バスルームから出てきたマリテスは、バスタオルを体に巻いたままベットに腰掛けた。

私は、彼女を優しく抱き寄せてバスタオルを掃(ハラ)った。

そして私は彼女が女性であるか自然に任せて確認をする。

もちろんマリテスは女性だった。

真面目な話、私は内心ほっとした。

女性である事を確認した私は、マリテスを全身全霊で愛した。

(ヒタイ)から数センチづつ下へ小まめに丁寧にキスをしてゆく、首筋は特に念入りに、そして首から下は唇を軽く引きずりながら念入りにSipsipin(シプシーピン)しながら愛撫(アイブ)をしてゆく。

マリテスは、特に臍(ヘソ)の周辺と内ももに関しては、全身を使って喘いで応えてくれた。

私のリップ・サービスは時間をかけて足の裏までたどり着つく。

(ヘソ)と内ももをもっとも悶えるBabae(ババーエ)は、Pekpek(ペクペク)の感度がいい。

余談だが、こういうBabae(ババーエ)Pekpek(ペクペク)Kainin(カイーニン)すると「Ang Sarap!(気持ちいい)」とか「Isa pa nga! Isa pa nga!(もう1回・・・)」などと喘ぐケースが多い。

次に私は、ゆっくりと唇がマリテスの体から離れないようにマリテスの豊満なSuso(スーソ)まで上がった。

そして、乳房は焦(ジ)らすように、一気にUtong(オトン)にはゆかず、Utong(オトン)の周りをクルクルと何週も舌でHimurin(ヒムーリン)する。

反対のSuso(スーソ)も、私の中指を舌の様に操り同じように刺激をする。

マリテスの官能が高まりを見せる。

このマリテスの顔の表情を待っていたかのように、同時に私は空いた手の指でマリテスのHiyas(ヒヤス;語源は「宝石」)を刺激する。

最後の仕上げにUtong(オトン)を優しく私の口に含み、Dila(ディーラ)で転がす。

マリテスの反応を上目遣いに観察しながら、タイミングを見て歯で軽くUtong(オトン)を噛む。

マリテスの額が皺(シワ)なって、この刺激のよさに応える。

私自身、Utong(オトン)には強い刺激を好むので、シグナルとして これを何回も繰り返しマリテスに教えた。

Utong(オトン)の刺激を何回か繰り返し、マリテスが程よい刺激になれた頃、今度はHiyas(ヒヤス)にも同じ事を繰り返す。

この時にもマリテスの顔の表情と額の皺(シワ)をつぶさに観察をしながら、Ang Sarap(アンサラップ)!Masakit eh(マサキトゥエ)!を繰り返し、体全体をじっくりと慣らしてゆく。

この愛撫(アイブ)の過程で、手を抜くとIpasok(イパーソック)の時のBabae(ババエ)Pekpek(ペクペク)の感じ方が大きく違うという。

私は、マリテスの耳元に吐息を吹きかけた後で、共に囁いた。

『テス、Saan ka ba nasasarapan?(一番感じるのはどこ?)

Oo,diyan!(そこよぉ)

その時、私は強くHiyas(ヒヤス)を押しながら指先で左右に小刻みにVib(震わ)せていた。

私はマリテスが絶頂な気持ちを味わっている最中に、そっと二人の体位を入れ替えて、一切の愛撫を止め上向けに寝そべる。

すると、マリテスは、「御代わりを下さい。」と言わんばかりに、私がマリテスに施した時と同じように愛撫(Haplusin)をしてくれる。

もうかれこれ1時間以上、愛撫(Haplusin)しあっただろうか?

私は、マリテスにご褒美としてKainin(カイーニン)を試みる事にした。

私のUtong(オトン)にしゃぶり付きながら、片手でTiti(ティティ)を扱(シゴ)くマリテスの体位を維持しながら、私はマリテスのPekpek(ペクペク)の下に口を持って行った。

予想通り、マリテスは嫌がらない。

むしろマリテスはKainin(カイーニン)しやすい様にLomo(ロモ)を落として、Pekpek(ペクペク)を私の顔に近づけた。

私は、この世で最もいやらしい音をたてながらマリテスのPekpek(ペクペク)Kainin(カイーニン)した。

マリテスのLomo(ロモ)Kainin(カイーニン)のよさを物語るかのようにくねくねと、且つPekpek(ペクペク)は私の顔に押し付けながら悶え狂った。

こんなに興奮するSEXは始めてかもしれない。

とてもMasalapAng Sarapな愛撫だ。

Kainin(カイーニン)の仕上げとして、私はマリテスのHiyas(ヒヤス)を唇を挟んで噛むように刺激をした。





まだまだ、快楽の追求は続きのであった。(【快楽】中へは、Part3へとつづく)

