こんにちはurahaです。
今日はファスティング明けで
食べ物が旨い。
私の二人目の空手の師は
硬式空手
フルコン空手
グローブ空手
キックボクシング
とやられた実戦派でしたが
「空手は型さえ毎日打っていれば忘れない。」
と仰っていました。
私は今現在流派に所属していないため
実質、稽古は型を打つのみです。
私が主に打つのは
三戦
転掌
ナイハンチ
の3つです。
型とは何でしょうか?
師は「武道には必ず型がある。」
とも仰っていました。
師は訳在って暴力団事務所に単身乗り込んだことがあるそうです。
そんなこともあってか
空手の他に
居合術
古流柔術
手裏剣術
等も修めていらっしゃいました。
確かにどれも型がありますね。
そもそも武道とはなんでしょう?
案外明確に語られていないので
自分なりに腑に落ちるまで研究しました。
”武道とは動禅である”
という言葉を見つけましたよ。
ますますちんぷんかんぷんですね。(笑)
禅とは何か?
禅とは師から授かった公案を解く修行だそうですよ。
公案というのは矛盾問題のことだそうです。
私の最初の空手の師は
矛盾問題を止揚するための科学
”唯物弁証法”
を使って空手を解明した達人であり
かつ
唯物弁証法の視覚化:三角形三段階関連区分理論
を開発し唯物弁証法を一歩前進させた研究者でしたが
もともと唯物弁証法は武道解明に向いていたのですね。
唯物弁証法は
・対立物の相互浸透の法則
・否定の否定の法則
・量質転化の法則
の3法則を使って進化や上達などの動的事象を解明する
西洋文化史上最高の英知の一つだと思います。
武という文字の成り立ちは
矛を止める
だそうですから
動禅の公案
つまり
武道の矛盾問題は
”絶対止められない攻撃を止めるにはどうするか?”
だと思われます。
ひるがえって
強者に弱者が勝つにはどうするか?
とか
絶体絶命を生き残るにはどうするか?
とかが考えられるでしょう。
ここに来て
武道と格闘技の違いが明確になりましたよ。
格闘技はお互いがなるべく平等という条件で
戦う戦闘法と言えるでしょう。
一方
武道は自分が絶対的に不利という条件で
生き残る戦術と言えるでしょう。
話を戻しましょう。
型についてでしたね。
”武道は不立文字である”
とも言われます。
つまり
言語野を使っちゃいけないってことですかね?
これでは一般的な禅と異なり
公案が言葉では伝えられないですよ!?
矛盾問題を言葉で出題できませんよ!?
・・・
! 武道は型が伝えられてますね。
すなわち型が公案
型が矛盾問題なんじゃないのか!?
と私は考えたわけです。
型を打ちながら型としての公案を解く修行
すなわち動禅です。
そう考えたうえで改めて
居合の型や
柔術の型を見直すと
うん絶体絶命状態ですね。
絶体絶命から生き残ろうとしていますね。
これは矛盾問題ですよね。
普通、型は手順だけ教わって
スムーズになぞれたら及第点みたいな道場も多いと思いますが
型が暗示する前提条件を現実にクリヤーするのは
真剣にやったら不可能に近いと思います。
若いころ電車に乗っていたら
小柄な60歳くらいのオジサンが
大柄な恰幅の良い35歳くらいのおじさんにからんでいました。
どうやら大柄なおじさんが付けていたバッジが気に障ったようです。
指導員バッジか何かですかね。
「どうせインチキなんだろ?!」
「上げられるもんなら上げてみろよ!!」
そういって小柄なオジサンは両手で
大柄なおじさんの両手首を掴んだのです。
顔を真っ赤にして大柄なおじさんは両手を上げようと力んでいます。
いくらたっても小柄なオジサンの手はびくともしません。
「上げてみろよ。」
「上げられないのか?」
小柄なオジサンは挑発を続けます。
「上げろよ。」
「上げろ!!」
大柄なおじさんの手は力みでぶるぶる震えています。
しかしびくともしないのです。
