(前記事の冒頭で引用した山岸凉子氏『負の暗示』では、問題から目を背け楽なほうへと流れ続けることでやがて負のスパイラルに陥り、自他共に破滅を招くことへの警鐘が鳴らされた。そこでは負の文字通りネガティヴな側面が強調されているように思える。一方、あえて負の感情の持つ一瞬の爆発力を比類なき攻撃力に転化し得るとしてポジティヴにとらえ、一時的ながらも負のパワーにより主人公を圧倒してみせたのがこのるろ剣の陰キャラ「雪代縁」かと。事件とは無関係のアニメのキャラながら、超絶恨みがましくシスコンぽいところも含めて、津山事件の都井睦雄を彷彿とさせるものがある。)
以下、登場人物の年齢については、数えと満年齢のごちゃ混ぜです。
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4軒目は寺井政一宅を襲撃した。
ここは睦雄が恋情を抱き、一時肉体関係があったとされる(証拠なし、噂のみ)女の一人である寺井ゆり子(21)の実家だった。
ゆり子は前年末に同じ貝尾に暮らす丹羽卯一(28)という男性と結婚したが、約3か月後には離婚となっていた。
事件後、卯一は当局の調べに対して、離婚の理由について、
「ゆり子には格別の愛情を抱いておらず、また、自分の家は祖父~父の2代にわたって血族間での結婚が続いている。自分とゆり子も親戚であるので、生まれてくる子に優生学上の懸念があるため、協議のうえで離婚した」
と語っている。
しかしその表向きの理由とは裏腹に、実際には、夫婦の寝室にまで睦雄が夜這いを掛けてくるなど、ゆり子への嫌がらせが甚だしかったため、夫婦生活が到底立ち行かなくなり離婚したのだろうとも噂された。(真偽は不明。取り調べに当たった検事も、「卯一とゆり子の離婚の背後には隠れた事情があったのかもしれないが、都井のことについては村人はなるべくこれに触れないようにしており、卯一本人も内情を吐露するのを欲しないように見受けられたので、人情上、それ以上の追及をすることはできなかった」としている。)
睦雄の狙い通り(?)、ゆり子の初婚は早々に終わりを告げたが(3月)、ゆり子は5月5日には早くも貝尾集落の女性の媒酌により、上加茂村・物見集落の男性に嫁いだ。
一刻も早く睦雄から遠ざかりたいという気持ちがゆり子にあったことは想像に難くないが、しかし凶行のあった当日は、弟の貞一(寺井家の長男、当時19)が5月15日に三木節子(22)という女性と結婚したため、その祝いで5月18日から貝尾の実家に里帰りしていたのだった。
睦雄は自殺直前に荒坂峠で認めた遺書の中で、この日(21日未明)を決行日としたことについて、ゆり子の里帰りをその理由の一つとして挙げている。
一家は先ほどから立て続けに起こる銃声に目を覚ましていた。
表入り口から躍り込んだ睦雄は、戸主の政一(60)、長男の貞一(19)、その内妻の三木節子(22)、五女とき(15)、六女はな(12)ら、暗闇のなか出口を求めて散り散りに逃げ惑う家族4人を、ある者は廊下の隅に追い詰めて至近から弾を撃ち込み、またある者は裏山の松の木を相手に鍛えた射撃の腕で離れた位置から狙い撃つなどして殺害したが、肝心のゆり子には逃げられた。
銃声と騒ぎを耳にしたゆり子は、
「鉄砲を持って暴れるなどは都井睦雄に違いない、ターゲットは自分である」
と即座に察していち早く裏手から脱出し、初めは西川秀司宅(全員殺害済み)に逃げ込もうとしたが、途中で転んで方向を転じ、睦雄の近しい親戚である寺井虎三宅に行って助けを求めたが戸を開けてもらえず、万事休すと思われたところに、その隣の寺井の本家(寺井茂吉宅)の戸が開き手招きしてくれたため、地獄に仏の思いで茂吉宅に駆け込んだのだった。