【前編:入り口】

まだ残暑の残る二人の休日に、私はキャンピング・カーを借りてマリテスと海へと出かけた。

いまから20年ほど前に、よく一人で行った海だ。


時は、3時40分。

マリテスの勤めるパブ近くに車を停めマリテスの帰りを待った。

道中、軽く食事をとって海辺に着いた。

時は、5時04分。

まだ日の出まで2時間ほどある。

私はキャンピング・カーの座席を持ち上げてベットを作った。

二人は、キャンピング・カーのベットで自然に抱き合いながら寝た。

実は、この頃の二人はまだ肉体関係はなかった。

でも自然に、何の抵抗もなく二人は抱き合ってしばらく眠った。


しばらく熟睡した。

フィリピン女性の体温は日本人にとっては、ほどよく温かく季節も手伝って気持ちよく眠れた。


差し込んできた日差しの強さで私は目覚めた。

時は9時45分。

マリテスは、まだ寝ていた。

私は、少し暑いくらいだったが、体温の高いフィリピン人には少し寒いようだった。

私は、マリテスを起さぬように上着をかけて、そっと外へ出て深呼吸をした。

日差しは眩しいが、もう秋の匂いがする。

真夏には賑わっていたであろう砂浜にも、もう誰も居ない。

この海も、今年の夏の思い出と共に忘れ去られようとしていた。

私は、そんな海が昔から好きだった。

マリテスに日本の海を見せたかった。


時は、10時28分。

起きたマリテスが、思いに耽(フケ)る私に声をかける。

『綺麗ね。日本も海、綺麗なのね。』

『テスは日本の海は始めてじゃないでしょう?』

『初めてです。

 今までの日本人の恋人も海とか、アウトドアはあまりないから。

 それと、Ako()は、泳げないから、フィリピンでもあまり海は行ったことないの。

海を見るのはマニラ・ベイくらい。

Akoの住んでるマリキーナには川があって公園があるくらい。海はないから・・・』

『なぜか私達、日本人からするとフィリピンと言うと海のイメージがあるから。

安易に海を選んでしまった。人間って思い込むと・・・・・・・・・・・・

そうか、テスは泳がなかったんだぁ。』

Oopo

フィリピンのイメージはセブとかボホール、パラワンだから。OK Lang(大丈夫よ)

ビザヤの娘たちは、ほとんど泳げるけどね。』

『テス!私はこう見えても学生の頃は水泳の選手だったんだよ。』

『ん~ん。あなたはスポーツマンでしょ。今でもそう見えますよ。

マッチョだものね。』

気がつけば、もうここには三十代後半の中年ブトリしたオッサンは居なかった。

この数年間で、体も引き締まり32インチのGパンが穿()けている。

体重も20㎏ほど減り、数年前のどん底から見れば別人のようであった。


以前の私は、ブヨブヨになった自分の体にコンプレックスを持っていたせいか、また外国人とのSEXに不安があってか、奥手になっていた気がする。

でも、今はその不安もない。

そう諭(サト)すかのようにマリテスに導かれるままに、その日の私には自信が漲(ミナギ)っていた。

二人が急接近してから1ヶ月が経った頃だった。

思い起こせば、私はこの数年、愛あるSEXをした事がなかった。

日本人の妻ともセックスレスの生活が6年以上続いていた。

もっぱら私の性処理といえば、たまに友人達とノリで行く風俗店で抜くのが精々(セイゼイ)だった。


この頃、私は37歳の秋を迎えようとしていた。


この日は、1日中この浜辺にいた。

逗子の海を満喫した1日であった。


時は17時00分。

夕日が綺麗に海を照らしていた。

辺りは一面のオレンジ色、海が宝石のようにキラキラと穏やかに揺れていた。

私は片づけをしてマリテスと一緒に車に乗りこんだ。

二人はしばらく、この綺麗な宝石箱を眺めていた。

『ねえテス。今日はどこか泊まって、明日帰ろうか?』

Oopo(はい)

それから、私はゆっくりと車を出して帰路とは反対方面に走らせた。

時は17時20分。

辺りは日没を迎えようとしていた。

そして、数分後に周囲は夜景と化した。

私は前方に煌々と光る看板にウィンカーを出した。

車を停めてマリテスの手を繋ぎながら部屋に入った。


私が先にシャワーを浴びて、マリテスと交代する。

私はTVをつけてベットで寛ぎながら、マリテスが出てくるのをまった。

実は、私は1ケ月ほど前にマリテスと同じ店のタレントとラブホテルに入った。

しかし、彼女は性同一性障害・・・・・早い話がオカマだった。

こんなショッキングな経験をしていたせいか、今日は胸の高まりすらあっても、変な緊張感はまったくなかった。

マリとの劇的な出会いがきっかけで、その昔フィリピンへ移住しようとしていた自分の記憶が蘇ってきた。

それからというもの、事あるたびに私はマリテスにフィリピンの現状について話を聞くようになっていた。


現在のマニラ周辺は、この十数年で大きく変わったようだが、私の知っている喉(ノド)かなフィリピンは今も田舎へゆけば存在するという。

平成の日本社会へ憎悪感すら抱いていた私には、日に日にフィリピンが楽園のように思えていった。

この頃のフィリピンは、ピープルパワーと呼ばれたあの革命から15~6年が経ち、大統領は第九代大統領を父にもつアロヨ副大統領が、第二のピープル・パワーとも呼ばれたエストラーダ弾劾の結果、彼女自身が大統領に選ばれた頃である。

この国は、私が知る限りでも既に5人もの大統領が「革命」や「改革」の名のもとに政権を争ってきた。

毎度毎度、腐敗しきった政権に対して国民の不満の声を盾に「正義の味方」が現れる。

そして、その月光仮面のような存在が腐敗政権を倒して、政権を奪取する。

しかし、その月光仮面も何数年かすると悪役に転じて、新たな月光仮面に倒される。

私に言わせれば、茶番劇的な国家元首の差し替えであるが、多くのフィリピン人は希望を抱いて盛り上がっているから面白い。

アロヨの父、マカパガル大統領も、あの有名なマルコスに戒厳令を宣言されて、幼いアロヨを連れてマラカニアン宮殿を追われた経験を持つ。

その娘が大統領に返り咲いたのだから、任期中にやりたい事など誰が考えても察しがつくのに、一般大衆のフィリピン人には、それが「思いもつかない」らしい。

この時、私は思った「また何年かしたら、今アロヨを後押ししている国民の多くは、彼女を悪の象徴として騒いでいる事だろう」と。


まぁ、国家や政権は置いておいても、フィリピンという国は魅力的である。

逆に言えば、このいい加減な政治や国家があるから、この平成の世でも面白い国であり続けられるのではないかと私は思う。

多少の電力不足はあるものの、7,000もの島国の主要な島々には電気や水道、電話線など、またガタガタでバンプ凸はあるものの舗装道路などの、インフラはそこそこ整っている。

