お彼岸参りで、ある檀家さんから突然、「おっさん!今日の静岡新聞見た?」と言われた。
「家は新聞取ってないんで…」「あっ、そう!じゃあ持ってくるね」と檀那さんが持ってきたのは新聞の折り込みに挟まれていた「人生のエンディングを考える」という記事の彼岸特集でした。(ああ、坊さんの哀しい性で、死亡欄にお寺関係の知り合いでも載っているのかと勘違いした…言わなくてよかった…)
「ああ、最近流行りだしている『終活』のことですね」「そうそう、おっさんも勉強したらほうがいいよ。まだ三十代の一級葬祭プランナーなんだかは、なかなかよく考えている」(「むむ!葬儀業者の策略にハマりおってwww」「見て見ろ!この葬儀業者から石塔業者、霊園の広告…あれ?お寺さんもある?!)
「そう、確かにエンディングノートを檀家さんに配っているお寺さんもありますよね~」
「そうだな~やっぱ生きてるうちに、家族で話さんといけんわな~」
(「いや~何と言うのかな~。自分の葬儀の様式?!どう自分が送られたいか?自分の死への準備?!と、いうよりも、自分の葬式への準備のような気がする。そして自分の葬式をプロデュースしたいという強い欲望?が感じられる。それは、やっぱり自分の死をコントロールしたいという欲求なんだろうなと思うのです。ですから、なんか死というものを近くに感じているようで、遠くに見ているというか。死というものは準備できないものなんじゃないかと思うのです。それに、あのデコレイティブな感じが僕好みじゃないっす。」(心の声)
「そうですね。ですから法事の席で、家族や親せきが集まった時に、話をしてらいいですよ」
「そうそう、親父が死んだとき、誰を呼んでいいのかまったく分からなかったからなー。後で何で呼んでくれなかったんだ!と言われたもんな~」
(「そんなことじゃなくて、自分の死ですよ。本当の葬式とは、生きているうちに済ますものなんですよ。白隠さんは言ってます。『死ぬがいやなら、一度死ね。一度死んだら、二度死なん!』『座布団上で死んで来い!』」)
「エンディングノート作りますかね?」
「おっさんも?」
「遺影撮影会行きますか?」
「・・・・・」
(「情けねえ~仏陀が泣いている~おおうおおう!!」)