茂吉宅でも先ほどから鳴り響く銃声に目を覚まし、何事が起きたのかと軒先で様子をうかがっていたところ、窮地にあるゆり子を発見し、犯人が睦雄であることは先刻承知していたが、自家の危険を顧みずゆり子を中に招じ入れたのだった。
その戸が閉まるか閉まらないかのうちに、睦雄がゆり子を追って戸の前に駆け付けた。
5軒目はその寺井茂吉宅がターゲットとなった。
ここは睦雄の祖母方の本家であり、当時の現役の県議の妻も出すなど家柄もなかなかのものであり、村有数の素封家でもあった。
母屋には、戸主の茂吉(45)、その妻伸子(41)、次男進二(17)、四女由起子(21)がおり、また、離れの隠居部屋には茂吉の父・孝四郎(86)がいた。
ここは当初睦雄の襲撃予定になかったが、ゆり子を匿ったことで急きょ睦雄の怒りの矛先が向くことになった。
母屋では、表戸、縁の雨戸、裏戸とも家族とゆり子があらん限りの力で押さえて睦雄の侵入を阻んでいた。
睦雄が表戸の前で「開けろ」と怒号し、戸を乱暴に揺さぶったり銃床で乱打などしていると、その騒ぎに離れの隠居部屋から孝四郎(86)が顔を出し、睦雄に向って何事かを叫んだ。
睦雄は振り向きざまに孝四郎に向って数弾を浴びせかけた。
孝四郎は胸部の2か所と左手親指の付け根を撃ち抜かれ、胸部の1か所からは内臓を露出させて即死した。
嘉永生まれのこの老人は、家に引きこもりがちで出征兵士の見送りにも来ない睦雄に、「ちゃんと来るように」など、何かと善意の指導をしていたが、睦雄のデスノートにも記されていなかったことからすれば、睦雄もこの(睦雄曰く)「本家のじいさん」を、そう恨んではいなかったものと思われる。
睦雄は最後の遺書で、「討つべきを討たず、討たいでもよいものを討った、時のはずみで・・・」と後悔めいたことを口にしたが、討たいでもよいのに時のはずみで討ってしまった代表がこの寺井孝四郎だったかもしれなかった。
孝四郎が射殺された様子に危機感を覚えた戸主の茂吉は、次男の進二を裏口から外に出し、日ごろからよく睦雄の面倒を見ていた睦雄の叔父・寺井元一宅へと助けを乞うべく走らせた。
睦雄は直ちにその気配を察して裏手に回ったが、進二が竹藪に身を潜め息を殺したので見失った。
睦雄は一計を案じ、進二を捕らえたふりをして裏戸の前に立ち、
「こら進二、白状せえ! 白状せんと撃つぞ!」
などと大声で2回怒鳴った。
こうすれば寺井夫婦が進二の命乞いのために戸を開けて出てくるだろうとの策略だったが、茂吉はその手には乗らなかった。
睦雄はやむなく裏戸の前で、
「開けんと斧を持ってきて打ちめぐぞ!(打ち壊すぞ)」
などと怒号し、破れんばかりに戸板を乱打していたが、やがてしびれを切らして裏戸越しにやみくもに2発を撃ち込んだ。
弾は裏戸をぶち抜き、炊事場を越して土間との仕切りにある戸板2枚をも貫き、さらにその戸板に裏から密着していた下駄箱を突き抜け、土間を飛んで鼠入らずの頑丈な戸棚の角部を撃破し、砕け散ったその鉛の破片が表雨戸を押さえていた寺井ゆり子の前頸部を僅かにかすり(前頸部擦過傷)、同じく表雨戸を渾身の力で押さえていた四女・由起子(21)の右太ももに食い込んだ(右大腿中央外側盲管銃創、破片の摘出手術と加療2週間)。
しかし襲撃はここまでで睦雄は立ち去った。
あらかじめ襲撃のルートや時間配分など、細部に至るまで計算し尽くしていたと思われる睦雄にとって、当初の予定になかった寺井茂吉宅に多くの時間を割くことは---急訴に走った進二その他、銃声を聞きつけ駐在に走った者がいるかもしれない状況の中で---以後の計画遂行のためには得策ではないと判断したのかもしれなかった。
