心をあやつる男たち (文春文庫)/文藝春秋
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言葉を尽くすべきだと思う。でも言葉というものだけで尽くせるものでもない。言葉だけで話そうとしたり、伝えようとしたり、解釈しようとしたりすると、とても疲れる。言葉を放棄したくなる。そうして言葉の奥にあるものを掴もうとすることにも疲れる。「もっとシンプルに」「もっと簡単に」、「言ってくれ」「言わねばなるまい」との思いが交錯する。言葉を伝えたいんじゃない。気持ちや思いが伝えたいのだ。そういう思いが強くなってる気がする。一足飛びに「感じろ!」とは言えない。そう言いたい気もあるが。感覚や感性でやり取りがしたいという気持ちもある。

言葉に感性(思いやり)が欠けている気がする昨今の情報社会。

昔、感性を訓練するためにアメリカの心理学者によって開発されたST(センシティビティ・トレーニング)というものがあった。その技術は自己啓発セミナーに応用されたという。人の感情や感性をマニュアル的に覚醒させるのだ。時には暴力を使って・・・。


「お前はいまどこにいる?」

「はい、ここにおります」

「そこにはおらん!」

「痛みとひとつに成れ!」

「今、ここのお前自身を感じろ!」

これってなんかに似ている。そうSTは「西洋の禅」とも言われていたのだ。STと禅を融合させて独自の「自己啓発セミナー」を行っていた男のドキュメンタリー小説である。「心をあやつる男たち」(福本博文)

極端なやり方で受講生を追い詰める方法は、お釈迦さまの対機説法からは程遠い。


「お釈迦様は悟りを開くまでに何年もかかっている。しかし、君たちにそんな時間はない。このやり方に疑問を持つ人もいるだろうが、限られた研修期間のなかで悟りを開くためには、これが一番いいのだ。私は日々、変化している。そのなかで最も効率のよいやり方でやっている。悪く思わんでくれ」。


そこには棒喝を打つ人と受けるものと信頼関係ある交流が欠けている。お互いどうして打たなければならないのか。どうして打たれねばならないのか身をもってわかっているのだ。それは禅の道場だから許されるのだろう。現代の教育の場面でも通じるだろうか?いくら教師が愛のむちだと言って涙を流しながら生徒を殴っても、それを受ける生徒にその思いが伝わっていなければ、生徒は涙を流しながら手を合わせるだろうか?

しかし、大きな変化を求めるその男の傾向は、今の世の中や自分の中にもある傾向だ。インスタントに変わりたいという欲望。反対に「俺は絶対変わらないのだ」という思い込みもある。どちらも無常に我を計す姿である。「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」(芭蕉)ちいさな変化に気づいていたい。それも一つの欲望か?「気づきたい」は「何で気づけない」「気づけよ!」という暴力でもあるかもしれない。



湯谷山ダダ漏れ画報-波紋ってキレイだな。なんだか無常だけど。

先日、思わず横ざまに飛びのきそうなほどの勢いある怒りの声を聞いた。そして、怒られている人の声を、震えを聞いた。しかし、あの怒っている人は私の代わりに怒っているのかもしれないと思った。あの怒られている人も私の代わりに怒られているのかもしれない。怒られもせず、怒りもしなかった私が担うべきもの(業)とは何だろう?


ファミリー・コンステレーションという「家族療法」がある。そのワークショップに参加してから、ずっと頭の中をぐるぐる回っている考えというか思いがある。最近、周りの友人に話をしたり、法話中に思い出して話してみるうちに、その思いは徐々に形となり、私の血肉になってきている気がするので、一度、文章に書いておきたいと思う。