ガスはプロパンで、ミネラルウォーターと一緒に配達網も完備されていて、主要な島々には行き届いている。

飛行機は、国際線もさることながら国内線もそこそこある。

バスや船などで10時間以上かかる場所には、国内線に乗れば大抵片道1時間前後でゆける。

なのに、未だに他のアジア諸国からみれば、取り残されたような経済状況と国民レベルの低い国なのである。

発展途上国というよりも、文明はそこそこ発展しているが「庶民とその暮らしだけが取り残された国」と言った方が正確かもしれない。

何が取り残されているかといえば、一般的なフィリピン国民の意識や権利であると私は思う。

マリテスと話をしていても、自分の国だというのにルールや制度、管轄している関係団体など、まったく無知に等しい。

これは、他のタレントにしても同じ事で、多少の個人差はあっても、彼女達が即答したり、

自信ありげに言う事ほど信憑性(シンピョウセイ)に欠けると考えた方がよい。

ここで、またまた面白いのは必ずといってよいほどタレントが行き詰まると頼りにするのが「ナナイ(母親)」や「アテ(姉さん)」「ティヤ(おばさん)」などといった女性である事だ。

東南アジアに限らず、暖かな温暖な気候で貧しい国は、だいたい女性が稼ぎ柱である。

フィリピンにしても例外ではなく、現在も女性の方が勤勉で生真面目、外国人から見ても信頼が出来る。

フィリピンにオカマが多いのも、女性に対する憧れのせいだ・・・・なんて言う人もいた。

ますます、私はフィリピンへ行きたくなっていった。


以前に私は中国の上海で商売を立ち上げた事がある。

あの頃の中国は、資金がなくても日本人の知恵やコネ、日本で見れば捨てるようなものであっても勝負ができた。

まさしく童話にある「わらしべ長者」のような話が成立するような国だった。

マリテスから写真を見せられ話を聞くほど、私にはあの頃の中国のような匂いがしてならなかった。

日本がバブルで踊った頃、東南アジアもバブル成長をした。

しかし、フィリピンだけは「失われた10年」といわれる経済低迷の時期を経験する。

私自身、あの忌まわしい「バブル経済」に悩まされた一人である。

これに関係なく、取り残されたフィリピンが愛しくもさえも思えた。

あと2ヶ月ほどでマリテスも帰国する。

私は、その帰国に合わせて渡比する事に心を決めていた。

日本で押しつぶされそうになっていた私にとって一筋の希望の光が見えたように思えた。


それからというもの私は様々な方法でフィリピンを調べ直した。

もちろん「マリテス経由ティア」の情報もたくさん得た。

その結果、日本では廃車寸前10年も経った車でもフィリピンでは高値で売買されている事に私は目をつけた。

中国でも「自動車」の貿易をしていた経験から、これで一旗上げる事を決意した。

それからというもの私は、日本の自動車オークション会場をめぐり、その相場を調べた。

知り合いの中古車屋にも話を聞くと「まだまだ走れるのに日本では、これらは廃車だから二束三文だね。」などという感覚。

まさに第二の「わらしべ長者」のチャンスである。

私の名付け親がよく言っていた「商売!利は元にあり。だよ。」と、いくら高値で売っても仕入れが高く経費がかかれば意味がない。

逆に売りが安くても仕入れが安ければ儲けは大きいという意味だ。

この頃の私は、希望で大きく胸が膨らんでいた。


こうなると変わり身が早いのも私の特徴である。

これまで散々な目に会ってきた日本社会からの離脱を決意する。

私は、すぐに日本の家族と別居するために1人の住処(スミカ)をさがした。

マリテスの働くお店からタクシーで1メーター程の所に丁度よい物件があった。

私は、すぐに契約を済ませると、このマンションへの移住計画をたてた。

まず、日本の家族には別居に至る大義名分をたてる。

次に、私を取り巻く周囲の人間にもソフトランディングさせるために情報操作を行った。

そして通販で、寝具を初めとする生活必需品を入手して、数週間でお膳立てはできた。


こうなって、一番 喜んだのはマリテスである。

大抵の既婚客は「肉体関係」は望むものの同棲はできない。

私も当初は、タレントであるマリテスと毎日一緒に暮らすために別居に踏み切ったわけではない。

それに、もちろん仕事で来日しているタレントと同棲など無理な話だと思っていた。

ところが、彼女は「本当に愛あれば、何でもダイジョウブ・・・・」と言っている。

しかし、正直 少し困惑した。

男である私は、とかく体裁やルールなどを重んじてリスクを回避したがる。

しかし、「女」という生き物は、時に「全てを捨てられ」、そして「愛を旗頭」にどこまでも進める生き物なのである。

しかも、お店のシキタリも関係ないといった感じで、以前のジーナとは違いマリテスは簡単に言い放った。

『じゃあタク。NextWeekから私、ここに帰ってくればいいわね?

これからずっと一緒ね!毎日・・・・・』

男は、こういう光線を発している時の女の前では無力である。

本心は「えっ?」と疑問符が飛び交う頭のままで、私は軽くうなずき肯定をしてしまった。

渡比の希望を前に2001年の夏が終わろうとしていた。

時に私は37歳であった。

フィリピンのBUCO Juice(ブッコ・ジュース)が売っていたので、私はそれを買おうと人ごみへ紛れた。

ここの露天商のフィリピン人女性は、歳の割にはすごく小綺麗だった。

おそらく彼女も二十年ほど前にタレントとして来日したに違いない。

今は、Ate(タレント達の先輩)化している。

子連れの露天商も少なくない。

私の順番がやっと回ってきた。

『ブッコ・ジュースをダワラ(2本)。マッグカーノ(いくら?)

