iPhone5が届かない。 | 無題

無題

いろいろと

先月の23日にiPhone5をauショップで予約してきた。

貰ってきた予約票を見ると、
ちょうど昨日で予約有効期限が切れるということがわかった。

私はショップに電話することにした。

今日で有効期限が切れるということを伝えると、
確認しますと言われ、しばらくの間保留音が流れた。

仕事柄、様々な企業の保留音を耳にする。
auショップの保留音は忘れてしまった。
私が好きな保留音ベスト1は、「峠の我が家」なのだが、
auショップの保留音は「峠の我が家」ではなかった。

「峠の我が家」にはちょっと思い入れがある。
子どもの頃、夕方5時になると流れるチャイムがこの曲だったからだ。
裏の家の同級生と、用水路で雑草ジュース(観賞用)を作ったり、
村全体を使ってかくれんぼをしたことや祖母の家の年老いた猫や、
目が痛くなるほどに赤かった空を思い出す。
あの頃は喘息持ちだったので、その胸の苦しさを思い出す。
浅くしか息を吸えないあの感覚は、いつも楽しさや幸せと共存していた気がする。
どういうわけか。

プツリと保留音が切れ、
「あと1、2週間はかかります。申し訳ございません」
と告げられた。

あと1、2週間か。きついなあ。
と私は思った。
最近ウィルコムだけだと生活に支障が出ることが判明した。
いちばんメールを送受信する機会が多い簿記のスクールが圏外なのだ。
先日は30回ほど送信しても全てエラーが出て、かなり腹が立った。
まだiPhone5が届かないことにも腹が立った。
簿記の講義がわからなすぎて腹が立った。

昔の人は携帯もなしにどうやって生活していたのだろう。
かなり腹が立ちまくりだったに違いない。

いや、はじめから「離れていても他人とコミュニケーションをとれるツール」の存在を知らなければ、もどかしさなんて感じることもないのかもしれない。

今会いたい人に会いたいと言えない。
そばに居る人にしか今を伝えられない。遠くにいる人に伝えるには時間がかかる。
そういう不自由さが、逆に何かを引き立てる要素になっていたのかもしれない。
人と触れ合うことの貴重さを際立たせたりしたのだろうか?

私は便利が好きだけれど、たまにそういうことを考える。