「開けなければ斧を持ってきて戸を打ち壊すぞ」と脅した睦雄だったが、現に目と鼻の先の睦雄の家の北の壁には祖母の首をはねた斧が立てかけてあったのであり、急ぎその斧を持ってきて茂吉宅の裏戸を打ち破る手もないではなかったはずだが、それもしなかったのは、やはり、時間を惜しんだのではないかと想像する。
また、弾数の問題もあったかもしれない。
睦雄が用意していたとされる実包は約100発、この寺井茂吉宅の後に襲撃したのが6軒であり、すべての襲撃を完了した後で荒坂峠の自殺現場に辿り着くまでの不測の事態に備えて最後に10発は残しておきたいと睦雄が考えていたとすれば---現に最後は15発を残して荒坂峠に向かい、うち1発を自殺に使用した---ゆり子一人に固執して裏戸破壊のために何発も浪費するのは避けざるを得なかったのではないかと思われる。
仮に弾数に余裕があれば何発でも連射して裏戸を破壊したかもしれなかったが(この手の破壊はスラッグ弾の得意分野)、ここにきて、約400発の実包を押収されたあの3月の家宅捜索が効いてきた形だった。
いずれにしても睦雄にとってゆり子を逃したことはこの襲撃における最大の痛恨事には違いなく、これが、おそらくは当初の予定になかった「荒坂峠での最後の遺書」の執筆に繋がったのではないかと想像する。(予定になかったので、凶行終了後に慌てて紙と鉛筆を借りに走った。)
睦雄が去った後、家族は奥の間の床下に隠れ、息を潜めて騒ぎの収まるのを待った。
進二の証言によると、睦雄がこの家に来たのは、夜の1時50分ごろだったという。
※ 以下、少し脱線しますが、「本家のじいさん」こと寺井孝四郎(86)が殺害された時の描写について、補足的な説明をさせていただきます。
寺井孝四郎が殺害された時の状況については、この事件について書かれた著作ごとに大別して2パターンあり、一つは、
A「睦雄が寺井茂吉宅の玄関前で戸を開けろと怒鳴っていたところ、同家の離れの隠居部屋から孝四郎が出てきて、睦雄に対して何かを叫んだ。睦雄は振り向きざま、その声に向かって2発を連射した。2発とも孝四郎の胸部に命中し、孝四郎は即死した」
というものであり、もう一つは、
B「睦雄が寺井茂吉宅の玄関前で戸を開けろと怒鳴っていたところ、同家の離れの隠居部屋から孝四郎が出てきて、睦雄に対して何かを叫んだ。すると、怒った睦雄が孝四郎に駆け寄り、まず日本刀で右上から大上段に切り掛かり、それを孝四郎が左手一本で受け止め、左手親指の付け根に骨に達する激しい裂傷を負った。その後二人は取っ組み合いとなったが、老体の孝四郎が若い睦雄に勝てるはずもなく、(至近から)銃弾2発を撃ち込み殺害した」
というもの。
この点、孝四郎の受傷の状況については、津山事件報告書では3か所に記載されており(25頁、65頁、388頁)、どの個所を読んでも、
「胸部に2発の銃弾を撃ち込まれた」
ということは確かに読み取れ、確定事実とみてよいと思う。
さらに65頁と388頁では(なぜか25頁ではまったく言及されていないが)、
「左手親指の付け根の球部の傷」
にも言及されており、例えば65頁では、
「左拇指球部創---左拇指球部ニ於テ六糎五糎ノ骨ニ達スル創縁不正ナル創傷アリ」(「創縁不正」の「不正」は「不整」ではないかという気がするが、とりあえず原文ママ)
となっている。
