「出会いと別れ」

新しい出会いがあった。まさに「ノックの音」だ。先日、行き当たりばったりで、静岡のゲストハウス(「バックパッカーズ風流」)に泊まりに行った。そこの御主人のTAKASHIさんはとても気さくな人だった。最初に出てきたときは、そのドレッドな風貌に驚いたが…まさに同世代であることもシンクロニシティ!?していた。そして、静岡出身でないことも。「里山創生」の話も心ひかれた。九州から越してきた近所のAYUMIさん、飲食店経営のSIGEOさんとも意気投合し、夜中の二時まで飲んで話をした。そして、ひょんなところから、来春「衣・食・住」に関するイベントに参加することになった。禅寺の食事作法の話が気に入ってもらえたのだ。こんな感応道交は久々である。次の日は、のんびりと起きた。ご主人もSIGEOさんも早くから仕事で申し訳なかったが、僕はのんびりとしていた。昨日スーパーで半額だった惣菜とご飯で、朝ご飯を食べる。これまた気さくな静岡美人の奥様が入れてくれたコーヒーをいただき、ギターの奏でと、子供たちのDSの音にまどろむ。今日はいい天気だ。さらにその子供たちと散歩兼マラソンな買い物に付き合わされた。そうしてゲストハウスをお暇し、帰りに山寺に寄った。薄暗く趣のある参道を登ると、本堂横の庫裏から、ラジオの音が流れてきた。その曲が、ワムのクリスマスソングだった。ここは?!魔空空間か?!

帰りがてら日帰り温泉の美人の湯につかって、さあて帰ろう。明日からは大掃除だ。と、いうときに電話を見たら着信が?!しまった?!それは、友人からだった。すぐに電話したがつながらず、夜になって電話が再びかかってきた。

友人のお母さんが亡くなった・・・脳梗塞だった。なんとも言えず・・・湯上りの気分が申し訳ないような思いと・・・もう一面では、いまは聞きたくなかったなという思いで葛藤した。

あのおばさんにはもう会えないのだ…いつも牛乳をくれたおばさん。静岡に引っ越してきてからもお酒や食料品をおくってくれた。僕にとっては癒し系のおばさんだった。日頃からお世話になっていた感謝をどう表現すれば・・・

久々にペンを握った。直観的に選んだ「母への詩」を四編、片っ端から、写経のように書き出した。そうして封筒にいれて今日送った。その詩は・・・。


拝啓 行基禅兄

師走の候、年賀状製作の手を休め、窓の外を眺めながらキーを叩いております。山谷も鳥も濡れており、何だか僕もほんのり緑色になったようで、しっとりと寂しくも温もって居ます。いかがお過ごしでしょうか。

先日、お邪魔した折に「往復書簡やりましょう?」と言ったのを覚えていますか?僕は今思い出しました。

一昨日、Hライダーさんの家に遊びにいきました。その時、ぜひ、また三人で飲みましょうと約束してきました。ぜひ会合を開きましょう。それぞれの今の思いを聞かせてください。

さて、hライダーさんと、来年度からいろいろな活動をしていきたいとの思いを語りながら、この活動自体の名称を思いつくままに言葉にしていました。「『なんとかの会』とか、特定の宗教をイメージするものや、あまりスピリイチュアルフルなもの、つまり、あまり、人を限定してしまうような名称はやめましょう」ということなり。できれは初めて来た人が気軽に、自由に、行き来できる名称を、ということになった。そして、さらに出来れば格好良いもの!()

