岡山県苫田郡西加茂村「津山三十人殺し」その7(ブローニング・オート5) | 雑感

雑感

たまに更新。ご覧いただきありがとうございます。(ごく稀にピグとも申請をいただくことがあるのですが、当方ピグはしておりません。申請お受けできず本当にすみません)

津山三十人殺し

(ベルギー製のセミオートマチック・ショットガン「ブローニング・オート5(12番口径)」。白黒のほうは睦雄が犯行に使用した実物で、9連発に改造されている。)

 

※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います※※

 

----------

 

ド素人なりですが、犯行に使われた銃について調べてみました。

 

(今回も長くなったので、記事を2つに分けました。)

 

 

 「ブローニング・オート5」

 

100年近く前の山間の僻地のおどろおどろしい事件だから、使用された銃も納屋の隅で長年埃を被っていたような、明治の頃におじいちゃんがたまに思い出したように持ち出しては池のほとりで鴨撃ちに使っていたようなショボショボの旧式銃に違いない・・・そう連想しがちではないかと。

 

ところが実際に睦雄が使用したのは、

 

「ブローニング・オート5」

 

という、発射時の反動を利用するシステムによるセミオートマチックのショットガン(散弾銃)だった。ジョン・モーゼス・ブローニング(1855~1926)という天才銃器設計者の手による歴史的な名器であるという。

 

この銃は1902年の製造開始から第2次世界大戦開戦前夜まではベルギーの銃器メーカーであるFN社(ファブリックナショナル社)が製造を請け負っていた。

 

やや遅れてアメリカのレミントン、サベージアームズなど2社もライセンスを得て生産を始めたが、アメリカのものは「モデル11」「モデル720」などの別名で販売された。

 

下の画像は、1938年(津山事件と同じ年)に製造されたベルギーFN社製の12番口径ブローニング・オート5。「オート5」の部分は、略して「A5」などとも言う。

 

津山三十人殺し

 

「散弾銃」という名から、「散弾」を撃つことに特化した、要は散弾しか撃てない銃なのかと思われがちかもしれない。しかし実際には、散弾以外にもいわゆる

 

「スラッグ弾」

 

と呼ばれる大きな一発モノの弾も撃つことができた。

 

下の画像は、散弾銃(ショットガン)に使用される弾丸の一例。

 

津山三十人殺し

 

画像奥の赤と金の4つの筒状のパッケージこれがショットガン用の薬莢で、「シェル」「ケース」などと呼ばれる。

 

ショットガンではこの薬莢の中に鳥撃ち用・鹿撃ち用など各種大きさの散弾を込めて撃つことができるし、より威力が必要な場合には、右端のように、スラッグ弾と呼ばれる一発モノの弾丸を込めて撃つこともできる。

 

散弾だけではなく、一発モノの大きな弾(スラッグ弾)も撃てるので、本来、「散弾銃」という名称は正確とは言えないとのことで、ウィキによると、

 

「散弾銃の実包(ショットシェル)はプラスチック製のケースと金属製のリムで構成され、ケースの中にはあらかじめ多数の小さな弾丸(散弾)が封入されており、銃口より種々の角度をもって放射状に発射され、一定範囲に均等に散らばり着弾する。散弾銃と称される所以である。」

散弾以外に、一発の大きな弾体を発射するスラッグ弾という弾種も発射でき、厳密に言えば散弾銃という名称は正確ではない。」

「スラッグ弾では有効射程が延長され、ある程度の狙撃も可能である。(中略)日本国内での狩猟用ライフル銃の所持には10年以上の装薬銃所持実績が必要であるため、ライフル銃所持条件に満たない場合には、大型動物の狩猟用にスラッグ弾と散弾銃の組み合わせで代用することになる。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A3%E5%BC%BE%E9%8A%83

 

ちなみに、睦雄が犯行に使用したブローニングA5は、

 

「12番口径(12ゲージ)」

 

のもので、(ライフルや拳銃ではなく)散弾銃の12番口径とは、ウィキによると、

 

「口径(銃身の内径)が1/12ポンドの鉛球に相当する直径18.4ミリ(約0.729インチ)の実包を使用するもの。世界的に最も多く用いられている口径。」

日本国内では一般に許可される実質的に最大口径である(銃刀法上の最大口径は8番)」

 

とのこと。

 