先のBつまり、「睦雄が孝四郎に向かって日本刀で斬りかかり、孝四郎が左手一本でそれを受け止め、左手親指の付け根に骨に達する激しい裂傷を負い・・・」というものは、この「左拇指球部ニ於テ六糎五糎ノ骨ニ達スル創縁不正ナル創傷アリ」という鑑定所見をもとにした推測と思われ、一方のAは、「左拇指球部の傷」を無視して「胸部の2か所の銃創」のみを取り上げた推測かと思われる。
この点、どのあたりが正確なのだろうかと考えてみると、
まず、65頁の鑑定所見では、鑑定医は孝四郎以外の人々の傷の種類について、
「銃創(銃弾による傷)」
「刺創(刺し傷)」
「切創(切り傷)」
を明確に分けて記述しているにも関わらず、孝四郎の左拇指球部の傷については何故か単に「創傷」とするのみで、「銃創」とも「刺創(刺し傷)」「切創(切り傷)」とも言っていない。
一方で、388頁のそれを見てみると、そこでは明確に「左拇指球部銃創」となっている。
また、同報告書の381頁には、睦雄が孝四郎を殺害した時の状況が描かれているが、そこには、
「(孝四郎が離れの隠居部屋から顔を出して睦雄に対して何事かを叫んだところ)犯人は忽ち孝四郎の心臓部を狙って射撃し即死させた」(原文ママ)
となっている。
さらに同報告書400頁では、「睦雄は射撃についてよほどの修練を積み、その技量は卓抜していた」としつつ、検事がそう考える根拠の一つとして、この寺井孝四郎への狙撃が挙げられている。
これらのことからして、寺井孝四郎の「左手付け根の球部の傷」については、日本刀や匕首による切り傷や刺し傷ではなく、銃弾による傷(銃創)であり、
またそれは至近から銃撃されたものではなく、検事をして「睦雄の狙撃の腕は卓抜していた」と言わしめるほどに比較的離れた位置からの狙撃であったこと、
さらに、胸部に命中した2発と合わせて、睦雄は孝四郎に向かって少なくとも3発を撃ち込んだ---うち2発は胸部に命中し、残りの1発(おそらく初弾?)は左手の親指付け根付近に命中してそのあたりの軟部を破壊した(骨に達する創縁不整の銃創)といった状況であったか、
あるいはもう一つ考えうる状況として、隠居部屋から何かを叫んだ孝四郎に対して睦雄が直ちに三つ目の照明を向け、狙撃の体勢をとった際に、それを見た孝四郎は反射的に左手(または右手を含めた両手)を胸の前にかざして防御の姿勢をとった、
(例えばこういった姿勢かと)
その姿勢の孝四郎に対して、睦雄が2発を連射し、1発が胸部にまともに命中、もう1発は胸の前にかざされていた左手の親指付け根の球部を撃ち抜いて胸に命中した・・・といったところではなかったかと推測し、それにもとづいて、当ブログでは先の描写としてみた。
(当然ながら、状況をもとにした自分なりの推測であり、他の方々の見立てを否定するものではありません。補足説明終わり)
6軒目は寺井好二宅を襲撃した。
ここには戸主の好二(21)と、その母トヨ(45)がいた。
次男はすでに家を出て岡山市で働いており、三男は高等小学校1年で、事件当日は伊勢神宮に修学旅行中で不在だった。
トヨは未亡人であり、睦雄からの情交の求めを拒絶する一方で---金品を介して情交関係があったとも噂されたが真偽は不明---村の分限者で金の力にものを言わせて未亡人たちの体をほしいままにしていたとされる「寺井倉一」という男とは肉体関係にあったとされていた。
またトヨは、睦雄が執心していたとされる寺井ゆり子や西川良子(22=西川とめの長女)が事件直前に相次いで他村に嫁いだ際の媒酌人を務めており、こうしたことからも睦雄の恨みを買っていたとされている。
好二・トヨ両名とも、これまでに響いた何発もの銃声に目が覚めなかったのか(あるいは目が覚めても身動きできなかったのか)、それぞれ別の間の寝床の中で、上半身に数発ずつを浴びて絶命した。