コンステレーションとは、「星座」や「配置」ということ。家族関係に置ける本来の配置にその人(クライエント)を戻してあげるということがこの療法の基本概念である。「戻してあげる」という言葉について異論があるとするならば、今の現状において、その人が別の「配置」(「役割」と言っても良いのではないか)を担っていることを認知することである。例えば、その家の長男が早世してしまい、代わりに次男がその役割を担ってしまう状態を「あなたは長男ではなく、本来は次男なんです」と伝える、またはその人自身が認識してもらう。そうすることによって家族間における「もつれ」が明るみになってゆく。両親からの圧迫。自らに課した抑圧(「僕が兄貴の代わりに…」)。そうすることによって、隠したり、無い者にしてしまっていた本来の長男も浮かばれ(水子供養、先祖供養の大切さを改めて思わされた)、両親自身の葛藤や罪悪感・代替行為を認識する手助けになってゆく。ワークショップでは実際の家族がいなくても、参加者が代理人となって場がすすんでゆく。しかし、この例は、単純ですが、「役割を担う」ということは、もっと複雑な状態が関係して「もつれて」いる場合が多い。それは、世代間、親戚関係を超え、時空の抜け落ちたスッポットに別の人間や動物、場所(震災など)、誰かが物が土地が吸い込まれてしまうという広く輪廻的な現象がつらなっている。誰かの代わりに殺人を起こしてしまう人がいる。どこかの国がどこかの国の代わりに戦争をしてしまう。良心的道徳観のために、自ら進んでボランティアに行く人々。養子縁組の人々。虐待を受けた人々。虐待をしてしまった人々。それらは、何かの代わりに、誰かの代わりにその任を受けてしまったのかもしれない。その原因をすべて解くことはできない。その連鎖を止めることはできないのかもしれない。それでも、釈尊が「一切衆生はこれわが子なり」と起こした大悲の願とは。すべて罪人の罪業を担って十字架に架かったイエス・キリストの信条は如何程のことだったのであろうか。


そんな教派的なこととは別次元としても、「私の代わりに」誰かが殺人を担っているとしたらどうであろうか?しかし、「任」とは、「担う」とは、私が思っているだけの狭い世界を超えて働く力でもあると思われる。「任せきる」、「担いきる」力がある。私の小っさい申し訳ない程度の気持ちを超えたところに働いている力がある。

これは、ファミリー・コンステレーションの家族や会社、社会をシステマティックに捕えるというシステム論ではまかないきれない。システム自体の命にもかかわる問題である。より良いシステムに変更したり、成長させたりするのではなく、そのシステムの存在意義とは何かを問うことであると思う。


私が担っている役割、それ自体を、認識する道としての仏道。私は現在、田舎の小さなお寺の住職を担っている。檀信徒関係、元々の本家分家関係、本末関係、地域や班、氏子関係、近所付き合い、教区関係、親子・兄弟関係、家系の問題、環境問題、後継者問題、土地、歴史、風土習慣、さまざまな関係の上に成り立っている。


古人は言った。「任にあたって、他に譲り難し」

 任とは背負うことでもある。責任があるということ。背負うことによって、地に足がつく。法事やお葬式を担うことによって、良くも悪くも信頼関係が生まれてくる。

出家の道。「捨てる」という道がある。「捨てない」という道がある。

「拾われる」という道。「拾う」という道。

どれもみんな道の中である。

弟子)「私は捨てるということも捨てました」

師) 「では、担いでいなさい」

川を渡り終わって、女人を置いてくるもよし、

共に旅を続けてもよし。

置いてこれなかった人を私は笑うことはできない。

また、実際に、煩悩を担ぎ続けている人を私は軽んずるものではない。

私もそうだからである。

「『肉食妻帯』は往生に障りない。それなのにお前は何を執着しているのだ!」

「いやいや、そんなお前だからこその…肉食」

「肉、肉を食らう」「殺生は美味しい」

「この肉は、ただの肉ではない。不可思議肉である」


ひとりひとりがひとりひとりの、それぞれがそれぞれの業を背負って生きているのである。

「独生独死独去独来」「誰も代わるものなし」

「因果の道理歴然として私なし」

「因果一如」

私が因を造り、私が果に落ちるのだ。

「火の車 己が作りて、己が乗る」

一方、仏菩薩の業を「大願業力」という。

「菩提即煩悩」である。

菩薩の行願とは、自ら罪を犯して地獄に落ち、地獄に落ちている衆生を救わんとするのである。

私と共に犯し、共に堕地獄し来るのである。

その慈悲に漏れるものは存在しない。

「嫌う底の法なし」つまりは絶対の受容である。

「海の水を辞せざるは同事なり。この故によく水あつまりて海となるなり」

「同事」…「人間の如来は人間に同ぜるが如し」

私の業は「煩悩即煩悩」

「煩悩即菩提」に託けることなく、

仏法を利用する心でもって、仏道を行ずる。

私は(≒)煩悩()を担ぎ続けるのだ。大きな担ぎ手の上で煩悩しているだけだが…。

「地獄に気付いた人は少ない。しかし、真に地獄を脱した人は更に少ない。まして、他のために地獄を脱した人は更に少ない。まして、他のために地獄に下った人は稀である」

(『臨済の家風』柳田聖山)