その露天商が私の顔を見て、手を止めた。

私も彼女の顔に見覚えがあった。

そう、十数年前に私を初めてここに連れて来た女性だった。

彼女の横には、中学生くらいの男の子が一生懸命に手伝いをしていた。

後ろには、小学生くらいの弟だろうか、もう一人彼女に纏(マト)わりついていた小学校にも満たない男の子の3人。

私は、彼女からブッコ・ジュースを2本貰い受けると、つり銭も取らずにその場を立ち去った。

お互い暗黙の会話がそこにあった。


思い起こせば、私にとっては彼女がフィリピンのきっかけだった。

十数年前の彼女の実家があるケソンシティーや一緒に遊びに行ったザンバレスの浜辺を思い出していた。

このブッコ・ジュースも、その頃の味だった。

『どうしたのタク。アテ(あのお姉さん)のこと知ってる?』

私は、彼女の暗黙の優しさと厚意に報いるように言った。

『いいや。知らないよ。どして?』

『なんかアテがずっとタクの顔見てるから。』

『テスの考えすぎだよ。

ハリカナァー(早くおいで)

私は、マリテスの手を引きながら駅のある方へと向かった。

いつまでも後ろ髪を引かれる思いでいっぱいだった。

でもこれが、この時の私に出来る精一杯の行動だった。

もちろん、本音は彼女と話をしたかった。

いや、むしろ彼女の横にいた男の子の顔をしっかりと見たかったのかもしれない。

十数年前にマリの友達から聞いた話を確かめたかった。

また、ひとつのフィリピンを魅せつけられた。


彼女の名前はマリ。

もう現在は39歳。

十三年前にフィリピン・パブから逃亡(ランナウェー)して日本人客と結婚した。

いや、私がそう追いやったのだ。


当時の私には、見るもの聞くものの全て「初めて」な事ばかりであった。

私はマリと恋に落ちてフィリピンに渡った。これが私の初渡比だった。

私はマリとの結婚を真剣に考えていた。

しかし、彼女には結婚歴があり1人の子供も居た。

それに加え、元アサワとは正式な離婚も成立していない事を帰国直前に打ち明けられた。

当時P知らずの初心(ウブ)な私は、逆上してマリを責めた。

そして、帰国後と同時にマリの前から去った。

当時の私は、マリに一方的に騙されたと思っていた。

私を追いかけるようにマリが再来日し再縁を求めたが、私は彼女の事がどうしてもゆるせなかった。

そして、彼女は日本社会の雑踏に紛れた。


当時マリが消えてから数ヵ月後に彼女の親友フェイが私を訪ねて言った。

『マリは、妊娠していた。だからお店に長くいられなかった。』と

彼女の口からは、最後まで「妊娠」の言葉はなく。

今でも、それが事実なのかはわからない。

そして、あれから十数年が経った今日も確かめる術はなく、今 私は彼女達から離れてゆく。

「これでよいのか?」私は自分に問いかけるが答えは聞こえない。

今一度、宗教は違えども教会へ戻って主に聞いてみたい心境であった。

しかし時、既に遅し。

「これも運命」と自分に言い聞かせながら交差点を渡り始めた。

この時、渡るスクランブル交差点は、私とマリの十数年分の時を刻んでいった。

そして、私なりに心の総括をして渡りきった。

この後、マリと会う事はなかった。


私はまた、教会へゆき熱心に主に拝む民の心境が少しわかったような気持ちにもなった。

奇跡が神や仏が創られる出来事であるならば、運命は人が自分の意志で選び背負ってゆく現実にほかならない。

そして、その積み重ねの先には、人の力では変えられない天命が待っているようにも思えた。

私は、十数年前にマリと結婚は出来なかったものの、今またフィリピンに携わっている。

そして、日本社会に押しつぶされそうになった時、フィリピンが・・・・・フィリピン女性が私を救ってくれた。

これは天命なのか?


