フレディ・マーキュリー 人生と歌を愛した男 /FREDDIE MERCURY Untold Story
生誕60年 没後15年記念 世界初公開
2006年10月21日(土) 新宿武蔵野館
短くも劇的な生涯を
未発表のインタビューと映像で綴ったドキュメンタリー
母、妹、少年時代、アートスクール時代の友人
専属デザイナー、恋人、
音楽仲間たちの証言による
初めて解き明かされる
フレディの真実の姿
2006年/イギリス/112分
配給:東芝EMI
監督ルディ・ドレザル/ハンス・ロサシェル
1946年に生まれたフレディ・マーキュリーは1991年45歳という短い人生を閉じた。
ロック史上最高のヴォーカリスト。 美しいメロディを作り、聴くものの心を揺らす歌
を歌い、聴衆を楽しませるパフォーマンスを見せた。
フレディの人生は45年という短いものであったが、それは濃密に猛スピードで駆け
抜けたものであり、時間の概念を超越した長さがあった。
今なおフレディの伝説が語り継がれている。
フレディの母や妹、クイーンのメンバーによる証言など、長い信頼関係によるもの
で、説得力のあるドキュメンタリーとなった。
フレディ・マーキュリーは1946年9月5日、英国の保護領だったアフリカ東海岸の
ザンジバル島で生まれた。 ファルーク・バルサラと名づけられた。
ファルーク少年は使用人を雇う裕福な家庭に生まれた。
父親は政府の役人。 英国政府に仕えた。
「ファルークという名を付けたの。
当時、ゾロアスター教で流行の名で、それを付けたかった」
「ザンジバルはフレディのような子供には、退屈な所でした。
楽しみが何もありませんでした。 彼は遠い外国の地や音楽を夢見て
いました。 インド音楽、民族音楽、西洋音楽、あらゆる音楽に興味を
持ってたの」 (母、ジャー・バルサラの証言)
1955年 (8歳)、9歳の誕生日の少し前、両親は最高の教育を求め インドのボンベイ
(現ムンバイ ) 近くのパンチガ二ーにある全寮制の寄宿学校、セント・ピーターズ・ス
クールに入れた。 英国式の教育を受ける。 8年間を過ごすことになる。
インドもかつて英国の植民地だった。
厳格で古いしきたりのもと、半世紀も方針を変えずにきた学校だ。
フレディのユニークな個性は学校の規律ゆえに生まれたものだと言える。
スポーツ、音楽、美術が得意だった。
学園祭(1958年)ではオーソレミオなどの有名な曲を歌い、観衆を沸かせた。
素晴らしい声とピアノの才能を持ち、ボクシング、陸上、卓球のセンスも抜群だった。
(ピアノは7歳頃より始め、音楽への興味を育んだ)
フレディが様々な演劇活動をした記録が残っている。
その多くが女性役だった。
フレディにとって学校は第2の家になっていた。
そして芸術と音楽が得意分野てあることは明らかになっていた。
1961年、「ザ・ヘクティクス」というバンドを結成した。
フレディの担任の先生が激励してくれた。
彼はピアニストでバンドの中心的な存在だった。
当時のヒーローは、クリス・リチャード、エルヴィス・プレスリーといった
初期のロックン・ローラーでした。
1963年2月、この学校を後にした。
ザンジバルにクーデターが起こり 一家は、1964年に英国ミドルセックス州
フェルタムへ移住する。
「当時流行のヘアスタイルはロングでシャギーだった。 でも越して来たとき
フレディは流行遅れのクリフ・リチャード・スタイルだった。
オールバックでテカテカにして立たせるスタイルよ。 一緒に出かけるときは
いつも後ろを歩いたの。 フレディの連れだと思われたくなかったから」
(妹、カシミラ・クックの証言)
1962年、ビートルズデビュー。 1964年人気が世界規模になり、英国の音楽が
活気づいていた時期にフレディは英国で暮らし始めたことになる。
1966年秋にはイーリング・スクール・オブ・アートに入学し、グラフィックデザイン
