筒井康隆『残像に口紅を』
もし、この世界から「言葉」が消えたら、どのような世界になるだろうか。私は筒井康隆著の「残像に口紅を」を推薦する。本書では、「あ」から「ん」までの文字が物語を進めるごとにランダムに消えていき、同時にその言語の持つ存在も消えていく。例えば、「あ」が消えると「あなた」も「愛」も消えてしまう。主人公の三人の娘も妻も名前の一文字を失ったことで、少しの間おぼろげな残像だけが残るだけで存在そのものが消滅してしまう。世界から、「ぷ」が消えると分の概念が消え、時間が曖昧になり、「ほ」が消えるとホテルが旅館に変わる。閑散とした自宅、正確さを放棄した時間、残された音を拾って恍惚に溺れる感覚を綴る。言葉が消えてもイメージが残る。その残像に思いを馳せる切ないシーンが本書のタイトルになっている。丁寧で優しい言葉はしだいに乱暴な言葉に変わり、世界から豊かさが消え、語彙が少なくなると人間は凶暴になっていく。そして、残りの文字数が少なくなるほど世界の解析度は落ち、詩的で抽象的になっていく。本書では言語が消滅し、徐々に不自由に陥っていく中で、執筆し、飲食し、講演し、交情する小説家が描かれている。
本書はメタ構造で前衛的な実験的要素を強く含む。限られた文字で表現していくその表現技法もさることながら、小説を書く者とそれを読む者の間の壁をいとも簡単に取り払ったような作品であり、ページをめくるたびに、作者と文字越しに目が合うような感覚に陥る。映像化も翻訳も不可能な、他では表せない、活字の面白さや可能性が詰まった一冊である。(本文649字)