
僕はその横で、食洗機の食器をかたづけたり、使い終わった調理器具をどんどん洗ったりしてる。
夕食を僕が作るときでも作らないときでも、洗い物は僕の担当なので、どんどん片づけたいのだ。

狭いキッチンなので僕がいると妻の行動が制限される。これは妻にとってストレスだ。

認識・時間差のあるぶつかりはこんな感じ。

食器・調理器具・調味料の置き場所は妻が決める。
でも、僕はそれを守れない。
できるだけ守ろうとはしてるけど、違うところに置いてしまうことがしばしば。

どちらのぶつかりも、妻は自分の意見をはっきり言う。

「じゃまやねん。後でやって」
「ボウルはこっちの下。ちゃんと戻して」

それに対して僕もムッとしたら言い返すので、気まずい雰囲気になることもある。

僕がキッチンに入りはじめてもう何年もたつ。
こんなことを繰り返した、お互いにネガティブな気持ちを伝えあうことに慣れた気がする。
以前はすぐに喧嘩になってしまったことが、気まずい雰囲気ですみ、すぐに修復することが多くなった。

妻のストレスも僕の片づけの腕もマシになってると信じてる。

そして僕と同じように、妻もこのやりとりを楽しんでいると信じてる。

子どもは工業製品のように、親が思ったように完成はしない。

子どもは野生動物のように、社会に適応できないのも困る。

子どもを農作物、たとえば畑のキュウリと考えてみる。

畑は社会。社会の枠のなかで、他のキュウリと調和しながら育つ。
キュウリの成長に必要なものは3+1。
土と水と日光、そして空気。

土は子どもの周りの環境。
遊べる環境、学べる環境、そして何よりも人同士が助け合って生活している環境だ。
それを用意することが土を耕すこと。

水は愛情。
それも無条件の。
聞き分けのいいあなたがすき、勉強できるあなたがすき、走るのが早いあなたがすき、ではない。
どんなあなたでもそのままのあなたをわたしは愛してる。
愛情は親からだけじゃなくて、周りの大人なら誰でも与えてやれる。

日光。これは社会情勢。
不況に世界情勢、災害など、親の力だけではどうにもできないことも多い。

そしてもう一つ、空気。
これがいちばん難しいかもしれない。

文字通り世間の「空気」
人はこう生きなきゃ、男なら女なら、子どもなら大人なら、
という子どもの周りの「空気」をできるだけ自由にすること。
親子関係は世間の空気と戦えるはず。

畑の中で調和する必要はあるが、空気は自由なはずだ。
この引っ張り合いっこ。

土を耕して、水をやる。 そして天に祈る。
空気を支配しようとするもとのは戦う。
あとは子どもの成長する力を信じる。

親にできることはこれくらいだと考えている。

たとえは農作物ならなんでもいい。キュウリにしたのは僕の娘の好物だから。
子育て農業論でした。
経済繁栄の中で戦後日本社会は勘違いをしていたのではないか。

子どもはこう教育すればこう育つ。

いい幼児教育を受けさせて、いい学校に通えれば、いい企業に入れて、言い家族を作って、幸せな大人になる。

材料を工場に入れれば、設計通りの製品ができるみたいに。

運良くそうなる人もいるかもしれないし、何万人かにひとりは華々しい成功を納めるかもしれない。

でも、成功と幸せは別だし、そもそもほとんどの子どもは大人の思い通りには成長しない。

社会そのものだってどんどん変わる。
親や教師がその時代に判断する「いい教育」が、その子が大人になった時代にはまったく時代遅れになっているかもしれない。

小学校時代、ザリガニの写生をしたとき、担任からクラス全員が同じアングル(上から)で同じ筆で同じ絵の具で、同じ順番で描くことを指導された。

ザリガニを頭から描くことになってたけど、僕は髭から描きたかった。
でも、髭から書いたら叱られた。
先生の言ったことを聞いてなかったのか、みんなと同じにしなさい、と。

教室の後ろには全部ほとんと同じザリカニの絵が並んだ。
教師はよかれと思って指導したんだろうし、親も不満はなかったようだ。

同じザリガニを同じ順番で描く教育的効果… もしかしたらそれがあった同級生もいたのかもしれない。
でも僕には、叱られた記憶と、教室の後ろに同じザリガニの絵が並んでいることが気持ち悪かった記憶だけが鮮明だ。

その後の学校教育はより個性を重んじる方向に転換し、今の小学校でこのような指導はほとんどない。

これは極端な例かもしれないし、同じ絵を描く教育と個性を重んじる教育、どちらか正解というのもない。
時代によって社会の要請が変わるだけ。

ただ、どう変わるかはともかく、確実に変わる、ということだけは頭においておいたほうがいい。

今の情報を元に、子どもの将来を予測することは不可能。
予測しすぎると親も子どもも縛られてしまう。


「人に迷惑をかけてはいけません」

多くの日本人が親から言われ、世間から言われたことがある言葉。
僕自身も我が子に言いがちな言葉だ。

流行りの「自己責任論」もここからきている。

でも、これは建前だ。
人に迷惑をかけずに子どもが成長出来るはずがないし、大人も生活できるはずがない。

「他人に迷惑をかけない」は日本人の美意識。
これそのものを否定するつもりはない。

ただし、美意識は自分で自分を戒めるためのもの。
自分を成長させるための道具として使うものだ。
もちろん、人に押しつけるものでもない。

道具を道具以上に扱ってはいけないし、建前を真に受けてはいけない。

真に受ける人が増えると、自殺と孤独死が増える。

人に迷惑をかけるくらいなら、ひとりで死ぬ。
本末転倒。よりよく生きるために使うべき道具や建前のために死んではいけない。

「あなたは人に迷惑をかけるのだから、人には優しくしなさい」
ある国ではこう教えるそうだ。

どっちの社会で子育てがしたいですか?
しばしば男性から「おばちゃんっぽい」と言われる。
男性からみたらそうかもしれない。主夫やってると知ればなおさら。

でも、地域活動で女性ばかりの中に入ってる僕はぜんぜんおばちゃんではない。
女性たちの話には全くついていけない。

あの会話展開の複雑さ・大胆さ・繊細さはスゴイ。
男性が同じレベルで会話するのは無理ゲーだ。

僕もついていけてない。だけどその場にいる。
話をうんうんと聞いたり、その場にいる子どもと遊んだりしてる。

聞かれたら答えるけど、無理に自分から話に入ろうとはしない。

地域活動に入りにくいという男性は多い。
小学校のPTAもほとんど女性だ。
共働き率は6割を越えてるのに。

多くの男性は地域活動での自分の役割がわからないので不安だ。
思い切って入ってみても女性たちの会話についていけなくて、さらに不安になる。
そして足が遠のく。

はっきり言う。
地域活動に入ったばかりの男性に最初から役割はない。

役割は地域活動の現場にいるうちに与えられたり、自分で発見したりするものだ。

これって仕事といっしょでしょ?
男性は新入社員。

だから不安がらずにまず入って、とにかくその場にいればいい。

大丈夫。
地域の女性たちは優しいし、不器用でも地域の役に立とうとしている男性を歓迎してくれるから。