(「お前はわしの悪口を言わんじゃったから堪えてやる。じゃけどわしが死んだら又悪口を言うことじゃろうな・・・」---話題の映画『ジョーカー』にも似たようなシーンがあるという)
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7軒目は寺井千吉宅を襲撃した。
母屋には、戸主の千吉(85)とその妻チヨ(80)、長男朝市(64)、孫の勲(41)とその妻きい(38)がおり、全員目を覚ましていた。
この家には別棟に共同養蚕室があった。季節は養蚕(春蚕)の最盛期であり、共同養蚕室には朝市の内妻である平岩トラ(65)と、岸田つきよの長女みさ(19)、丹羽イトの長女つる代(21)ら計3人が泊まり込んでいた。
ここでの主たるターゲットは、岸田みさと丹羽つる代であったといわれる。
岸田みさは睦雄と情交関係があったとの噂もあるが、例によって真偽はわからない。警察の記録には「睦雄の度重なる情交の求めをみさが拒絶し恨まれたとの噂あり」とあるが、いずれにしてもみさはすでに日本刀で斬殺されていた岸田つきよ(50)の長女であり、そうしたことからも当然に襲撃対象になっていたものと思われる。
一方の丹羽つる代は病弱な女だった。警察によると睦雄は「同病相憐れむの心理からつる代に恋し、情交を求めたが拒絶され恨むに至った」と推測されている。
その推測の真偽は別として、つる代の兄・卯一(28)は睦雄が執心していた寺井ゆり子の初婚の相手であり(先述。3か月で離婚に至っていた)、ゆり子絡みのことでも丹羽家ひいてはその長女のつる代は殺意の対象となっていたものと思われる。
睦雄は寺井千吉宅に踏み込むや、母屋を尻目に真っ先に共同養蚕室の3人を襲撃、蚕棚に囲まれた寝床に横になっていたみさに2発、つる代に4発を撃ち込んで殺害した。
平岩トラは逃げようとしたらしく、寝床から縁側まで這い出していた。「堪えてくれ」と必死で命乞いをしたというから、その声は母屋にいる家族にも聞こえていたものと思われる。しかし嘆願空しく、4発を撃ち込まれて絶命した。
母屋の5人はどうすべきかを協議した結果、孫の勲夫婦は2階の屋根裏に隠れ、千吉の妻チヨ(80)は床下へ、息子の朝市(64)はそれまで寝ていた奥納戸に戻って布団に潜り込み、戸主の千吉(85)だけは表六畳の間に残って炬燵にあたりながら一人ぽつねんと座っていた。仙吉は足元も覚束ない赤ら顔の老爺だった。
養蚕室で3人を惨殺した睦雄は母屋へと向かった。表雨戸を開けると、
「おるかァ!」
「鉄砲はあるんかァ!」
と怒鳴りながら踏み込んできた。
睦雄は炬燵の千吉を三つ目の照明で捕らえると、今しがた10連続で火を吹いたばかりの灼けた銃口をその喉元に突き付けながら、「年寄りでも結構撃つぞ。本家のじいさん(寺井孝四郎)も殺ったぞ。お前はどうしようか」と凄んだが、結局、
「お前はわしの悪口を言わんじゃったから堪えてやる。じゃけどわしが死んだら又悪口を言うことじゃろうな」
と言い残して千吉のもとを立ち去った。
睦雄はさらに奥納戸に踏み込むと布団にもぐって狸寝入りをしていた朝市の枕を蹴り飛ばし、慌てて身を起そうとした朝市の肩を銃口で押し戻しながら、
「若い者(勲夫婦)は逃げたな。動くと撃つぞ。おとなしくせえ」
と言った。朝市が「決して動かぬから助けてくれ」と手を合わせて哀願すると、睦雄は朝市の肩先を銃口で小突きながら「よし、助けてやろう」と言って立ち去った。去り際に入口付近に自転車を見つけ、「これなら逃げたとしても心配はない」と呟いたという。(勲が逃げて駐在に走ったとしても徒歩だから警察が来るにはまだ間がある、という意味の呟きであっただろうと推測されている。)
