岡山県苫田郡西加茂村「津山三十人殺し」その10(祖母の殺害、1~3軒目の襲撃) | 雑感

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津山三十人殺し

(山岸凉子氏の津山事件をモチーフにした作品『負の暗示』より)

 

以下、残酷な描写があるので、苦手な方はご遠慮いただければと。

 

ことさらに残酷に描きたいわけではなく、報告されているままの事実を淡々と描けばそれがすでに残酷な描写になってしまうという部分があります。

 

誰それに何発を撃ち込んだ、どれくらいの大きさの傷口が空き、そこからどんな臓器が飛び出ていた・・・などといった部分はなるべく省いていますが、かといって省きすぎると被害の実態がぼやけてしまうということもあり、難しいところです。

 

詳細についてはやはり、津山事件の関連本をあたっていただくということで、よろしくお願いします。

 

この事件は大半の家が無施錠で楽々と侵入され、被害が拡大しました。戸締りにはくれぐれもご用心ください。

 

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 決行(最初の犠牲者である祖母の殺害から、3件目の襲撃まで)

 

5月21日午前1時30分ごろ、睦雄は最初に、自宅六畳中の間の炬燵で西を枕に就寝中の祖母いね(73)の首を斧で刎ねて殺害した。

 

「僕は自分がこの様な死方をしたら、祖母も長らえて居ますまいから、ふ愍ながら同じ運命につれてゆきます。道徳上からいえば是は大罪でしょう。それで死後は姉さん、先祖や父母様の仏様を祭って下さい。祖母の死体は倉見の祖父のそばに葬ってあげて下さい。」

 

大量殺人者の祖母としてこの集落にもう生きる道はないだろうから同じ運命に連れていく・・・というのが、最愛の姉に語ってみせた祖母殺害の---語弊のある言い方ながら---ある意味「優等生的な」動機だった。

 

しかし睦雄は3月のあの武器調達の努力がすべて水泡に帰した家宅捜索のそもそものきっかけを作ったのがこの祖母であると見なしていたので(遺書)、そこへの怒りはあったものと思われる。

 

また、「そもそものきっかけ」と言えば、村一番の秀才と呼ばれ卒業まで6年間級長を通した自分の人生がこうまで行き詰ったそもそものきっかけが中学進学の断念にあったと睦雄が考えていたとすれば---たとえその後に胸を病んだとしてもあの時進学さえさせていてくれればという気持ちが睦雄になかったはずがない---その原因は高等小学校卒業時の祖母による引き留めだったのであり、

だとすれば、この祖母こそがこんにちの行き詰まりのそもそもの原因であり、我がしくじり人生の元凶であったと見なしたい気持ちが、被害者意識に苛まれた睦雄的な人間の思考の底にわだかまっていたであろうことは想像に難くない。

 

のちに土地建物を担保に無謀な借金をして武器弾薬に注ぎ込んだことも、進学という本当の希望のために金を使ってもらえず人生に破れた自分は、今度こそこうして別の目的(恨みのある者皆殺し)のためにお前になんら遠慮せず全財産を注ぎ込んでやるのだという、睦雄の祖母に対する遅ればせながらの反抗のように見えなくもなかった。

 

天気が悪いといえば風邪を引くことを心配して学校を休ませるほどに自分を溺愛し、長年老体に鞭打ち小作米をとって育ててくれた大恩に少年時代の楽しかった思い出もあわせて、祖母は極端な愛憎入り混じる対象になっていたと思える。

 

その祖母の首に最初の一撃を振り下ろした。

 

そこには、遺書で姉に語って見せたような、「長らえては居ますまいから、同じ運命に・・・」という、いわば分かりやすい理由に加えて、その後の前代未聞の凶行に向けて退路を断つという意味合い、そしてそれ以上に、

 

「もとはと言えばお前だ」

 

という、自分をこんにちこの運命に至らせたそもそものくびきを断ち切るという意味合いが込められていたのではないかと想像する。

 

一度では切断されなかった。

 

「頭部ヲ数回ニ渉リテ切断シテ頚部ヲ全ク躯幹ヨリ切断シテ創傷ハ不正断端ヲ表ス。出血著シク付近ヲ汚染ス」

 

