第二十二回
撮影はなかなか始まらなかった。
「腹減ったなあ」
「この分だとやっぱり夜中になりそうやな」
木本と大部屋の控室みたいな片隅でヒソヒソと雑談して待ちつづけた。一緒に来たほかの連中はどこへ行ってしまったのか姿が見えない。
「いろんな人が来とるなあ」
労務者、主婦、女子大生、サラリーマン、退職者…などやはり退屈そうに出番を待っていた。最初はガヤガヤとした雰囲気だったが、夜も零時近くになるとさすがにくたびれたのか口数が少なくなった。
「おい。△△が出ているぞ。凸凹もいるし、凹凸も来ている」
撮影所内を散策して来たらしい窪川らが戻ってきて興奮気味に言った。
△△は清純派女優。凸凹や凹凸も有名な男優で、いずれにしてもこの「○○の大冒険」は正月映画にふさわしく顔ぶれは豪華キャストなのだった。
「で、何時からやるのだろう」
「へたすると夜中だぜ」
「徹夜って言ってのはこのことか…」
でもみんなはこんな楽なバイトでそんな高収入が得られるとあらば少しも苦にならない様子をして待っていた。
蘭はもうすぐ裏磐梯へ合宿に出発する。自分も来月は東京湾を横断して千葉の館山までのセーリング合宿だ。夢は果てしなくバラ色に見えた。もう微塵にも巷に雨が降るごとくの感傷はない。ひとりでに口元が緩んでくる。
「先輩、なに笑ってるんですか?」
「何でもないよ」
木本は怪訝な目つきで健太郎に問う。自分の衣装が滑稽に見えたに違いないと思ったからだ。他のみんなからも最初、爆笑を浴びたことの余韻がまだ残っている。
「そんなにおかしいですか?」
野良仕事の帰りみたいな、田舎のおっさんの衣装を眺めつつ、木本はまたぼやいた
撮影が開始されたのは午前一時だった。
最初説明のあった芝居小屋のセットにエキストラは集められた。エキストラは全部で六十名ほど居た。
「よろしいですか?先ほど説明したように皆さんはこの劇場の観客になってもらいます。どこでもいいですので席に腰を掛けてください。この劇場の出し物を観て大いに笑ってください。いいですか?こちらでこのように合図をしたら皆さん声をあげて笑ってください」
撮影の進行を担当する若い男が大声で説明をし始める。エキストラの面々はガヤガヤとざわめきながらそれぞれ好きな席を目がけて移動を開始した。
と、そこにはすでに出演者が入場して座っており、その席の当たりには二、三人のスタッフが立っていて容易に近づけない状態になっていた。
「ここにお座りになる方は明日も撮影がありますので、明日もお願いのできる方でお願いします」
スタッフの一人がその席に座ることのできる条件を念入りに説明している。その席とはなんと女優△△の横ではないか。したがってその左右いずれの席もあらかじめスケジュールに合わせてリザーブしているのだ。
「明日も来なければならないのか…」
健太郎は手を挙げかけて、待てよ、明日は「哲学概論」ではないか。必須科目だし、これまで二回ほどさぼっているし、前期の講義も残り少ないし、絶対欠席するわけにはいかない。…残念だが…女優△△を目の前にしてその席に着くことは断念せざるを得ない…と思い止まった。
退職者らしきおっさんとエキストラで稼いでいそうなあんちゃんがニヤニヤしながらその席へ人を掻き分けて進んで行った。
勿論、参加した寮生は誰一人手を挙げることはなく、ただぼーっと見とれていただけだった。健太郎だけが、惜しいなあ…と歯ぎしりするのであった。
どこまで浮気性なんや、お前は。
こころのなかでもう一人の健太郎が叫んでいた。
「はい。本番行きまーす」
深夜の撮影所で何度も何度も繰り返し繰り返し演技したあと、緊張した声が響きわたる。
「よーい、スタート!」
セット内に活気と歓声の渦が巻き、ここだけが夜のない世界だった。