やしの木こんにちは、文筆家、エッセイスト、絵本原作者の木谷美咲です。やしの木やしの木

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根本昌夫先生の小説教室第2期の1回目を受講してきました。

いつものように受講者の作品と課題図書の合評を行いました。

 

今回提出された作品は1本のみ。

課題図書は岩波文庫の日本近代短編小説選昭和篇1から太宰治の「待つ」中島敦の「文字禍」

併せて太宰治『津軽』中島敦『李陵』でした。

 

 

 

 

 

 

 

この課題図書の中で読んでいないのは「文字禍」だけ。

3作品は読んだことがありました。

 

しかし、読むのは多分30年ぶりくらい!!

 

30年!

 

どれほどの月日が経ったのか目眩がしました。

 

学生時代、太宰治作品が好きで、全作品を読んでいます。

15年前くらいに斜陽や人間失格など著名な作品を少し読み返して、その巧さ、率直さのバランスに、

やはり素晴らしいと唸りました。

 

久しぶりに対峙する太宰治は、自分の心にどんな影を落とすのか、正直不安でした。

 

そんな不安と期待が交錯する久しぶりの読書でしたが、

『津軽』の内容をすっかり忘れていました笑

あんなに好きだったのに。

ですが、忘れてはいても、意識下からその存在は消えてはおらず、

思ったよりも自分の血、肉、骨になっていたことに気付かされました。

文体やリズムよりもさらに深くDNAに刻まれているような感覚。

そもそも文体やリズムさえも、形式的なものではなく、本来思考を形作るものなのかもしれません。

 

文学作品からは、考え方に大きな影響を受けてしまうことを改めて思ったのです。

しかも、それが自分の今の生きづらさにも繋がっていることも。

年を重ねて、ずいぶん生きづらさから脱却できた今だから、

ようやく気づけたのかもしれません。

 

精神が形成されていく時期に読んだ本は、自分が思うより強い影響があるのかもしれません。

自分自身にその素地があるからこそ惹かれて、影響を受けた可能性もあるので、鶏と卵ですが。

それでも、その時に読んだ本が別の本だったら、私は今とまったく違う人間になっていたのかもしれません。

 

やはり文学は毒だなぁと。

でも、薄まった今は、薬にもなっています。

いや、きれいにまとめ過ぎたかな。今もまだ毒かも。

 

さて、今回の根本昌夫先生による太宰治評も面白く、勉強になりました。

先生曰く、太宰は皮膚感覚で語る作家。論理や理屈では書いてはいない。

そして優しい人、怪物になった自分を描かなかったから世界的な評価を得られなかったとのことでした。

 

確かに、太宰治は作中で大きな出来事をさらりと書き過ぎているところがあるのは気になっていました。

例えば、使用人から性虐待を受けていたことをさらりと書いていたり、その影響は大きいものだと思われるのに、

深く掘り下げるのを避けている節があること。

自虐はあるのに、他者への批判、攻撃性が頑ななまでに無いことなど。

自虐も太宰自身が言っているように読者へのサービス精神であって、自己批判ではないこと。

(アダルトチルドレンのいわゆるピエロですね)

本当に書きたいことは書けなかった?直面せず、かわしていたのかもと思います。

 

先生による受講生の方の提出作品への評価も勉強になりました。

(受講生の作品が)説明的すぎる。小説はもっと説明的ではなく、読んでいて抵抗感を覚えるくらいでないと、

読みやすくなってはいけない、と。

削るべき箇所も具体的に指摘されていて、こちらは実践的で、なるほどと思いながら聞いていました。

 

2期から、新しい方が増えて、文学新人賞に投稿している方の層の厚さを改めて感じましたアセアセ

私も文学賞に投稿しています炎

いまだに結果は出ませんが、諦めなければ失敗ではないという気持ちで、

挑戦し続けたいと思います。毒は抜けず、毒を作る側に回るのです。