千吉と朝市の二人を見逃していながら、睦雄はなぜ母屋に踏み込んできたのか、その点は、「勲夫婦を狙っていたから」とする見方がある。
寺井勲は睦雄の親戚だったが、当時の睦雄の言動には、勲による善意の助言や申し出をことごとく悪意に受け取り、逆恨みしていた様子があった。
例えば勲が善意から睦雄に「学校の先生になるが良かろう」と提案したところ、睦雄は「この病気の自分に対して教師になれとは、死ねといっているのと同じだ。俺を早死にさせて俺の家を横領しようとしているのだろう?」と疑い、激怒したことがあった。
この話には伏線があり、それは、かつて勲が親族としての好意から都井家の経済的困窮に同情し、その家を買い取ってやろうかという提案をしたことがあり、それで、「教師になってみては?」という他愛のない助言を、「自分を早死にさせて財産(家)を横領するための策略」と邪推したものとみられている。
また睦雄はかつて、自宅の北隣に住む幼馴染の岸田勝之(岸田つきよの長男、事件時は横須賀海兵団に所属)から、「そろそろいい年なのだから、考え直して自堕落を改め、妻をもらって真面目に働け」との訓戒の手紙を受け取ったことがあるが、この時、睦雄は農作業をしていた勲に対して、
「いらんことを言うてやるから、こんなつまらぬことを(勝之が)言ってきた。誰が言うてやったか、分かっとるぞ!」
と激怒していたという。(この出来事はまた、岸田勝之ひいては岸田家への恨みにもつながったと思われる。)
さらに睦雄は、事件前の3月12日に警察の家宅捜索を受け、それまでに集めた武器弾薬のすべてを押収されるという苦い経験をしたが、警察によると、睦雄は寺井勲について、
「三月十二日以前ノ(大量殺人の)計画ヲ警察ニ密告セリトノ誤解ヲ有スル模様アリ」
つまり勲こそが件の家宅捜索をもたらした密告の張本人であると考え---現に通報者の一人ではあったのだが---恨んでいた可能性がある、とのことだった。
8軒目は丹羽卯一宅を襲撃した。
ここには戸主の卯一(28)と、その母で未亡人のイト(47)がいた。
長女のつる代(21)は今しがた寺井千吉宅の共同養蚕室で殺害されたばかりだった。
卯一は睦雄が執心した寺井ゆり子の初婚の相手であり(3か月で離婚)、睦雄の恨みを買っていたとされる。
また、その母イトは睦雄の情交の求めを拒絶し、こちらも恨みを買っていたとの噂があった。
卯一宅にも別棟の納屋に養蚕室が設けられていた。睦雄はそこに踏み込み、保温用の炭火の様子を見に来ていたイトの両の太腿にそれぞれ1発ずつを撃ち込んだ。
イトは腰から下肢一帯にかけて原形をとどめぬまでに粉砕され、事件後、医師による手当てがなされたが、約6時間後に死亡した。
この騒ぎに母屋で寝ていた卯一は目を覚まし、裏口から飛び出して加茂駐在所へと走った。睦雄は卯一を仕留めに母屋に踏み込んだが、時すでに遅かった。
卯一は当初徒歩で駆けたが、途中からは他家の自転車を借りて走り、20分ほどで駐在所に到着した。卯一が家を飛び出したのが午前2時10分ごろ、駐在所に到着したのは午前2時35分ごろだった。
駐在所の巡査は3月の家宅捜索以来、睦雄の動静を気にかけていた。
「駐在さん大変だ、起きてくれ、人殺しだ!」
未明に響いたその声に巡査は跳ね起きたが、ガラス戸を叩く顔見知りの卯一の話を聞かないうちに、
「都井が殺ったか!?」
と怒鳴ったという。