を専攻した。 ( ピート・タウンゼットやロニー・ウッドが卒業している)
フレディは美しい肖像画やポップ・アートやスケッチの制作に励んだ。
最初は主に芸能人を描いていた。
ポール・マッカートニーやエリザベス・テイラーなどだ。
中でもジミ・ヘンドリックスの絵は特に見事だ。
フレディのアイドルはアートスクール時代、ジミ・ヘンドリックスでした。
ファッションに転向すると、多くの服をデザインした。
ここでフレディには、美術にも卓越した才能を持っていることがわかる。
(こうした経緯があったため、ジャケットやプロモなどのヴィジュアル面を
フレディが主導することになる。 クイーンの紋章をデザインした。)
また、学校へ行くかたわら、ロンドンの音楽シーンに出入りするようになり
ブライアン・メイ、ロジャー・テイラーのいたバンド、"スマイル" と出会い、
ここからクイーンのサクセス・ストーリーが始まった。
やがてメアリー・オースティンという恋人ができて一緒に暮らすようになった。
しかし、いつしか、その暮らしはギクシャクしたものとなった。
「同棲生活は6年間続いたわ。
何かをとても気にしているのがわかった。
出会った頃の彼とは違ってた。 何となくおかしいと気づき始めたの。
涙ながらフレディは自分はゲイだと告白してくれた。
彼が包み隠さず正直に話してくれて嬉しかった。 フレディは昔の彼に戻った。
出会ったころ知ってた彼のようにリラックスして幸せそうだった。
彼が自分らしく生きることを誰も否定できません。
私が思うに、愛というものは受け入れて理解することだと思う。
相手が人間として成長するのを見ることはすばらしいことよ。
幸せな気持ちにさえなれる。
多くのものを与えてくれた彼に感謝するわ」
(最初の恋人 メアリー・オースティンの証言)
やがてフレディとクイーンはロック界の頂点を極める。
退廃と贅を尽くしたパーティーに明け暮れる一方、ひたむきに音楽に取り組み、
スペインのオペラ歌手モンセラ・カバリエとの共演も果たした。
1981年1月、コベント・カーデンにルチアーノ・パヴァロッティを聴きに行った。
その夜、運命的な出会いが待っていました。
演目はヴェルディの「仮面舞踏会」。 その夜フレディは、モンセラ・カバリエの
今世紀最高のオペラ・ディーバの歌声を耳にしたのだ。
二人の最初の出会いは、1987年3月 バルセロナのリッツ・ホテルだった。
モンセラとのプロジェクトを始めるにあたってのミーティングの場でした。
ホテルのガーデンルームで、マイク・モーランのピアノに合わせて2人は、
歌い続けました。
その週末モンセラがコベント・ガーデンでリサイタルを開くためロンドンに
やって来た。 彼女はフレディをリサイタルに招待しました。
彼のロンドンの自宅での夕食後、ピアノを囲み夜明けまで歌い続けた。
ここで生まれたのが大ヒット曲 "バルセロナ" だ。
「あの晩は本当に滅多にない、特別な夜でした。 一生忘れません。
時間が経つのを忘れるほどすばらしい夜でした。
誰かが言いました。 "6時です やめましょう" "コンサートの後だし"
気づくと朝の6時になっていたのよ。
私が彼の家を出ると人々が驚いた。
外には大勢の人がいて彼の家で一晩過ごしたのを驚いていました。
すごく疲れていたけれど本当に最高の時間を過ごせた。
忘れられぬほど素晴らしい夜でした」
(モンセラ・カバリエの証言)
Freddie Mercury & Montserrat Caball'e - Barcelone (Live at Ku Club Ibiza, 1987)
「バルセロナ」 初公開 イビザ 1987年
フレディのアプローチにより、ソロ・アルバム「バルセロナ」 (1988年) で共演。
「素晴らしい瞬間でした。 一緒に過ごした1年間をいつまでも忘れません。
驚きに満ちた美しい幸せな人生のひとときでした。
オペラにとっては革新的だったわ。 世界に向けて閉ざされた窓が開いた感じね。