各種銃の実包のサイズがざっくり分かる画像があったので紹介してみると、

 

津山三十人殺し

(ショットガン用12番の実包サイズが他と比較してもかなり大きいことが見て取れるかと。赤枠のは戦闘車両や艦艇にマウントされている軍事用のヤバいもので、人が携行して手で持って撃つものではないので、無視で。)

 

 

睦雄はこのショットガン用12番サイズの実包に、

 

「アイデアル弾」

 

という、猛獣狩り用として販売されていた一風変わった形のホローポイント・スラッグ弾を使用し、狙った人々の至近から撃ち込んだ。

 

ショットガンはあくまで散弾用の銃でもあるから、一部の特殊仕様のものを除けば、銃身の内側にはらせん状の溝(いわゆる「ライフリング」)が刻まれておらず、命中精度と威力を保ったまま弾丸を数百メートルといった遠距離まで飛ばすのは不得手だったが(そこは「ライフル」がショットガンを圧倒)、大口径から大きく重い弾を撃ちこめる利点を生かして、至近距離からのターゲット破壊はショットガン(スラッグ使用)の最も得意とするところだった。

 

「shotgun slugfest」などで検索すると、アメリカのおじいちゃんが

 

「ヒャッハー!」

「ナ~イス!♪」

 

などと言いながら(本当に)、至近距離にある各種ターゲット(無生物)にスラッグ弾を撃ち込んでいる動画などがわらわら出てくる(ブローニングA5もあり)。

 

その破壊力はもの凄く、これが人体に撃ち込まれたらと想像するとあまりにも恐ろしく、部外者の自分でさえ、冗談ではなく地に額をこすりつけて命乞いをしたいような衝動に駆られたほどだった。

 

 

津山三十人殺し

(ライフリングにより弾丸の飛距離や命中精度は飛躍的に向上するという。ショットガンの銃身にはライフリングが施されておらず、遠距離の狙撃は不得手だが、数十メートルといったあたりまでの近距離での破壊力は強力無比なものがあった。)

 

 

睦雄はスラッグに猛獣狩り用のホローポイント弾(しかも鉛むき出し)を使用し、至近距離から撃ち込んだ。

 

遺体に残された傷跡は凄惨なもので、正視するに忍びないものだったという。

 

犯行に使用されたのは、睦雄が購入した4挺目のブローニングA5(大阪市で購入)だった。

 

睦雄は1937年7月~1938年5月の犯行に至る約10か月の間に、計4挺のブローニングA5を購入している。(いずれもベルギー製、12番口径。記録に残る限り、彼は12番口径ブローニングA5以外の銃は購入していない。)

 

購入遍歴を以下に示すと、

 

1挺目は、1937年7月25日、津山市の片山銃砲店で購入(中古、55円)。

 

2挺目は、1938年2月23日、神戸市の高橋銃砲店で購入(新品、190円。1挺目を80円で同店に下取りに出し、追金110円を支払った。購入契約時に手持ちの金が足らなかったため、代金引換小包で送ってもらい、現物の受け取りは2月28日になった。この銃は銃身長まで分かっており、銃身長=26インチだった。ところがこの銃は同年3月12日の家宅捜索で押収された。この時の家宅捜索では他に2挺の猟銃が押収されているが、その2挺は睦雄の所有ではなく、他人からの借り物だった。この時に押収されたブローニングは、警察の計らいにより、西加茂村の旅館兼料理業・H氏が睦雄から買い取る形となった。H氏は買い取りにあたって相場を聞くべく、津山の片山銃砲店を訪れた。店主はH氏に対し「130円」と値を告げた。)

 

3挺目は、1938年4月25日、大阪市の鷲見火薬店で購入(中古、160円。先の家宅捜索で没収された新品の分の代金として結局135円を得ていたので、その金を3挺目の支払いに充当したとみられる)。

 

4挺目は、1938年5月1日、3挺目と同じく鷲見火薬店で購入(中古、145円。睦雄は3挺目の調子が悪いとして同火薬店に持ち込み、145円の別の中古と交換してもらった。この4挺目が凶行に使用された)。

 

津山事件報告書内でも、銃を購入した日付やショップ名に食い違いが見られる部分があるものの(3挺目に言及していないレポートもある)、おおむね上記の流れかと。

 

