M.MAN“画伯”の作品集・動物-2 | 手稲山・発寒川からの手紙

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北海道の野生動物や自然の状況についてなど手書きの絵などによって詳しくお伝えします。

クレヨン画の三等賞「少年M.MANのアジア・太平洋戦争」より


 M.MANが2年生の時に我路から沼東小学校へ転校した。町の子どもたちと違って炭鉱の子らは、転校生や弱いものいじめをするので、M,MANにはしばらく友だちができなかった。そんなある日、担任の奥先生にすすめられ、「マツダ電気」という会社が募集した“電化”をテーマにした絵画コンテストにクレヨン画で応募したところ、三等賞に選ばれた。その当時、学校で、低学年がクレヨン、高学年が水彩画を学んでいた。M,MANたちは、戦時下で物価が不足し、新しいクレヨンが買えないので、兄・姉たちのお下がりの短いクレヨン屑を集めて、髪質の悪い画用紙に描いていた。受賞作品がどんな絵だったのかまったく覚えていない。

 この三等賞の賞品は、鉛筆や消しゴムなどの文具類と24色のクレヨンだった。この商品をM,MANは、全校生徒の前で二宮校長先生から受けたのだ。それからしばらくは、家の神棚に賞品が供えてあったが、その後このクレヨンでどんな絵を描いたのか、M,MANにはまったく記憶がない。

 当時としてはすばらしい賞品をくれた「マツダ電気」の名をM,MANはしばらく覚えていた。しかしその後、電気メーカーに「マツダ」が見かけないので倒産したものと思っていた。ところが最近になって、昔のマツダ電気は、現在の「東芝」であることがわかった。

 あの小学生のときに受賞してから60年余り経った。M,MANは、美術や絵とかけ離れた専門分野を学び、職に就き、勤務地を転々と変え、10年前に退職した。この間、仕事の関係で、国内外の自然に触れる機会が多かったので、暇をみつけてはこれらのスケッチをした。退職後も、二つの絵の会に属して描きつづけてきた。このように絵を描き続けているのには、M,MANの小学2年生の頃の、奥先生に勧められ校外コンテスト入賞、評価されたという、ひそかな自身が励みになっているように思う。



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新孔版画

(昔の謄写版印刷をまねた「プリントごっこ」方式による版画)


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        1989年に京都で描く
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