何度も振り下ろすうち、ようやく首は胴から離れて西側の障子近くに50センチほど飛び、左側を上にして静止した。

 

その口はほどけた枕覆いの手拭いの端を噛むようにしていた。

 

「不憫ながら同じ運命に・・・」と姉には語って見せた睦雄だったが、殺害後に、首や胴体をせめて揃えて布を掛けるなど丁寧に扱うということは一切なかった。

 

首も胴も血の海の中に転がったまま放置であった。

 

自分の心臓にブローニングを撃ち込む直前、荒坂峠で認めた最後の遺書では、

 

「ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、ニ歳の時からの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事を行った、楽に死ねる様にと思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙が出るばかり」

 

としたが、その激情が込み上げたのは、すべてが終わった後のことだった。

 

睦雄は役目を果たした斧を水ですすいで北側の壁に立てかけ、ブローニングを手にとり最初の襲撃先へと向かった。

 

津山三十人殺し
黄色が1~3軒目に襲撃された家)

 

 

1軒目は、自宅北隣の岸田勝之宅に侵入した。

 

戸主の勝之はこの家の長男で、睦雄とは幼馴染であり、徴兵検査は「甲種合格」、事件当時は横須賀の海兵団に入団中で不在だった。

 

自ら望んだ形跡無きにしも非ずながら「丙種合格(不合格)」となり、「劣等」の烙印を押された肺病持ちで引きこもり無職で死を待つばかり(と本人は思い込んでいる)の睦雄にしてみれば、甲種合格のこの幼馴染は、屈折した感情を抱かせる相手であっただろうことは想像に難くない。

 

家にはその母で未亡人のつきよ(50)、勝之の弟で次男の吉男(14)、三男の守(11)が就寝していた。

 

つきよは睦雄と金品を介して情交関係を結びつつもこのところは睦雄の病気を理由に拒絶していたとも噂されており(証拠はなく噂のみ)、また犯行前年の7月には、

 

「昨夜も睦雄が手の切れるような十円札を持ってきて、自分の道具を突っ張って、関係してくれと哀願してきたので困った。婆ちゃんに言いつけるぞと言ったら帰っていった」

 

などと村の女性たちに言い触らすなどしており、こうしたことからも岸田家は睦雄の殺意の対象となっていた。

 

睦雄はこの家で、寝ていたつきよ、次男の吉男、三男の守を、日本刀で文字通り滅多刺しにして殺害した。特に三男の守は、首のあたりを中心に8か所も刺されていた。

 

銃ではなく日本刀を用いたのは、銃声に人々が目を覚まして警戒したり警察に急訴したりするのを防ぐ目的があったと考えられている。

 

また岸田家の位置が都井家のすぐ北隣であり、ターゲットが50歳の未亡人と十代前半の2人という比較的楽な相手だったことも、睦雄をして凶器に日本刀を選ばしめた理由の一つだったのではないかと思われる。

 

 

2軒目は、西川秀司宅を襲撃した。

 

ここは睦雄が遺書中で最大の憎悪を向けている西川とめの家であり、事件当時は、戸主の秀司(50)と、その妻とめ(43)、長女の良子(22)、とめの妹の千鶴子(22)が就寝していた。

 

良子と千鶴子はともに既婚者だったが、この時はとめが風邪を引いて寝ており、二人とも隣村から泊まり込みでとめの見舞いに来ていた。

 

とめは西川家には再婚で来ており、事件後の調べによると「性極めて淫奔かつ多弁」にして、「とかくの風評」ある女だった。

 

睦雄とも一時期情交関係にあったとする噂もあるが、真偽のほどは定かではない。

 

ただし警察の記録には、とめ自ら睦雄に対して、

 

「あんたも年頃だから虫がついただろうね」

 

と水を向け、これに刺戟された睦雄がとめに情交を挑むとかえってこれを手酷く撥ねつけ、その後も同様、睦雄の情交の求めを拒絶し続ける一方でその恥ずかしい事実を村内に口喧しく言い触らしたとあり、睦雄の最も深い恨みを買っていたとされている。

 

とめに情交を挑んで手酷い拒絶に遭い、その事実を暴露され大恥をかかされたと読み取れる話は、あの見栄坊らしい睦雄の遺書でさえ告白されており、その部分については事実であっただろうと思われる。

