異常気象という言葉も常態化されて、地球レベルで何が起きているのか、あまり考えたくないのが人間の心理ではあるが、災害に直結する気象変動が多いことが心配である。
それにしても、最近の雨には情緒がない。
雨といえば、私は、B・J・トーマスの「雨にぬれても」やクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの「雨を見たかい」などをすぐ思い出すが、日本の歌にも、しんみりと雨を歌った良い曲が沢山ある。
さて、この雨の中を、昨日、立山道ウォークの一行がスタートした。初日は上滝線などを利用しての緊急措置となったと聞いている。今日からお天気は少しずつ回復する予報なので、きっと元気に室堂に向けて出発されていることと思う。
昨年、立山山頂まで三日間歩き通したことが懐かしいが、なまってしまった身体をなんとかしなくてはと、雨を見て様々なことを感じた次第である。
晩夏。風立ちぬ。
宮崎駿監督作品のジブリ映画はまだ見ていない。
この映画が、航空技術者の堀越二郎と小説家堀辰雄に捧げられていることにもすこぶる興味がそそられる。
堀辰雄の小説「風立ちぬ」は、堀が訳した、ポール・ヴァレリーの詩の「海辺の墓地」の一節「風立ちぬ、いざ生きめやも」からとられたものである。
「風立ちぬ」は、死を越えて生きることの意味を考えさせる恋愛小説だ。
一方、ジブリの映画からは、いつも優れた文学性を感じさせられる。
それゆえ、先般、禁煙学会から、この映画に喫煙シーンが多いとの理由でクレームが出されたというニュースには呆気にとられた。
私は煙草を喫わないし、ケムリは嫌いだが、映画で喫煙シーンが多くても全く気にはならないし、かつておじいちゃんたちが、至るところでキセルで煙草を喫っていた古きよき時代を思い出させる。
それゆえ、そのようなクレームは全くナンセンスであるし、芸術表現のなんたるかを理解できない人々の集まりなのかと見識を疑ってしまう。
おそらく、ジブリ映画の影響力の大きさを斟酌して、教育や禁煙の啓発上の問題などを憂慮されたのだと思うが、そのような考え方は芸術から最も遠い位置にあるといえる。
そのような些末なことで小説や映画「風立ちぬ」に込められた大きなメッセージを見失ってはいけないのだ。
堀が人生の大部分を過ごした軽井沢。私は青春の痛みを思い出すかのように、軽井沢の追分にある堀辰雄の文学館に時々足を運ぶ。
いずれにせよ、それぞれの「風立ちぬ」を、さまざま人生のステージで考えることはとても大切だと思う。
