そう、つきたくてつく嘘でなくとも、したくて裏切るでないにしろ、嘘をつく事には変わりはない。

でも、彼女達の仕事には「男と女のLoveゲーム」がつきものである。

きっと、多くのジャパユキ達は「私の子供(家族)には悪いカルマ(KARMA)が返ってきませんように」と祈っているに違いない。

神に縋(スガ)りたい自分には、その事がやっと理解できたような気がした。

こうして、マリテスと教会へ行く約束の日が来た。


時は、10時55分。

彼女は、既に約束の場所へ来ていた。

二人は、タクシーに乗って四谷にある教会へ向かった。

この教会の名前は「聖イグナチオ教会」この教会は上智大学とともに存在している。

設立を遡れば、フランシスコザビエルにたどり着くという由緒ある教会なのだ。

上智大学自体は、明治時代に来日した3人のイエズス会のメンバーが働きかけて、1913年に「専門学校令」に基づき設立された。

今の大聖堂は空襲で1947年に再建された木造の旧聖堂が役目を終えて、1998年に新設された。

私が依然、来たのは木造の旧聖堂の方だった。


時は、11時50分。

着いてから新聖堂に近づいてゆく。構内に入れば見上げるほど立派な建物である。

中に入ってみると、一気に神聖な雰囲気になる。

周囲の壁は、上下に細長い12枚のステンドグラスで仕切られていた。おそらく、宗教的な意味合いのあるものをモチーフとしているのだろう。

その正面に、キリストが宙に在る。

天井は、大きなグラスで出来ていて、日の優しい光がほどよく聖域を演出している。

デザインは湾曲した四面体を組み合わせた花模様のようである。

座席は長椅子が国会のように中心に向けて設置され、ざっと数えても500~600席前後はある。

二階席もあるので、総数800席はあるのではないだろうか。

そこに、続々と集まる信者。

あっという間に後ろには大勢の人たちが立ち並び十字をきって祈りに入る。

あたりを見渡すと、東京二十三区~総武線沿線の千葉あたりから集まったタレント達に囲まれていた。

もちろん、その他の人種の人々もいたが、圧倒的にフィリピン人が多い。

日本人は数十名、皆タレントに着いて来たといった感じである。(;^_^A


時は、12時00分。

コーディネーターの黒人女性が英語で開会を宣言する。

右の方から白人神父が数人を連ねてお出ましになる。

神父が中央の主聖堂祭壇に上がってからミサ(Sundays Masses)が始まった。

この時間帯は全て英語の時間帯で、13時30分からスペイン語、そのあとが日本語となっている。

私は入場の際にマリテスがくれた「日本語のしおり」のようなものを読みながら今日のミサを理解した。

時は12時40分。

二階席にあるパイプオルガンが奏でるメロディーに合わせて皆で合唱をする。

終盤には、信者全員が席を立ち神父の元へと並ぶ、順番が来ると1枚の煎餅のようなものを手渡されて洗礼のような施しを受けて自分の席に帰る。

最後は、先のコーディネーターが様々なインフォメーションをして、約1時間ものミサが終了した。


この1,000人近くの人々は、主に何を祈り、そして何を求めてこの場所に来ているのだろう。

私は、そんな事を考えていた。

特に多いのは、今も昔もフィリピン人。

ここにいる700800人のフィリピン人の多くはジャパユキである。

彼女達の多くは、フィリピンに残してきた子供や家族の事を祈るという。

しかし、嘘と裏切り、そして責任転嫁の世界で生きる彼女達が、何ゆえ熱心な信者としてここでひざまずくのか。

私にとっては、大きな謎であった。

そして、彼女達の祈りと願いは、もっと深い謎だった。


時は、13時03分。

ミサを終えて大聖堂から出ると、そこには1,000人以上の外国人の群れ。

日本人である事が申し訳ないような光景である。

知っているタレントから次々と『Kuyaはカトリックだったの?』と声をかけられ返答にも困る始末。

マリテスが、そんな私をかばう様に先導してくれた。

『タク。あそこに行って何か食べましょう。』

マリテスが指差す路上には、フィリピン人露天商が軒(ノキ)を連ねていた。

そこにはフィリピン粥から1パック¥500の様々なおかずや、ジュースにデザート、CDまで、全てフィリピンのもが所狭しと並んでいた。

これを見ても、このSundays Massesにフィリピン人が多い事がわかる。


時は、翌0時25分。

今日は、いつになく店内は暇だ。

しかし、私が入れ込んでいるPinaは、先に説明した全てを使い分けるスーパー悪女なので、今5人しか客がいない中で、彼女の客は私を含めて3人も占めている。


40人あまりいるホステスから、店長が「紹介」でタレントを回す。

マリテスは、そんな時に現れた。

もちろん、常連の私は彼女の顔を知っている。

でも話をしたのは、この時がはじめてである。

Kuya(お兄さん)。こんばんは。

Kuyaは、毎日お店に来てますね。

本当にGineさんの事。好きなんですね?』

『ははははは。そんなんじゃないよ。

ただAkoは、ここが好きなだけ。まぁ、ジーナも嫌いじゃないけどぉ。

本当に愛してたら、毎晩ここには来ないでしょう?』

『そうですね。Kuyaはベテランだから。わかってますよね。』

『ベテランで、なくとも そのくらいの事はわかるでしょ。

だって、毎日お店にたくさんお金を使っても意味ないからね。』

『じゃあ、なんで毎日くるんですか?

そこまで、わかっていてどうして?』

最初は、さり気のない話から、気がつけば彼女の瞳は真剣に私を見つめている。

それが、私にはすぐにわかった。

『そうねぇ。日本人も色々とたいへんなのよ。』

『お客さん、よく言いますけど。それは皆、同じじゃないですか?

(^_-)ごめんなさいKuya。なんか楽しい話じゃないですね!

話しをchangeしましょう。』

こんな、たわいもない会話が彼女と私のきっかけであった。


彼女の名前はマリテス。

26歳で、フィリピンに10歳の女の子を持つ。

離婚した父親は、元同級生のフィリピン人。

彼女が妊娠した時には、互いに学生だったので結婚せずに娘を生んだという。

その後、1年ほどは赤ん坊と3人で暮らしたが、甲斐性のない男に愛想が尽きて別れたという。

それからも娘が6歳になるまでは、フィリピンのマリキーナという場所でサンダル工場で働き生計をたてていたらしい。

やっとの思いで、小さな庭先に機械を入れて独立をしたが、その半年後に大量返品を喰らって、借金を背負うはめになる。

ジャパユキになったのは、その借金を払い、再起をかけるためだという。

しかし、日本で商売人の家に、生まれ育った私には、それが「罠(ワナ)」である事がすぐにわかった。

「マリテスは、いいように元受の社長に騙されている!」私は、そう直感した。

しかも「マリテスの従業員に裏切り者がいる。」そうも考えた。

国際電話で懸命に交渉をする彼女の口調と話の内容でもわかった。


私は、それからも彼女を度々「場内指名」して、そばに置いた。

私は、少しでも役に立てばと思い、事ある度に彼女に助言をした。

そして、ある日 私が予見した最悪の事態がおこった。

これまで頑(カタク)なに従業員をかばってきたマリテスだったが、この時からは私を全面的に頼るようになっていた。

丁度、二人が接近して半月が経とうとしていた頃である。

この後、マリテスは私の言ったとおりに、マリキーナの靴工場を閉鎖した。

マリテスが遠巻きに私にLOVE光線を送っていたのは、唐の昔に気付いていた。

いつしか私もマリテスが好きになり、二人は互いに近づいていった。


今、思い返してもPinaという生き物は不思議な生き物である。

出会った瞬間に心ときめかなければ、決して恋愛に発展する事はないと言っても過言ではない。

言い換えれば、徐々に馴れ合っていった結果、好い仲には決してならないのである。


マリテスのケースでさえ、彼女は「私に出会った瞬間に、一目ぼれした・・・・」と言うが、それは「マリテスが私を始めて認識した時」であって、それまでに私はマリテスの働く店に2ヶ月以上も連日のように通っていたし、カラオケの度にステージにも立っていた。

ゆえに、Pinaは「自分に興味がなければ、気にもとめなきゃ記憶にも残らない」という生き物なのだ。


このあと、二人は出会ってから1ヶ月ほどで、プライベートに出かけるようになっていた。

マリテスと付き合って、前のタレントGinaにとって、私はただの鴨であった事がよくわかった。

Ginaが「店の決まりだから・・・」「規則だから・・・」「・・・はダメ」という制限ものについて、マリテスは全てがOKだったからだ。

仕事が休みの時には、時間を問わず私に会いに来てくれた。

アフターでも、日中でも、彼女はいつでも私に会いに来てくれた。

それは、全てにおいて私が最優先で、その他には何の理由も言い訳も存在しない状況であった。


ところが、2年近くも鴨っていたGinaだったが、マリテスと私の関係を聞きつけジェラシーの末に、いきなりのスイッチがONした様子である。

現在では、店も移ったというのに遠距離恋愛さながらの連日のアプローチだった。

いままでの2年は、なんだったのか?

