順序が滅茶苦茶ですが、ここで、津山事件の概要と、凶行直前までの流れを・・・。
こうした部分について、当初は、津山事件のウィキを張るのみで済ませようかと思っていたのですが、ウィキのほうがやや簡略化されたものだったので、ウィキをベースに若干書き加えたものを、以下に紹介させていただきます。
(とはいえ、以下のものも非常に端折った内容なので、詳細については津山事件の関連本にて確認いただければと。)
■ 津山事件概要
津山事件または津山三十人殺しは、1938年(昭和13年)5月21日未明に、岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件。
貝尾集落に住む青年・都井睦雄(当時21)が、9連発に改造したショットガンと日本刀、斧を凶器として、自身の祖母や近隣住民を約1時間半のうちに次々と殺害していった。
犯行動機は、本人の書き残した遺書によれば、肺結核を理由に集落で疎外されたことによる「怨恨」。
(ただし、「そうした疎外はなく、むしろ本人のほうから周囲との付き合いを拒絶していた」とする証言もある。)
計11軒が襲撃を受け、死者30人、重軽傷者3人の被害が出た。
(都井睦雄と同居していた祖母も殺害されているので、睦雄本人の家も含めれば被害に遭った家は12軒。また、死者30人のうち、即死28人、重傷後12時間以内に死亡が2人。)
犯行後に犯人が自殺したため、被疑者死亡で不起訴となっている。
この事件は、横溝正史『八つ墓村』、西村望『丑三つの村』、山岸凉子『負の暗示』その他、多くの有名な小説や漫画のモチーフになった事件である。
津山事件ウィキ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(多治見要蔵フィギュア。事件は多くの小説、映画、漫画のモチーフとなった)
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■ 倉見での誕生から、凶行直前までの流れ
犯人の都井睦雄(とい むつお)は、1917年(大正6年)3月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現・津山市加茂町倉見)に生まれた。
実家は倉見で多くの田畑山林を所有する裕福な農家だったが、睦雄が1~2歳の間に立て続けに父母を亡くしたため、当時50代半ばだった祖母が睦雄の後見人となり、その直後、祖母は睦雄と姉のみな子を連れて、加茂の中心部である小中原・塔中へと転居した。
(睦雄の両親の死因は肺結核であったといわれているが、確定ではなく、一説には流行性感冒によったともされる。)
睦雄が5歳の頃、一家は、祖母の生まれ故郷である貝尾集落に転居した。
この時に購入した家は、集落の中ほどに立つ、とある中古物件だった。価格は土地建物合わせて500円、この金は、睦雄の両親が残した倉見の山林を売ることで賄った。
陰気な感じのする家だったらしい。当時の担当検事によると、
「この家は、構えだけは一段と大きく立派であるが、古色蒼然かつ相当荒廃しているばかりでなく、屋内甚だ暗く、文字通り鬼気迫るの感ある家である。」
また、いわく付きの家でもあった。
かつてのこの家の住人であり津山事件被害者の遺族の一人でもあった寺井ショウという老婆(事件当時80)が当局に語ったところによると、
事件の63年前(1875年、明治8年)、ショウの先夫で当時(数え)22歳だった寺井常次郎という男が隣の楢井集落の人妻おたいと姦通し、その現場をおたいの夫の牧蔵に発見された。
ところが逆切れした常次郎はいったん自宅に引き返し、日本刀を持って牧蔵宅に乗り込み、おたいを殺害して無理心中を図ろうとしたが、おたいを斬ることができず、牧蔵に斬りかかった挙句に割腹自殺したというのだった。
睦雄一家はそうした因縁のある家に暮らすことになった。
倉見に残した山林などある程度の資産の売却益に貝尾での畑作もあわせて、当初は比較的楽に生活を送ることができていた。
睦雄は西加茂の尋常高等小学校では3年から高等2年の卒業まで級長で通すなど、成績優秀で将来を嘱望され、教師も、
「このまま百姓になるよりは、上の学校にでも行ってみんか?」
と勧めたが、家に男子一人でもあり祖母が手放すことができず、卒業後の中学進学が叶わなかった。
さらに尋常高等小学校を卒業した直後に肋膜炎(胸膜炎)を患って医師から農作業を禁止され、以来、両親の死因と思われた結核に自分も感染しているのではないかという疑念と死への恐れに鬱々とする日々が続いた。
胸の病が小康を得てからは実業補習学校や青年訓練所に通う等したが、いずれにも体調が思わしくないとして、熱心に通うまでには至らなかった。
1934年(昭和9年)、仲の良かった3歳上の姉みな子が隣村に嫁ぎ、家には睦雄と祖母の二人きりとなった。