その時、ふと、星新一のショートショートシリーズ『ノックの音が』を思い出した。

「『ノックの音』ってどう?」ノックの先には何があるかわからないけれど、その叩く感じと、音がいいなと思った。hライダーさんも気に入ってくれました。

それでさらに家に帰って思いを巡らすともなく、巡らせていた。ノックの音って結構奥深いんじゃないか?と。行基禅兄も知っていると思うけど、キリスト教に「叩けよ。さらば開かれん」という言葉があるじゃないですか?この言葉、どう思われますか。なんかこれに尽きるというか。宗教だけの問題ではなく、日常生活の問題としても。鈴木大拙が面白いことを言っていました。たしか「叩いてから、開かれるのでは遅い」「叩くということに開くということがあるのだ」みたいなことを言っていました。面白いですね。でも、この「叩く」ということがなかなか難しい。

話は一段と下りますが、僕は「推敲」という故事が好きです。名前は忘れてしまいましたが、ある中国の文人が歩きながら漢詩を作っていた。そして「僧は押す、月下の門」という詩ができた。しかし、この「押す」を「叩く」にしたらどうかと悩んでいるうちに偉い軍人の列に突っ込んでしまう。その軍人の人が文学に精通した風流な人だったために、その文人は助かるのですが。その時、その悩みを話したら「叩く」のほうがいいだろうということになって二人は仲良くなったという物語。「僧は叩く、月下の門」。確かにこっちの方が音が響く感じがする。音を聞く間がいいなと思う。こっちにいる人も。むこうにいる人も…。

いろんな「推敲」の場ができればいいなと思う。一人でもいいし、仲間とでもいい。聞き合い、話し合える場。僕はそんなことを考えています。

そう、そう、「ノックの音」も良いのですが、「‘KNOCKN ON」はどうですか?

昔、よく読んだ雑誌「‘ROCKN ON」を真似したのですが。ミュージシャンのインタビューが最高だったです。 その日本語に翻訳した人が良い仕事をしてたのだと思いますが。カッコイイのですよ。「これからはオーディエンスの時代なんだ」とか…

最後は脱線してしまいましたが() 「今」に、「時代」に、「自分」に、「友」に

「共」に、「‘KNOCKN ON!!」して行きましょうよ!

                              敬具

                   MAETYSAWANAKADJ NAME

 

湯谷山ダダ漏れ画報


『良寛さんの逸話』

 僕の好きな良寛さんの逸話にこんな話がある。それは実話なのかどうかはしらないけれど…。

 ある時、良寛さんは村の人に「この前、お金を拾って嬉しかった」という話を聞いた。良寛さんは「なるほど」と思い。帰り道すがら、懐からなけなしのお金を出して、おもむろに投げ落としました。そうしてそのお金拾ってみました。「うーん…ぜんぜん嬉しくない」。そこでもう一度してみた。やはり嬉しくない。「うーん…」

良寛さんはこんなことを何回も繰り返していたのでもう辺りはすっかり暗くなってしまいました。すると、ある時、投げたお金がコロコロと転がって草むらの中に入ってしまったのです。「ああ!しっ…しまった!」良寛さんは必死になってお金を探しました。しかし、なかなかお金は見つかりません。「ない!ない!ああーない!」どこだどこだ。本当に一所懸命探しましたが見つからないので、もうだめかと諦めかけた時、足下に踏んでいた草の根っこにそのお金がいました。「ああ!!あった!」そうして愛おしそうにお金を拾いました。良寛さんは思いました。「あー、あの村人の言ったことは本当だった」「お金を拾うことはとても嬉しいことだった」と…(おわり)


…ホンマか?!



…失くしてはじめてわかること…一所懸命に探すということ…実際やってみること…

自分で見失なっていることって多いのじゃないか…自分で見つけること…見つけるとは?



「修業とは『雪を担って井戸を埋める』ことに尽きる」と言った老僧を思い出した…



井戸とは何か?!

人生における虚しさや、遣り切れなさとは?

ぐるぐると同じようなことを繰り返す人生とは?!


秋深し

無駄な話に

紅葉す


落葉ふむ

来た風に向かう

手を握る


合理性を追求すればするほど、非合理性なるものが噴出する気がする


何と言っても当てはまらない・・・






湯谷山ダダ漏れ画報