ドキュメント72時間「大阪コリアタウン」歴史と共生の物語 | 三匹の忠臣蔵

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SNSでは、先日放送されたNHKドキュメント72時間「大阪コリアタウンで会いましょう」の感想が多いので、長文ですが街の生い立ちをまとめてみました。

 

古代、百済の渡来人が築いた地、猪飼野

「在日」が多く密住し、かつて猪飼野の地名で親しまれてきた生野区は、古代、百済からの渡来人が多数居住した地でもあります。生野周辺には百済に関連する地名が多数残っています。

特に、生野区北方旧鶴橋町に属した一帯は、もともと百済郡百済郷の地で、仁徳天皇のころ、百済から渡ってきた帰化人の集団居住したところといわれています。この地を南から北へ縦断する旧平野川は百済川とも呼ばれていました。

土木技術集団であった百済からの渡来人は、上町台地東側の河内湖の干拓、耕地化、架橋、難波の堀江の開削等、大阪繁栄のための骨格を作ります。

 

「猪飼野」という地名の由来

猪飼野の地名の発祥は「日本書紀」の仁徳十四年のくだりにある「猪甘津(いかいのっ)に橋を為す。よって小橋と号(なづ)く」にもとめられます。

猪飼野の北に河内湾があり、津、港があり、渡来人の職業集団が百済野の地に豚や猪を飼っていたことから、「猪甘津」から「猪飼野」へ変わったといわれています。
 

工業の隆盛と朝鮮人労働者の流入

第一次大戦で大阪市は「東洋のマンチェスター」といわれるほど工業の隆盛を極め、湿地帯の猪飼野の安い土地に多くの工場が進出します。

当時、大阪有数の農村であった猪飼野は、宅地需要のため宅地造成を目的に1919年、鶴橋耕地整理組合が結成される事になります。

蛇行する平野川の改修工事は難航を極め、多数の朝鮮人労働者が動員されました。運河沿いの猪飼野では、開削工事と旧川の埋め立て工事の期間中、労働力として朝鮮から呼び寄せられた知人や親戚縁者によって人口が急増しました。

1910年に日本が朝鮮を併合し、朝鮮人は日本人となり、1923年2月には大阪と済州島の直接航路が開かれてから多くの人が海をわたります。
 

戦後の無国籍と済州島出身者の増加

しかし戦後、日本政府により国籍が一方的に剥奪され、日本人だった朝鮮人は無国籍となります。そして当時は「朝鮮」という国は存在せず、国ではない地域名称である「朝鮮籍」となります。

今も残る「朝鮮籍」は国籍ではなく、日本国憲法上、朝鮮の北側でも南側にも属さない一種の難民扱いとされ、歴史的な経緯に基づき、特別永住者などの在留資格を有しています。
さらに、朝鮮戦争の混乱や「4・3事件」などで渡航者も増え、在阪朝鮮人の22%が済州島出身者となります。
 

コリア・ゲートの建立でコリアタウン誕生

70年後の1993年、生野区の御幸通商店街の東と西に、民族色豊かな大きなコリア・ゲートが建てられました。
「在日」の文化を生かした街づくりを、全体の四割を占める日本人商店とともに始めた記念碑的なゲートです。

歴史的な由緒のある地名の猪飼野は、1973年の新住所表示の施行で鶴橋、 桃谷、中川と金属音のする地名に変わりましたが、新しい共生の時代のシンボルとしてコリア・ゲートが建てられ、町の装いも一新されました。
 

新たなる旅立ち、共生の街へ

歴史的な猪飼野の再生のために日本人とともにコリアタウンへ飜身しようと、10年間じっくりお互いの英知を出し合っての検討が続けられて結実します。

猪飼野の氏神さん御幸森天神宮から、東端の平野川に架かる御幸橋までの500mの両側には120軒の店がありますが、その60%以上が「在日」で、東、中央、西の商店街を総称して御幸通商店街と呼びます。
これが後のコリアタウンとなります。
 

活気を取り戻したコリアタウン

活動の介もあり、コリア文化に関心をもつ新しい客が着実にふえてきたことで、韓国の凧、将棋、楽器、食材の種類も豊富になり、活気がもどります。

2000年になると、商店街の中央に「韓日共催2002年ワールドカップを成功させよう!」という横断幕が掲げられ、共生の街の新しいスローガンとなります。

街の活性化に大きな力となったのは、 民族のルーツを探る若い世代が1982年秋、既成の民族団体に頼らず、自主的に生野民族文化祭を挙行し、現在に至ります。