睦雄は1挺目の銃について、遺書中で、

 

「銃が悪いので又金を個人借用して新品を神戸より買った」

 

と述べている。55円と安かったのは、例えば、かなり古いものであったとか、完調とは言えなかった等、それなりに理由があったのではないかと思う。

 

3~4挺目については大阪まで出向いて購入している。実はこれには理由があり、睦雄は3月12日の家宅捜索で武器弾薬を没収された後、同月末日に2挺目を買った神戸の高橋銃砲店を訪れ、「もう一挺売ってくれ」と持ち掛けたが、同店には3月下旬のうちに津山の猟友会副会長から、

 

「都井睦雄は危険人物につき、銃を売らないでもらいたい」

 

という勧告が行っており、店主は販売を断った。

 

そうしたことから、睦雄は神戸での銃の購入を諦め、後日、大阪まで足を延ばしたものと思われる。神戸の高橋銃砲店による供述をそのまま引用すると、

 

「三月末日都井カ再ヒ来リ モウ一挺銃ヲ売ツテ呉レト言ツテ来タカ 前記危険性カアル様子ヲ聞イテイタ故 売ルコトヲ拒絶シタ」

 

思わぬ拒絶にあい、この日の神戸遠征は徒労に終わった。

 

睦雄は犯行時に腰に差していた2本の匕首(あいくち)について、「神戸で買った」と遺書中で明かしているが、神戸遠征がまったくの無駄骨になるのを避けるために、匕首については、案外この日に購入したのかもしれない。

 

-----

 

津山三十人殺し

(画像は1920年代製造のブローニング・オート5(12番口径)。現所有者により銀色にコーティングされ、10連発に改造されている。)

 

 

睦雄は犯行に使用したブローニングA5を、9連発に改造していた。

 

「改造」と聞くと、なにか睦雄自身が工作機械を駆使して9連発用の弾倉を自作し取り付けたかのような響きがあり、実際、そのようにイメージする人もいるのではないかと。

 

そのあたり実際にはどうだったのか。

 

津山事件報告書を調べてみると、警察は事件後、睦雄が

 

「中古ブローニング12番口径5連発ニ実包9個ヲ装填シ得ル装置ヲ施シタル銃」

 

をどこで買い求めたのか、それを捜査している。

 

津山事件報告書にはその捜査結果が書かれているが、この9連発ブローニングの入手のくだりについては、いまひとつ要領を得ない内容となっている。例えば、

 

「十二番径中古ブローニング五連発猟銃(補造弾倉ヲ改造シテ九連発トナシ在ルモノ)ハ 昭和十三年五月一日大阪市東区内本町三丁目三十六銃砲火薬店鷲見敏彦方ニ於テ(中略)一百四十五円ニテ購入シタルモノ」(原文ママ)

 

とあり、これだけ見ると、

 

「睦雄の銃は大阪市のガンショップで購入した時点ですでに9連発に改造されていたものだ」

 

という風にも読める。(もっとも、「9連発に改造する前の、5連発のままのものを購入した」とも読めるが。例えば「補造弾倉ヲ改造シテ・・・」の前に「犯行時ニハ」などの言葉が省かれていたとすれば、そう読めると思う。)

 

一方で、睦雄が5連発を9連発にする装置(以下「補増弾倉」という。報告書では「補造」弾倉としている部分もあるが、「補増」で統一します)そのものを神戸の高橋銃砲店で購入していたとする報告もある。

 

それによると、睦雄は事件の約3か月前に、神戸駅近くの高橋銃砲店でその「補増弾倉」を購入し、それを事件直前(5月12~13日)に同店に持ち込み、「補増弾倉の調子が悪いから」として、修理を依頼した事実が判明したとしている。そのくだりを原文のまま引用すると、

 

「神戸市(中略)高橋銃砲店ニ付調査スルニ 五月十二、三日頃 都井睦雄ハ同店ニ至リ 補増弾倉(同器ハ本年二月九日高橋銃砲店ニテ買求メタルモノ)ノ調子カ悪イカラ修理シテ呉レトテ 持参セシ補増弾倉ノ修理ヲ為サシメ立去リタル事実アリ」

 

ちなみに睦雄は確かに5月12日に神戸に日帰り出張をしたようで、津山事件報告書によると、

 