「上げろ。」
「上げてくれよ。」
「ア・ゲ・テ・ク・レ・・・」
「どうし てあげ てくれな いんだ・・・」
小柄なオジサンは泣いていました。
やがて小柄なオジサンは力なく両手を放しガックリと膝を着きました。
大柄なおじさんは茫然と立ち尽くすばかりでした。
おそらく武道の矛盾問題に取り組むということは
こういうことなのです。
残酷ですが
一生かけても基本中の基本さえできないのが当たり前の世界なのです。
基本技ができなければその上の華やかな決まり手は覚えても使い物になりません。
何千という決まり手を覚えてバッジはもらえても技は一つも使えないのです。
ビジネスと割り切ってる道場はそれは決して言わないでしょうね。
この小柄なオジサンはやっていたのでしょう。
バッジなどには目もくれず
基本技が本当にできることを目指して何十年と修行したのだと思われます。
でもできなかった。
私も子供のころ不当な暴力に屈して悔しい思いをしました。
そういう人間は実力の伴わない肩書などには興味が持てません。
組織の中で出世するなんてことは就職先でやるだけでお腹いっぱいです。
実力にしか価値を感じられないのです。
合気道の開祖植芝盛平氏は
若いころ何度も柔道に立ち合いを挑み
負けるたびに大粒の涙を流して泣いたそうです。
それくらいだから出来るようになったのでしょう。
出来てないことを気づきもしないで派手な技を沢山コレクションしても
結局一つも出来ていないのです。
それなら矛盾無しに出来ることを積み上げた格闘技の方が強くて当たり前でしょう。
例え一生徒労に終わったとしても
どうせ武道をやるのなら
矛盾問題に真剣に取り組むことをお勧めします。
武道っぽいことをコレクションしても永遠に武道にはならないと思います。
しかし武道は頑張れば徐々に強くなって
目出度く問題解決という無矛盾問題ではありません。
何せ”弱いものが強いものに勝つ”という論理矛盾を解くのです。
不可能を可能にすることなのです。
数学者がリーマン予想に挑むようなことなのだと思います。
将棋の棋士が必勝定石を探すようなことなのです。
ずーっと悩んで悩んで悩み続けて工夫に工夫を重ね続けても
全くできないことがほとんどかもしれない世界なのです。
”武道は一生”
という言葉もよく聞きます。
「武道は格闘技ほどハードじゃないから一生楽しめるんですよ。」
そんな甘っちょろいキャッチーな意味であるわけないことは
小柄なオジサンは良ーく分かっていることでしょう。
空手の型はどう絶体絶命なのでしょうか?
自分は単独丸腰で相手は複数で武器を所持して既に囲まれている
という絶体絶命を表現しているように見えます。
何だそれ!!
めちゃくちゃハードル高いですね。(笑)
二人目の師も達人でしたが
「あくまで自分の場合だが、素人相手でも1人で4人相手はちょっときついな。」
と仰っていました。
師は若いころ100人を超す暴走族のヘッドだったそうで
はなから武道をリアルファイトに使う事しか考えていなかったようです。
そんな師の意見なので
現実には多人数掛けがいかに絶体絶命かが分かります。
私なりの型の取り組みは
無拍子をテーマに取り組むという事です。
「全ての型は受けから始まる。」
かの達人大山倍達氏は言いました。
つまり空手の型が要求しているのは待ち拳である
ということが分かります。
複数の武器を持った敵に囲まれ襲い掛かられたら
地面を蹴った反動で動く二拍子では絶対に間に合いません。
仮に頭や腹はよけれても
地面を蹴った足をやられるでしょう。
自由落下で動く一拍子でもまだ不安があります。
敵も一拍子で一斉攻撃するかもしれないからです。
何が何でも無拍子で動ける必要があります。
今はそれを型を打ちながら探っているところなのです。
確かに
そんなことが本当にできるようになったら
自由組手は楽勝かもしれないですね。