立場も行動も過去の真逆である。

まったく予想もつかない展開だ。


こうして、Pina達のスイッチは次々にONしていったのである。

自画自賛で申し訳ないが、2年前 四面楚歌の時の私と、今の私では体系も服装も香りも違う。

今やPina達のお陰で、自称スーパー・ハポネス(SuperHapones:超日本人)となっていたのである。

必須条件は、第一にマッチョである事、第二に清潔でいい香りがする事、第三に歌が上手い事。

あとは、Pinaの好きなフィリピンの俳優や歌手などのファッションを取り入れれば完璧である。

冷静に分析すれば、マリテスも私が今の体系になったから目に入ったのだと思う。

ジャパユキの言う「カッコイイやワカイは好きじゃない!」は大嘘で、できれば「格好よく!」「若く」「金持ちな日本人」が大好物である事は明白であった。


しかし皮肉なもので、今の私があるのは小悪魔Ginaのお陰といってもよいのだ。

いつしか気がつけば、私の「自棄」は姿も形もなくなっていた。

むしろこの頃、私はマリテスと楽しく幸せな日々を送り始めようとしていた。

以前のように、手探り状態で妖艶なラブ・ゲームも刺激的だが、この頃の私は身も財布も擦り切れ状態であったので、マリテスとの自然で無理のない、ひと時がありがたくさえ感じていた。

また、フィリピン人と一緒にいれば居るほど、日本社会独特の過剰責任という重圧感からも開放されたような気持ちにもなれた。

これも、全てタレント達のおかれている環境やフィリピンでの経済的な事情などを考えれば考えるほど・・・・・

端的に言えば「上には上があり、その下には下があった」という事で、今まで上ばかりを向いて生きてきた私にとっては初めての経験でも会った。


ある日、マリテスが私に言う。

『タク。今度の日曜日は忙しいですか?』

『なんで?どこか行きたいところでもあるの?』

Oopo。タクはYotsuya知ってますか?』

『もちろん!Akoは東京で生まれたんだから知ってるさ。

そうかぁ、マリテスはクリスチャンだから教会でお祈りがあるんだなぁ。』

『バキット?教会ってわかるの?』

『イカウ達が日曜日に四谷って言えば教会しかないでしょう。』

マリテスは心配そうな顔をして聞き返す。

『タクは誰かと教会行った事あるの?』

私は、平然と嘘をついた。

『アコのファミリーは、ブッタだから教会は行かないなぁ。』

私は、このかつて四谷の教会に行った事がある。

この時も、今から十数年前に行った時の記憶が脳裏を掠(カス)めていた。

マリテスは、安堵(アンド)した様子で理由について話し始める。

『アコは、もうずっと教会いってないし。・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

タクやマデリーン(マリテスの娘の名前)の事もお祈りしたいの。』

OK(^.^)b明日、行ってみよう。』

もちろん、私の菩提樹は仏教だ。しかし熱心な仏教徒ではないので、他の宗教にも何の抵抗もなかった。

むしろ、キリスト教の方がイメージがよいほどだった。

第一話  自   棄



この頃の私は、自棄(ヤケ)だった。


振り返れば人生35年と6ヶ月、人並みに若気の至りはあったものの、社会に出てからの12年余りは仕事一筋に自分なりに頑張って生きてみた。

そして、父親の経営する町工場を継承するために勤勉に働いてもみた。

私の父は1年ほど前に病気で他界をした。

残された町工場を継承したのはいいけれど、金庫を開ければ「債務超過」というブラックホールが待ち受けていた。

「これも試練だ!」と自分に言い聞かせて、何とか脱出のシナリオを描き、この1年間は休みもとらずに努力する日々であった。

親父の生命保険はもちろんの事、私の全財産も、この町工場に注ぎ込み再スタートきった。

やっとの思いで目処がたった時に私は生前に父が言っていた言葉を思い出した。

『人間、これだけ勤勉に働けば、食えないわけがない。これで生きてゆけねば、この世の中が間違っているんだ。』

私も、その言葉を信じて寝る間も惜しんで勤勉に働いてみた。

少なくとも私の周囲には、私以上に仕事に熱心であった者はいなかった。


しかし、この平成の世は間違っていた。

父親の喪が明けると、彼の個人保証に対して債権回収機構(RCC)の取立てが襲って来た。

結果として、親族もろとも、そのターゲットとなった。

私は経済的な四面楚歌に陥った。

回収機構は「あなたの会社を潰すような事はしませんよ・・・・・」とは、言うものの親族経営の個人資産を片っ端から差し押さえられては身動きがとれなかった。

全財産をかけての再建であった為に、このままでは破産が目に見えていた。


私は、ある日 一人で会社の事務所にいた。

時は0時20分。

ふと見ると窓ガラスに醜い中年が写っていた。

それは、私だった。

この10年。。。。。。。。。いや、10年以上 私は自分の体や身なりなど気にもとめずに働いてきた。

自分の洋服や靴はおろか下着さえも欲しがらずに働いてきた。

接待で酒を飲み、バスがなくなるとタクシー代を惜しみ歩いて帰った。

仕事に結びつかない付き合いは、ほとんどと言ってよいほどせず、ただただ家族と会社のために身を削って・・・・・・いや、身を顧(カエリ)みずに生きてきたのだ。


十数年ぶりだろうか?ガラス越しに写る自分の姿をじっと見入った。

学生時代には、持ち前の張りのある胸囲と長い股下が自慢だったマッチョな体も、今ここに立つのは中年太りした不格好なオヤジが1人。

見る影もなくなっていた。

私は、なぜかこの時「これじゃ、死んでも死にきれないや」と自分に問いかけていた。


そして、次の瞬間・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・笑っていた。


私は、今でも思う。

これが!