1935年(昭和10年)、睦雄は小学校の教員になるための検定試験(いわゆる「専検」)を受けると称して自宅に引きこもり、自ら友人知人との付き合いを断って試験勉強を開始した。
しかしその半年ほど後に胸の病が悪化し、事件後、被害者の遺族の一人の供述によると、そのころの睦雄は「6か月余り病床に」あった。(この頃、睦雄は医師から「肺尖カタル」と診断されている。)
ところが病状が回復してのちは俄然素行不良となり、相変わらず家に引きこもって仕事は祖母に一任し、夜になると家を空けて他家を覗きまわり、異性の家に出入りする等の風評が目立ち始めた。
睦雄が遺書で明かしているような、村の女性たちとの間のトラブル~痴情のもつれが生じるようになってきたのは、この頃以降のことかと思われる。
1937年(昭和12年)4月26日、成人した睦雄は、土地を担保に岡山県農工銀行より400円を借り入れた。
(銀行に申し入れた借り入れ目的は「畜牛の購入」だったが、もちろん、借り入れ後に牛を購入するといったことはしていない。)
1937年(昭和12年)5月22日、睦雄は徴兵検査を受け、結核を理由に丙種合格とされた。
(丙種合格 = 入営不適、民兵としてのみ徴用可能。事実上の不合格。この「丙種」云々にショックを受けた睦雄が自暴自棄となり拡大自殺的な大量殺人へと突き進んだとする見方もあるが、睦雄は徴兵検査時に自ら「自分は結核です」と申告しており、加えて、返す当てのない400円を4月の時点で借り入れていることから、凶行---少なくとも西田とめと寺井マツ子そして彼女らの親族の殺害---への決意は徴兵検査よりも以前に固まっていたとみることも可能ではないかと思う。とすると、睦雄にしてみれば晴れて「丙種」となり事実上徴兵を免れることが決まった5月下旬以降から多額の金を費やして武器弾薬の調達に邁進したことの説明も付きやすいのではないかと。)
1937年(昭和12年)6月初旬ごろから、睦雄は1週間置きくらいに2~3回、津山の片山銃砲店を訪れ、繰り返し、銃の構造や取り扱い方法を尋ねた。店主は、「随分くどい性質の男だな」と思ったが、一方では、「子供々々したところのある温順そうな男だ」との印象も抱いたという。
同年7月、睦雄は片山銃砲店でベルギー製のショットガン「ブローニング・オート5」(12番口径)を中古で購入し(価格は55円)、同年10月には狩猟免許を取得した。
1938年(昭和13年)2月、上記の銃を神戸の高橋銃砲店で80円で下取りに出し、追い金110円を払って同じく12番口径ブローニング・オート5の新品を購入した。
睦雄は銃を携え、貝尾集落の南側にある天狗寺山に登っては、高田村との境界付近にある樹齢30年ほどの松の木を相手に射撃練習に励むようになった(松の木は猛獣弾を多数撃ち込まれ蜂の巣状態に)。
また、夜ごとに銃を手にしては村を徘徊し、住民に不安を与えるようになった。
同じ時期、前年末頃から肉体関係となっていた隣接する坂元集落の人妻とのことで、相手の夫や睦雄の親族をも巻き込んでひと悶着起きていた。
1938年(昭和13年)3月、睦雄が祖母の睡眠改善と称して味噌汁に異様なにおいのする白い粉末を入れたことをきっかけに、祖母が「孫に殺される」と騒いで親族に相談、
加えて、このところ何かというと「ぶっ殺す」「生かしてはおかぬ」と口走り武器弾薬をため込んでいる睦雄の動向に親族や近隣住民も危機感を募らせていたため、警察に通報され、家宅捜索を受けるに至った(3月12日)。
この家宅捜索により、猟銃3挺と、散弾・猛獣弾の実包合わせて約400発、その他多数の雷管付き薬莢(ケース)や火薬、鉛玉などのほか、日本刀・匕首(あいくち)などが押収された。
睦雄はこれらの押収品について、
「実包などが多数あるのは、来年は支那事変(日中戦争)の影響でそれらの価格が暴騰する見込みなので、今のうちに買いだめしているものです」
「匕首などは山仕事の必要上持っているのです」
などと言い訳をしたが、その手は通じず、狩猟免許状の提出も命じられた。睦雄は、「狩猟免許は山での運動のため、健康上必要で持っているものだから、提出は勘弁願いたい」と粘ったが、結局これも取り上げられた。
(睦雄が祖母に飲ませようとした白い粉末に関して、睦雄自身は、あれは「わかもと」であると弁明したが、本当にわかもとだったのかは不明。)
睦雄はこの家宅捜索により、それまで犯行に向けて整えていた武器弾薬類のすべてを失った。
(ただし事件後の捜査で2月に神戸の高橋銃砲店で購入していたとされた「補増弾倉」については、この時の押収を免れた可能性がある。武器弾薬の入手時期については津山事件報告書内でもブレがあり、定かなことは言いにくい。)
