(津山事件報告書より、事件当時の現場一帯の見取り図)
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■ 自殺と最後の遺書
岡本和夫宅で最後の襲撃を終えたのち、睦雄は西方の荒坂峠へと続く道を走り、午前3時5分ごろに岡本宅から約500m離れた青山部落の武元市松宅にその姿を現した。
ここには市松(66)と孫の敦夫(小学生)がいた。
市松によると、表で「今晩は、今晩は」と呼ぶ声がするので、電報が来たかと思い返事をすると、若い21~22歳の男が腰に刀を差し猟銃を持って寝床の6畳間まで踏み込んできた。
見知らぬ男で、その装束から市松は強盗が来たのだと直感した。
ところが男は開口一番「お爺さん、怯えなさんな」と言い、続いて「お爺さん、急ぐんじゃ、紙と鉛筆を貰いたい。警察の自動車がこの下まで自分を追うて来て居る」と言った。
市松が紙と鉛筆を探すのに手間取っていると、男は同じ部屋に寝ていた孫の敦夫に気づいた様子で、「アッちゃん、君とこは此処じゃな? お爺さんでは間に合わぬ、鉛筆と雑記帳を早く出してくれ」と催促し、怯える市松に対しては「なんぼ俺でも罪のない人は撃たぬ、心配しなさんな」と言った。
市松が、「これ程までにしよるのに、撃って貰うては困る」と言うと、男は、「お爺さんとこへ来たら用を足してもらえると思った。俺がここで死んだらお宅の迷惑になるといけん、早くしてくれ」と言い、敦夫が書きかけの雑記帳を渡すと男はその一部を破り取り、鉛筆も受け取ると、事情を尋ねる暇も与えず大急ぎで出て行った。
男が出ていくと孫の敦夫が、「あれが都井じゃ」と言った。
睦雄は貝尾の大人たちや遺恨のある家の子供たちとは付き合いを断っていたとみられるが、基本的には子供好きで、子供たちを集めてはお菓子を与えたり、物語を読み聞かせるなどしていた。
こうして事件当時も、隣の部落の敦夫に対しては「アッちゃん」と呼び普通に接することのできる間柄であり、また、貝尾の子供たちであっても、例えば、先述した村役場書記・西川昇の高等小学校1年と尋常小学校6年の二人の子供たちはよく睦雄方に遊びに行っていたという。(こうした事情に加え、睦雄が見かけ上全くの健康体であったことから、西川昇については、「睦雄のことを肺病であるとは全く思っていなかった」と証言している。)
いずれにしても、孫の言葉によって初めて、市松は男が岡本和夫の妻みよと密通の噂のあった都井という男であることを知ったという。
市松方を飛び出した睦雄はさらに行重から津山へと抜ける荒坂越の道を辿った。
今でこそこの道は、路面が荒れてはいるものの車一台が通れる程度の舗装路にはなっている。しかし当時は歩くにも難渋するほどの小石を混じえた急峻な隘路だった。
事件の約1年後に現地を訪れた中垣清春検事は、荒坂越の道について、手記の中で次のように描写している。
「私と守谷検事は犯人の自殺した荒坂越に向った。坂道は小石を混じえた難嶮で山襞(やまひだ)を流れた雨水のため幾重にも亀裂を生じ、登攀極めて困難だった。---(中略)---さらに荒坂越の尾根へと迫る。道は益々狭く且つ嶮しくなる。私達の呼吸も荒くなる。三十余名を殺戮して此の峻嶮を踏破した犯人都井の脚力と膂力に驚嘆の外なかった。暗い細い山路を、多数の人を殺傷し、ただ一人分け登る在りし日の犯人の姿を想像して、いまさら四囲の情景を見直した。深々とした夜の静寂(しじま)、冷然たる夜気、ひたひたと這い寄る木の精の呼吸、点滅する宵星、その中を全身返り血を浴びて悪鬼の如く自らの冥路(よみじ)へ急いだ犯人の全霊を捉えたものは何であろうか。」
また作家の松本清張はその著作『闇に駆ける猟銃』の中で次のように語っている。
「峠は急峻であった。そこを睦雄は二貫目もある猟銃を提げて駆け上ったのである。しかも、彼は小石と雑草のでこぼこ道を西に走り北に駆け、南に飛んで十一戸の家を襲い、三十二人を殺傷した激しい活動のあとなのだ。当人の体力よりも、激情に駆られたときの超人さである。」
やがて武元市松方から約1.5km離れた荒坂越の頂(いただき)に辿り着いた睦雄は、そこからさらに山頂へと延びる細道に分け入り、ほどなくして「仙の城」と呼ばれる山頂付近の開けた場所に到達した(貝尾の事件現場からは約4kmの地点)。
この地はかつて慶応2年、行重村出身の仁木直吉郎(仁木直吉)---同人について津山事件報告書には「貝尾部落出身」とある---が同志を糾合して百姓一揆を起こし、莚旗(むしろばた)を押し立てて農民を群集せしめた地であったという。
睦雄はそこで小松雑木などが繁茂する中の約十坪ほどの雑草地を選んで腰を下ろし、武元市松方で入手した紙と鉛筆を用いて最後の遺書を認めた。
「討つべきを討たず・・・」
冒頭から数名を討ち洩らしたことへの無念さを吐き出すと、直後に祖母の首を無残に刎ねたことへの激情が込み上げてきた。
「楽に死ねる様にと思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙が出るばかり」とは、大仰に嘆いて見せることで姉に向けこの期に及んで良い子のポーズをとって見せたというわけでもなく、事を終えて死に臨むことにより、怒りに目の眩んでいた自分の心奥からようやくにして込み上げた育ての祖母への偽りのない感情だったのではないかと思われる。
自宅で記した2通の遺書では一言も触れずじまいだった「寺井ゆり子」の名前も、当日に遂行を決意した理由であるとしてここでは素直に明かされた。
眺望の良い場所だった。眼下には自分が育った貝尾やその近隣の集落、一説には遠く生まれ故郷の倉見までも一望できたという。目を上げると東の空には黒い山並みが連なり、その背後はすでに薄明るく白みかけてきていた。
「もはや夜明けも近づいた、死にましょう」
そう結んで鉛筆を置き、2本の懐中電灯の付いた鉢巻きや、胸のナショナルランプ、日本刀、匕首、雑嚢、地下足袋などの装備一式を解いて地面に丁寧に並べた。
黒詰襟服の前ボタンを外すと、シャツの上からブローニングの銃口を心臓部に押し当て、足の指で引き金を引いた。
時刻は午前4時半ごろ、遺体は約6時間後に警察・消防組の山狩りにより発見された。
残されたブローニングにはなお5個の実包が装填され、地面に置かれた雑嚢中には9個の実包が残存していた。