この時が、私のどん底。

人間、自殺をして逝く者でも、最後は「笑う」だと、この時に知った。


でも、私は運良く生きている。


あの笑いから1年。

私は、フィリピン・パブに入り浸り、年甲斐もなく1人のフィリピン人女性に入れ込んで毎晩のように店内で笑っていた。

むろん、それはあの時の笑いとは違うが、ある意味で私はこの世を超越していた。

もうかれこれ、注ぎ込んだ金も¥2,000万を越えた。

「どうせ、理不尽な社会に回収されるくらいなら・・・・・」そんな私の自棄(ヤケ)が、この1年で、我が人生を波乱させていた。

結果として私の経済状況は破綻の一途を辿った。

それは、とても楽しく。


この頃の私は、自棄(ヤケ)だった。


こんな事を、いつまでも続けて、善いわけがない事など端(ハナ)からわかっていた。

また、こんな事が永遠に続かない事も知っていた。

しかし、この日も夕方から、仕事はそっちのけでフィリピン女性と店外デートをしてからの同伴。

もう、こんな生活を・・・・・・もう何百日つづけているだろうか。

店に入ると、いつものように焼酎を何杯かあおる。

そして、酔いに任せてカラオケを熱唱する。

店内を見回せば、この時間帯は「鴨」の時間帯である。

「鴨」とは、フィリピン・パブの客が進化したもので、タレントとの関係はというと「友達以上、恋人以下」という関係で、肉体関係の有無は必要ない。

タレントに思われているか?そうでないか?それだけの違いの男達の事である。

もちろん、鴨には自覚はない。

自覚がないから、この時の私も毎日のように通えたし、また彼女の事が最優先で考えられたのだ。


時は、21時15分。

同伴~1セット、店員がコールする。

いつものように私は「延長」と答える。

それから、またしばらく飲んで歌う。

時は、22時30分。

風俗許可へのお義理のショータイムが始まる。

赤や黄色スポットライトのコンビネーションが妖艶な雰囲気を一層引き立てる。

映画で見た、戦後のキャバレーで落ちぶれてゆく不良成年のような気分に浸る。

ショータイムが終わるとモデリング(ホステス紹介)の為にタレント達がしばし中座をする。

1人で入店している鴨は、この時に我に返るケースが多いのではないだろうか。

「俺っ。。。。。こんな事してて何になるんだろうか?・・・・・・・」

なんて。

モデリングも終わり店内の照明が元へ戻り、闇から赤く染まったライトで浮かび上がるPinaの顔を見ると、また妖艶な雰囲気に戻る。


ベテランのタレントは「売上げ鴨」をカモルには、①1セット終了の時間②ショータイム前の時間帯③0時前後④2時前後と、これらの時間帯に鴨に「チェック(帰る)」と言わせなければ、スタートから閉店まで持ち込める。

逆に、毎日のように来店させる「鴨ペット」は、23時頃に無理やり帰らせ延命をはかる。言うまでもないが、それは「優しさ」ではなく、全て今後のためである。

イベントなどの人数あわせの「ポイント鴨」は、イベントやノルマ達成の為に大切に繋いでおくのである。

★タレントにとって本命の男性は、ラスト1セットで一緒に帰るか。重要なイベント時にしか呼ばないし、本命も頻繁には店に顔は出さない。

タレントが本気で惚れていれば、彼の財布は自分の財布同然であるから、店に大枚を支払っても意味がないのだ。

本質的にPinaはケチだから。

本当に、この頃の私は自棄だった。

               はじめに


この物語は、私が初めてフィリピン女性と同棲をした頃のお話です。

いわば、PPもこのあたりから冷静に且つ裏側から見れるようになったのかもしれません。

数十人のPinaの肉体と精神を味わった今、この初心(ウブ)な頃を懐かしく思い出しながら書いています

フィリピン女性と結婚など真剣に考えられている方に特に読んで頂きたいと思います。


                              伊達 琢磨



第二章の十八話でご紹介したフィリピン女優ミラとの出会いで、あらためてジャパユキの実情や、フィリピンでの彼女達のおかれている立場などを再認識させられました。

考えてみれば、日本に入国している外国人の中で、9割以上がホステスやホストとして入国していた人種はフィリピン人のほかに例を見ません。

ゆえに、またPPの常連の皆様方(私を含めて)も日本人の中では特殊な人種である事が多く、結果的には、その浮世離れした情事に感化されたPPデビューし始めの方々が『結婚』へ踏み切るケースとなっているようにも見受けられます。


そう、私たちベテランは、同棲したり愛人として囲う事はあっても、決してジャパユキと結婚はしないのも事実なのです。

私も、最初の1~2人は『結婚してもいいかなぁ~』なんて思ったことはありますが、一度(半年)Pinaと同棲したら、『天地がひっくり返っても、ジャパユキとだけは結婚できない!しない!』と思いました。

(^o^; もちろん個人差はありますよ。念のためあしからず。


もし、それでも『明るく!陽気な!フィリピン人女性と暮らしたい』と願うならば、それはジャパユキ以外のフィリピン人女性をお奨めいたします。

日本人に適しているフィリピン人女性は、フィリピンにもたくさんいると思います。

但し、その多くは日本の事は知ってはいても、来日経験はない方がよいでしょう。


理由は、ジャパユキ経験者のあるPinaの後ろには邦人男性の影がかならず生涯付きまとうからです。

また、彼女達はジャパユキ特有の「嫉妬形態」をもっていますので、同棲生活後これが実に厄介です。

それから重要なのが、両家のバランスですね!結婚後の『仕送り問題』や『帰郷問題』などは、これが大きな要因となっています。

結婚には、「両家の経済的且つ教養的なバランス」がとれている方に越した事はありません。


フィリピン人=貧しい。←これは大間違えです。

私が一時期ミラと生活をした「アヤラ・アラバン」という住宅地は、幅の広い車道が張り巡らされ、立派な教会や進学校もあり、停電や断水には縁がないような楽園のような場所で、外部と接するゲートは厳重に管理され、この敷地内での凶悪犯罪はここ数年聞いたことがない日本人にはとても住み心地のよいところでした。

