加藤さんの歌ってずっと身近にあったのでショック。
それこそ物心ついたときからってこの事です。
私等の年代は、
『帰ってきたヨッパライ』が歌謡曲を聞くきっかけになったんとちがうでしょうか?
その人たち(クルセダーズ)が次に歌ったのが『イムジン河』、
何かもめてたのは子供心にも分かりました。
そこでちょっとググッたらこんな記事にヒット。
『帰ってきたヨッパライ』の大ヒットでプロデビューしたフォークルが、第2弾のシングルレコードとして制作したのがアマチュア時代からの持ち歌『イムジン河』(1968年)で、もともと北朝鮮の愛唱歌だったこの歌が日本語で歌われるようになったいきさつは、井筒和幸監督の映画『パッチギ!』で紹介されたとおりです。
レコード発売もとの東芝音楽工業(当時)はこの曲を「朝鮮民謡」として扱いますが、実は北朝鮮の愛国歌(国歌)の作者としてかの地で著名な朴世永の作曲によるものであり、朝鮮総連はその事実を明らかにするよう東芝に申し入れをします。日韓国交(1965年)から間もなく、日本資本が経済成長へのアプローチに入った韓国市場目指して続々と進出し始めたこの時期、問題の政治化を嫌ったのか東芝は直前でレコード発売中止を決定し波紋を呼んだこともよく知られています。
『イムジン河(臨津江、リムジンガン)』原曲の詞は2番まであり、1番はフォークル版同様、軍事境界線を流れる川と水鳥に故郷である南の地への思いを託し内容。2番は食料用に植物の根が掘り返され乾いて荒れすさんだ南の野を哀しみ、北側の社会主義共同農場では稲穂の海が波打つように踊っていて「イムジン河の流れを分かつことはできない」と歌います。
今から見れば冗談のように聞こえますが、この歌のつくられた1960年代初期、韓国は未だ貧困のどん底にあり、中国とソ連の支援を受けて朝鮮戦争後の復興建設に力を入れていた北朝鮮にさえ経済力では水をあけられていたのですから、あながち虚構のプロパガンダとばかりは言い切れません。
フォークル『イムジン河』と在日朝鮮人より。
『イムジン河』といえば井筒和幸監督の映画『パッチギ!』。
「リムジン河」は1957年につくられ、京都の朝鮮学校にサッカー大会を申し込みに行った中学生(当時)松山猛がたまたま聴いて感動した。
その後、大学生となった彼が関わったザ・フォーク・クルセダーズにおいてアレンジ(歌詞の一部、3番新設)、朝鮮民謡「イムジン河」として発表され、反戦フォークソング的地位を得(彼らはこの歌を本当に朝鮮民謡だと思っていた)、東芝がレコード化を進めた。
映画『パッチギ!』は、松山猛と「リムジン河」の出会いを「原点」に創作された作品である。
そういう事やったんですね。
聞いててすごく綺麗だったので、
これが本家?
加藤和彦さん、
いい歌をたくさんありがとう。