5年制中学を卒業したM,MANは、敗戦直後の札幌に出てきて、責任者が叔父の大学附属「実験動物飼育所」に勤めた。ウサギ・モルモット・ハムスター・ネズミ合わせて数千頭を飼育し、大学や研究所の実験に配給していた。ラット(シロネズミ)とマウス(シロハツカネズミ)は交配繁殖をおこない、系統を保存していた。建物は旧軍用倉庫を使用したので、飼育箱を積み上げた部屋の暖房には「鋸くずストーブ」を使い、餌が手に入りにくいの学校給食の残飯をわけてもらった。
戦後の札幌の街は、ゴミや下水処理施設がなく、家ねずみ(ドブネズミ・クマネズミ)が家屋に自由に出入りして食物や衣服を食い荒らしたり、病菌をばらまいたりしていた。M,MANは、これら対策のための有害動物の生理・生態・防除の研究を手伝った。
敗戦後しばらくは市民の食糧も手に入りにくく、生活するのがたいへんだった。また、研究費もなかった。飼育所では野菜くずを農家から譲ってもらったり、給食の残りを学校を回って分けてもらったりするので動物飼育はたいへんな仕事だった。なんとかして研究費をうみだすため、M,MANたちは、ネズミを入れた回転輪を作って街角で販売した。
M,MANが勤めてから3年後に飼育所が全焼し、5000頭ほどの系統分類された貴重なシロネズミが焼死した。出火原因は、鋸屑ストーブの火の粉が飼育室の壁紙に飛び移ったためだった。この飼育所は、近所の子供たちの“動物園”のような存在であり毎日のように遊びに来ていた。この火事で、シェパード犬のエリーナが焼け死に、構内にこっそり埋めたが、これをかぎつけたこどもたちが集まり、手作りの墓標「えりいなのはか」の木片を地面に立て、手をあわせて拝んでいた光景がいつまでも思いだせる。