自警団が24時間、敷地内をパトロールして、早朝や夕方には大型犬の散歩をしたり、ジョギングをする姿まで見られます。

走っている車も米社の大型車からドイツの高級車まであたり前な世界で、広い芝生の庭とプールも珍しくありません。

何より、各家庭の塀が低く、フィリピン特有の牢獄のような鉄格子が少ないのに安心感を覚えたのを思い出だします。


中には、無理をしてここの住民になるジャパユキやその家族も居ましたが、皆 数年で出てゆくのがオチでした。

継続して、この国を支える6%の国民になるには、お金だけではダメなようで『生まれ』や『品性』も問われるようです。

この層のフィリピン人から見れば、逆に『日本人はなぜ?ジャパユキばかりを相手にするんだ(・・?) なんで、そんなにジャパユキが好きなんだ?』とよく聞かれ(;^_^A 当初は返答に困ったものです。


要するに、これはあくまでも私感ですが、問題が多いのは『ジャパユキ』という生まれ育った環境にあるのだと考えます。

これは、少し乱暴な話になりますが、あるパーティーでフィリピンの大物政治家の息子が言いました『あの層の女性達は、ブスならメイド。見てくれがよければジャパユキ。』『(ジャパユキの事を)あぁ、彼女達の仕事は高級娼婦だよ。』などといった青年実業家がいるくらいです。

そうかと思えば、暮らしは貧しくとも、安易に『ジャパユキを生む』方向には走らず、誇りをもってフィリピンの古き良きシキタリを重んじて暮す家族も田舎にたくさん居ます。

先ほど、ジャパユキ達を蔑視した層のフィリピン人達も、彼らには礼をもって接します。

この感覚は、私が生まれ育った19601970年代の日本のそれと同じような気がします。

この頃の日本も「ホステス(飲み屋の姉ちゃん)」などの職業が蔑視されていた時代があったわけで、フィリピンでは、まだまだ厳しい現状があるという事です。


実は、ミラとの離別も今にして考えれば、この辺りから始まっていたのかも知れません。

私のフィリピン人の知り合いといえばジャパユキが中心で、また男友達も元DISCOのホストやDJ達です。

アラバンのバハイに彼らが次々と尋ねてくるのを、本当は心の奥で拒んでいたのでしょうね。

その証拠に、ゲートから入ってバハイまで入れた知り合いは極数人で、それも全てミラが直接知っているタレントだけでした。

気のせいかも知れませんが、その翌日はメイドが大掃除を行っていたような気もします。

その他の私の知り合いは、ゲートのすぐ外にあるスターバックスやフェスティバル・モールという大型デパートメント内での待ち合わせが多く。

仮に、パーティーや泊まりなどに招くのにも、ゲート外の別宅VivereSuitesというホテルの一室の分譲マンションばかりでしたから。

数が月して、ようやくミラのこの感覚に気づき、それ以降は外で会うようにしたのを覚えてます。

・・・・・・・・・・・・厳しいかな、今でもこれがジャパユキの実情だと思います。


今日フィリピンは日本人にとって身近な国のようですが、その多くの接点がジャパユキ経験者である事から、少々偏ったベクトルで親交が進んでいるようにも思えます。

私は、心からフィリピンが大好きです。

どうか、皆様方もご自分の目と耳で、そしてご自分の足でフィリピンを探索してみてください。

そして、偏見や偏ったものの見方をするのではなく、現地の気候や文化、習慣などを共に体験して、フィリピンという国家やフィリピン人の事をより深く体感してみて下さい。

きっと、違ったフィリピンに出会えると思いますよ。


今後とも日比が友好的に、そして仲良く発展してゆきます事を祈念しております。


伊達 琢磨

チェック(^^)v


VENUSは、約26年間のPPでの私的な経験回想をベースに、ジーナという一人のPinaの一生を主体に書き上げたハーフ・フィクションの物語です。

もちろん、人それぞれですので、私がここで紹介した手口やタレント達の行動、思考、エピソードなどは一例にしか過ぎません。

しかし、不思議な事にご紹介した『金の無心のフローチャート』や『Pinaの常套手段』など、ジャパユキの発言や行動には共通点が多く。

PPに通った経験をもつ人であれば、誰しもが共感をもたれたのではないでしょうか?

しかも、これは全国共通と言っても過言ではないほど、北は北海道から南は九州まで見事なほどにワンパターンな事なのです。

これは、いかにジャパユキ達が強力なネットワークで結ばれているか?

そしてまた、純粋で単純であるか?を証明しているといえましょう。


私は当初PPで、経験の浅いタレントによく言い聞かせた言葉があります。

それは『PPのお客さんに惚れないように。』という言葉です。

これまで、多くのジャパユキが日本の男性に「騙された」という経験談を物語ります。

しかしそれは、邦人男性にも真逆な事が言えると私は思います。

世間一般では、フィリピン人との『国際結婚はとても困難な事が多い』と言われ。

その成れの果ては、かなり高い確率での『離婚』か?

また、仮に結婚生活が長期化しても、結果としては『人生破産』が関の山、などと言われています。

確かに、私の周囲にいる日比カップルも離婚率は約9割。

ちなみに、思い起こして58組を想像して、物言いいますが、まだ幸せそうかなぁ(;^_^Aというのは、たったの1組。このカップルは入籍半年で、この11月に出産予定のいわば新婚さんですから、まだまだ今後の事はわかりません。

残ったカップル5組の邦人夫のうち、3人は鬼のような女房から命辛々逃げ出してパロパロ三昧という、よくあるパターンですし。

残る2人も、アサワのマラキッ!な尻に引かれて、彼ら自身は月の小遣いが¥1万と、タバコも吸えないほどの、痩せ細った生活を強いられています。

もちろん、経済的に余裕がないので、このような事になるようですが、その上で止めの「仕送り」や「アサワと子供達の定期的な渡比」と、到底 私たちには考えもつかない価値観の元で重ぉ~い十字架を背負わされています。

まぁ、ご覧のとおり私の周囲は誰をみても「Pinaを娶(メト)って幸せになったものはない」のが現状です。