現在多くの若者たちがオペラを見に来ます。 彼らは言います。
"フレディと歌っていた女性が誰か知りたかった"
彼に感謝しています。 このような形で2つの世界が融合できました。
彼は私を深く愛し、私も彼を愛しました。 あるとき彼は多くの友人の前で言いました。
"僕は音楽を愛しているが、彼女は音楽そのものだ"
"音楽に年齢は関係ない" 」 (モンセラ・カバリエの証言)
1992年のバルセロナオリンピックのオープニングでデュエットする予定でしたが、
前年にフレディが急死したため、ホセ・カレーラスが代役を務めました。
フレディが最後に社会に公表したのは病気の公表だった。
彼にとって病気の公表はつらかったはずだ。
1991年11月23日、エイズに感染していることを初めて公表した。
翌日11月24日の日曜日・・・
エイズにより死亡。
「彼は自分の限界をわかっていたと思う。
これは私の個人的な気持ちよ。
彼は音楽を作れなくなって・・・
力を失ったときが終わりだとわかっていた。
彼は人生を仕事に捧げていたわ。
そして仕事をすることで幸せを感じていた。
仕事がなければ、彼はあれほど強い精神力を保ち
病気と闘えなかったでしょうね。
自分のやり方で闘ったのよ」 (メアリー・オースティンの証言)
「秘密はいろいろあった。 性的嗜好もそうだろう。
時が移り、時代は大きく変化した。 (今では何の問題もない)
彼の人生最後の数年は、最高に幸福だったと思ってる」
「もし音楽がなかったら、あんなに生きられなかっただろう」
(最後の恋人 ジム・ハットンの証言)
8月から9月にかけて病状はひどく悪くなった。 あの子はモントルーにいた。
私の誕生日には毎年一緒にいてくれた。 あの年は花を贈ってくれて.....
"ごめんね 母さん、 今年は一緒にいられない" "埋め合わせするよ"
けれど10月になって病状は悪くなった。 とてもつらかったわ。
(母、ジャー・バルサラの証言)
ありのまま 偽らないのが一番だ
過ちと口実は 全部自分の責任だ
自分に正直でいたい
他人の言葉など気にしない
何一つ後悔してない
僕は僕でしかないんだ (フレディ・マーキュリー)
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2006年10月、Q友さんと新宿武蔵野館へ。 月日の経つのが早いです(;^_^A
ファルーク少年が8歳のとき、ザンジバルから船に乗り、60日の一人旅のあと
インドに到着。 インドの田舎の景色を見ながら、汽車で寄宿学校へ。
家族と離れて、一人で寄宿学校へ行くのは寂しくて不安だったと思います。
寄宿学校は規律が厳しかったようですが、良い環境の場所でした。
楽しい学校生活を過ごしたようです。
フレディがHIVの感染結果を知ったのは1987年でした。
モンセラ・カバリエとフレディの共演プロジェクトが進み始めていた時期でした。
"バルセロナ" が完成。
モンセラ・カバリエとの華やかなエピソードに感動します!!!
久々にDVDを観ました。
DVD タイトル 「ラヴァー・オブ・ライフ、シンガー・オブ・ソングス」
フレディ・マーキュリーの生涯を綴った唯一のオフィシャルドキュメンタリー映像です。
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Freddie Merculy - In My Defence
2011年9月16日、イギリスdaily television のフレディの65歳の誕生日を記念した放送にて、
母親のJer Bulsaraと妹のKash Cookeが出演し、本人が描いた衣装デザインスケッチと製作
した実物の衣装を披露した。当時人気のジミ・ヘンドリックスの衣装をまねて縫製し、着飾っ
た写真と衣装も大切に保管されており、公開された。
Queen - Mother Love






















