乏しい時代にあってこの頃、しばしば「乏しい時代にあって何のための詩人なのか。」というドイツの詩人ヘルダーリンの有名な言葉が脳裏をよぎる。詩人であることは、人間であることを、芸術として生きることでもあろうし、また、悦びの中に憂いを、憂いの中に悦びを噛みしめることでもあろうか。そして、豊かさとはいかに蓄えたかではなく、いかに他者と分かちあうことができたかなのだろう。普段、なにほどの言語表現ができているのか、甚だ疑問だが、志だけは高く持ちたいと思う。
まつりのあとで誰にも気づかれないように暮れていく街をパステルカラーで染めよう奇跡がおきる場所は心の中にこそあるきみとめぐりあった意味をふと考えるまつりのあとにみた名前の知らない花はるか遠くできみの波動を感じた
つながるつもりゆくふぃるむのようなぐうぜんのじかんをみちのくうかんでだきしめることでいまきみのなかにねむっていたすべてのきずながよみがえりだれもしらないよるがゆっくりとあけていくのだ いのりよりもふかくしずかにただしずかにてんめつするうちゅうでかみはるりのひかりをこおらせよいんをただひとりたのしむ
どこにもいない、ここにいる二人分の足音が突然、水辺から消えてゆっくりと僕の身体を侵食していったのはいつのことだったろうかいくつもの時間と空間を超えて空っぽの果実が 庭先で哭いているこの夕焼けはどんなふうに見えますか?僕はきょうも未知のきみと出会うために異数の世界の入口で耳を澄ましている