 

また、とめの娘・良子も、睦雄とは一時期情交関係にあったとする噂もあるが、警察の記録によると、

 

「(二人の間に)情交関係はなきものの如しといえども、かつて(睦雄は)同女に恋しおりたるに、(同女が)他家に嫁ぎたる為、失恋したるものの如し」

 

それ故に睦雄の恨みを買っていたものと推測された。

 

睦雄はここでブローニングを使った。

 

踏み込んですぐの四畳の間に寝ていたとめの腹部に猛獣弾を撃ち込んで殺害、間髪入れず隣の四畳に踏み込み、寝ていた秀司と良子、千鶴子に猛獣弾を撃ち込み、貫通銃創を負わせるなどして殺害した。

 

睦雄の使用した猛獣狩り用スラッグ弾の威力は凄まじかった。

 

鉛むき出しの特殊な形状をしたホローポイント弾であり、命中するとある場合には幅広に潰れて体組織を大きく破壊して体内にとどまり、ある場合には体内で破裂しその破片が体内の各所に突き刺さり、またある場合には貫通銃創となったがきれいな貫通とはならず、体内で縦横に走って射出口はグチャグチャとなり鶏卵大の大穴を空けた。

 

『津山事件報告書』をまとめた検事の一人によると、

 

「猛獣弾であるため其の威力は眞に物凄いものであつて其の射入口は二銭銅貨大の創傷で比較的小さいが射出口は其の二倍以上あり出血甚だしく其の死体の惨状全く見るに忍びなかつたと云ふことである。」

 

戸主の秀司は強い男だったようで、

 

「彼は体躯も立派で頑健な百姓だった。それがあんなに脆く殺られたのは、終日の労働にぐったりと疲れて熟睡していたからだろう」

 

との、襲撃を免れた近隣住民による評が残っている。

 

また、西川家から凶器をブローニングに切り替えたのも、この「強い農夫だった」という西川秀司の存在があったからではないかと想像する。

 

 

3軒目、岸田高司宅を襲撃した。

 

ここには、戸主の岸田高司(22)と、その内妻で妊娠6か月だった西川智恵(20)、高司の母たま(70)、高司の甥(たまの外孫)で手伝いに来ていた寺上猛雄(18)がいた。

 

内妻の西川智恵は、先に殺害した西川とめの次女だった。

 

最初の襲撃には日本刀で音もなく片付けうると判断した岸田つきよ宅を選び、凶器を銃に切り替え発砲音により近隣に犯行を知られるリスクが生じてからは、真っ先に西川とめ宅を襲い(2軒目)、次いでとめの次女が嫁いでいるこの岸田高司宅を襲った形だった。

 

睦雄は内部に踏み込むや、六畳納戸で一つ布団に寝ていた高司と智恵の夫婦を、起き上がる暇も与えずそれぞれ前胸部と上腹部に撃ち込んで射殺、

 

さらに隣の間で銃声に驚き目を覚ました高司の母たまとその外孫の寺上猛雄の前にその異様な姿を現した。

 

18歳の猛雄は撃たれる直前、何かを口走りながら睦雄に飛び掛かっていったという。

 

しかし睦雄の素早い反撃を受け、銃床で顔面を強打されて転倒、下唇のあたりが広範囲に渡りぐしゃぐしゃに潰れて下の歯は折れ、顎骨も微塵に砕けてその骨片が床に散乱し、左背部から猛獣弾を撃ち込まれ、これが体内で破裂し前胸部3か所に抜ける貫通銃創となり即死した。

(下顎付近に「鈍体ニ由ル殴打創」 = 下顎付近の広範囲の挫滅は、銃床で殴打されたものとみられている。)

 

たまも胸を撃たれたが、弾丸の入る角度が幸いしたようで、重傷を負いつつも奇跡的に一命を取り留めた。その証言によると、睦雄はたまと猛雄を襲撃した際、

 

「お前んとこにはもともと恨みも持っとらんじゃったが、西川の娘(智恵)を嫁にもろうたから殺さにゃいけんようになった」

 

と、襲撃の趣旨を口にして発砲したという。

 

西川とめの係累は根絶やしにする趣旨と思われた。