私のために地獄に下った仏を想う…

しかし、私の代わりではない。私は因果の道理上必ず責任をとらされる。(地獄一定)

私は私からは逃れられないのだ。

ただ私よりも私を本当に知って無明の私を担ぎ続ける存在(私は踏みにじり続けている)があるのだ。

「為我現身」「入我我入」(『舎利礼文』)

ちょっとセンチメンタルチックな訳ではあるが菩薩道の「同事」「共苦」が沁みる。

「同事」とは

菩薩が形を変えて衆生と同じ仕事に勤しみ、同じ心になることである。

相手と同じ気持になって共に悩み、共に苦しみ、共に涙を流す。

菩薩は人々の心の中に入っていくために衆生と違わない心(不違)になられ、何もしてあげられないけれど、いつも私の悩みや苦しみと共にそっと涙を流していてくれる。

そしてそのことを私達は知らない。

なむ。

ある人(特に年配者の方)は言う。

「それは経験した人間にしかわからないことだ」

「戦争に行った人間にしかわからん」

たしかに、経験した人にしかわからないこともある。でもそれはその人の経験でしかないということを忘れてしまっている。経験至上主義。

「不倫した人間の気持ちは不倫した人間にしかわからない」

「この病気をした人間にしかわからない」

「カレーに、マヨネーズをかけた人間にしかわからないあじがあるんだ!」etc

よく考えたら、「戦争にいった人間・・・うんぬん」は、「戦争してはいけないじゃないですか」という根底が抜けている。「仕方がないだろう。そういう時代だったんだから・・・」

「いや、時代って?!」不倫もしかり…

逆もある「不倫する人間の気持ちなんてわからねえぜ!つうかわかりたくない」

というのもある意味、経験してないからわかるわけないじゃんという経験主義。

私は不倫してないから純潔よ!うむう、不倫してなければ純粋なのか?!

話がソレタ・・・

しかしながら、自分でも言ってしまうことがよくある言葉がある。

「やってみなければわからないじゃんか!」

「とりあえずやってみたらええやんか!」

「やってから考えよう」とか…

まあ正確には、「やってみてもわからないかもしれないけど、いや、たぶんわからんと思う、でも、やってみよう!」

「とりあえずやってみようぜ」信仰である。

そこには、無理やり相手を、自分を、何か「する」ことによって、安心したい、安心させたい、納得したい、納得させたいという欲望に引きずり込もうとする欲望がある。悪くはないと思うのだが…。「まあ、坐れ」という坐禅の本もある!?

なんだか、「とりあえずやらせてください」と頼む熱血困窮男にも似ていなくもない・・・?!

よく考えたら、「とりあえず」っておかしいだろう?!

オルダス・ハックスリーは言った。社会の不幸における3分の1は逃れられない。それは天災などであるが、他の三分の二は人災である。その人災の中に人間が犯してしまう物事の捉え方を分析している。


わたしたちの罪は手抜きをして、原因の複合性について考えないことであり、そのかわり単純化しすぎ、一般化しすぎ、抽象化しすぎに耽っていることです」(『多次元に生きる』)

「わかりやすさ」が求められるということは、結構危険な世の中な気がする。簡単にわかりやすさを手に入れようとする世界に生きる我々の生きにくさ、分かりにくさはなくならないと思う。

 何が言いたいのかというと・・・ここでも結論を急ぎたがる、結論を急かされていると思い込んでいる…

それは・・・


「わたしたちの手持ちのことばのなかで、すりへり、手垢にまみれ、使い古されたことばはたくさんありますが、そのなかでも『愛』ほど、臭く、泥まみれで、べとべとしたものはありません。何百万の説教壇わめきたてられ、何千万のスピーカーから挑発的な歌声がささやかれ、それは下品で良識に反することになり、口にするのもはばかられることばになりました。しかしながら、はっきりとこれは口にだして言わなくてはなりません。最終的にいえることは『愛』しかないのです」(『多次元に生きる』オルダス・ハックスリー[著]片桐ユズル[訳]コスモス・ライブラリー)

「愛」の本質について、語り話し合い、愛し愛され、我々人類が愛そのものに触れ遇えんことを!