地元の駐在は非常に親切な人であったようで、この家宅捜索後、睦雄の就職の世話に奔走したり(鉄道員になることを勧めた)、睦雄が闘病の意思を放棄しているとみるや、諦めてはいけないと励ます一方で、地元の医師に睦雄の病気治療への格別の配慮を請うなど、その更生のために全力を尽くした。(事件後、この駐在には村人から多くの同情が寄せられたという。)
寺井元一をはじめとする睦雄の親戚たちも、この家宅捜索を機に、過去の不心得を改めて正道に立ち返るよう説論した。
睦雄はこれらの厚意と助言に従順恐縮の態度を示し、涙を流さんばかりに感謝して見せたという。
しかしその一方で、家宅捜索の翌日(3月13日)には早くも再武装のための活動を開始していた。
狩猟免許を有する知人に依頼して津山の銃砲店から火薬や雷管付きケースを買ってきてもらい、一方で自ら大阪に赴き、ブローニング・オート5(中古)や猛獣狩り用の弾丸(アイデアル弾)を購入、
さらに地元加茂の刀剣会会長(歯科医)に接触し、「軍人である従兄の昇進祝い」と偽って比較的安価で日本刀を譲り受け、家宅捜索後約2か月のうちに、再び必要な凶器類のすべてを整えた。
「けれども考えようではこの一度手入れを受けた事もよかったのかも知れん。その後は世間の人はどうか知らんが、祖母を始め親族の者は安心したようである。僕はまたすぐ活動をかいしした。加茂駐在所にて説論を受けてかえると、そのあくる朝すぐ今田勇一氏を訪れ、金四円の札にてマーヅ火薬一ケ、雷管附ケース百ケをば津山片山鉄砲店より買って来てもらった。銃も大阪に行き買った。刀は桑原伊藤歯科より買い、短刀を神戸より買った。之までの準備はごくひみつにひみつを重ねてしたのだからおそらく誰も知るまい。之で愈々西川とめ其の他うらみかさなる奴等に復讎が出来るのだ。こんな愉快なことはない。どうせ命はすててかかるのだ。」(遺書より抜粋)
1938年(昭和13年)5月18日、睦雄が執心していた女性の一人(5月初旬に近隣の物見集落に嫁入り済み)が貝尾の実家に、弟の結婚祝いで一時里帰りした。
同日、睦雄は2通の遺書を書いた。
5月20日、睦雄が自転車に乗り、山の中や畑の中の細い道を何度となく村役場のほうへ往復しているのを、少なからぬ村人が目撃した。
役場の隣には駐在所と消防組の詰め所があることから、襲撃を逃れた者が駐在所に急訴するのに要する時間を計測していたものとみられている。(当時、西加茂村駐在所の巡査は出征で欠員中だった。)
同日午後5時ごろ、睦雄は電柱によじ登り、ペンチ様のもので送電線を切断、貝尾集落への送電のみを停止させた。
(黒服の男が電柱によじ登って何かをしているのを目撃されていたが、事件後、この黒服が睦雄であったのだろうと推測された。)
この電線の切断について、事件後に、加茂水力電気株式会社の技師が調べたところによると、
「西加茂村大字行重の8号柱に、同柱に取り付けられた足場釘を伝って地上約5.4メートルのところに登り、変圧器2次側ケッチホルダーより低圧茶台碍子(がいし)に至る間の導線二条を切断、また同様にして字貝尾の6号柱の地上約6メートルのところに登り、低圧二重碍子のところにおいて低圧線二条を切断し、地上に垂下せしめ、これを再び二か所において二条ともに切断」したものだった。
検事の一人は、
「彼はこの方面についても相当の研究をしたらしく、他の部落には何らの影響のないように、極めて巧みに切断されてあったということである」
と報告している。
貝尾以外も停電させればいたずらに停電騒ぎが大きくなり、一人でも夕方に管理会社に修理を請いに走れば、その6~7時間後(21日未明)の犯罪決行が不可能になりかねない。
睦雄は管理会社に通報されるリスクを最小限化するべく、あくまで貝尾のみを狙って暗黒化したものと思われた。
日が暮れて貝尾に灯はともらず、辺りは漆黒の闇に覆われた。
睦雄の読み通り、管理会社に修理を請いに走る者は一人もなかった。
睦雄の親族の一人が睦雄のナショナルランプを借りて電柱によじ登り、停電の原因を調べようとした。
しかし素人の悲しさで埒が明かず、その様子を下で眺めていた睦雄に、「お前、直してくれんか」と頼んだところ、睦雄は「わしは慣れてないけん、できん」と答えたという。
翌5月21日午前1時30分ごろ、睦雄は行動を開始した。
黒セルの詰襟洋服に軍用の巻ゲートルと地下足袋を身に着け、頭には特製鉢巻をして左右側頭に1本ずつ小型の懐中電灯を結わえつけた。
首からは細紐でナショナルランプを吊り下げ別の紐で胴体に固定し、左腰には日本刀一振りと匕首二口を差して揺れを防ぐべくその上から革帯で締め上げた。
左肩から右脇に向けては猛獣狩り用スラッグ弾実包を多数入れた雑嚢を掛け、9連発に改造したブローニングのショットガンを携え、天井裏に設けた秘密部屋を抜け出した。
土間に降り立った睦雄はいったん銃を置き、かねてより研ぎ澄ませておいた薪割り用の斧を手にして、足音を忍ばせつつ祖母が眠る西側の6畳中の間へと向かった。
(犯行に用いた実物。柄の長さは約65cm)