「五月十二日 犯人カ茶色風呂敷包ミヲ所持シ 神戸辺ノ往復切符ニテ一番列車ニ乗リ終列車ニテ加茂駅ニ帰リタルヲ 加茂駅荷物係リ西山一二三カ目撃セリ」

 

津山事件報告書のこれらの記述を見ると、

 

「5月1日に大阪市の鷲見火薬店で購入したブローニングが、最初から9連発になっていた」

 

というよりは、

 

「2月9日に神戸の高橋銃砲店で『補増弾倉』を購入し、5月1日に大阪市の鷲見火薬店で145円で購入した5連発ブローニングに(先に神戸で購入済みの補増弾倉を)取り付けてもらい(あるいは取り付け自体は自分で行い)9連発とした。しかしながら、試射してみるとその補増弾倉の調子が悪かったので、5月12~13日に購入元の神戸・高橋銃砲店に持ち込み、修理してもらった」

 

という風に読むのが妥当なように思える。(真偽は判然としない)

 

いずれにしても、9連発に「改造」とはいっても、睦雄自身が工作機械を駆使して弾倉拡張のための部品を製造・取り付けしたのではないと想像する。

 

ところでこの「補増弾倉」ということについて、ブローニング・オート5の弾倉(マガジン)は金属の管状のもので、英語ではこれを「チューブマガジン」と呼ぶらしい。

 

5連発以上にするには、そのマガジンを拡張する「エクステンションキット」というものを購入する。

 

「エクステンション」には、「拡張・伸長・延長」などの意味があるとのことで、「マガジン・エクステンションキット」は、「弾倉拡張キット」の意味になるらしい。

 

弾倉拡張キットといっても実態は単純なもので、金属の筒と、その中に入れるバネに過ぎない。

 

津山三十人殺し

津山三十人殺し

 

こうしたキットを購入し、自己所有のブローニングの、もともと付いている弾倉の先端に、延長の弾倉を取り付ける。(加工は必要なし、専用のナットで容易に取り付け可。)

 

 

津山三十人殺し

ピンク枠で囲んだキャップを回して取り外し、弾倉をカバーしている木の部分を掴んで白矢印の方向にスライドさせると、木のカバーが外れ、中のチューブマガジン---画像では黒いバネに覆われた銀色の筒---がむき出しになる。チューブマガジンの先端、水色矢印の部分に強化ゴムっぽい栓がしてあるので、ドライバーの先端で引っ掛けてその栓を取り外すと、チューブマガジンの中から長いバネ---画像の黄色枠で囲んだもの---が出てくるので、それを取り出す。次に、木のカバーを元通りにはめ、水色矢印の部分と、買ってきた延長弾倉とを連結する。連結自体は専用のナットで簡単にできる。次に、買ってきたキットに付属している長いバネを、延長した弾倉の先端から中に挿入して、先端のふたを閉める。最後に、銃身と延長弾倉を、付属の固定具で固定する。)

 

 

津山三十人殺し

ピンクの部分が、弾倉拡張のための部品。拡張された弾倉の中には、キット付属の長いバネが仕込んである。)

 

 

弾倉を延長すること自体は、古くから普通に行われていたらしく、散弾銃のウィキによると、

 

「米国では1960年代中ごろまでは管状弾倉(チューブマガジン)を延長し、5連発以上に改造して鳥猟を行うことが当たり前であった。」

「日本でも戦前の1938年(昭和13年)の津山事件にて、9連発に改造されたブローニング・オート5が凶器として用いられるなど、猟銃の改造手段として一定程度の認知はされていた。」

 

とのこと。

 

睦雄はそうした「弾倉拡張キット」すなわち警察が言うところの「補増弾倉」を神戸の高橋銃砲店で購入・取り付けてもらい(あるいは取り付けは自分で行い)、9連発にしたものと思われる。

 

弾倉を拡張することで、睦雄のブローニング・オート5は、あたかも銃身が2本あるかのような姿に変身した。

 

津山三十人殺し

(再掲。Beforeのほうは、1929年ベルギーFN社製12番口径のブローニングA5。Afterのほうは、睦雄が1938年5月1日に中古145円で購入し、犯行に使用した実物。)

 

 

下は3種類の弾倉拡張済みブローニングA5。

弾倉を拡張するにも、微妙に異なるやり方がある様子。

 

津山三十人殺し