睦雄の犯行時の装束です。
服は黒の詰襟服、足には地下足袋です。
その他の部分について、調べてみました。
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● 「懐中電灯」
睦雄は犯行時、自作の布製鉢巻きで、左右の側頭に小型円筒形の懐中電灯を取り付けていた。
この懐中電灯につき、メーカーなど詳細は不明。
サイズは、径2.6cm、長さ13.7cm。
ある検事が事件の約1年後(昭和14年5月10日)に現地貝尾を訪れ、その時のレポートを同月作成して津山事件報告書に寄せている。その中で曰く、
「(最後から2番目に襲撃された世帯である)寺井倉一宅を襲撃した際には、何故か胸に吊るしたナショナルランプは消えてしまっていた。残るは頭に取り付けた懐中電灯2燈のみである。それも、極く小型のものだ。これだけで犯人は寺井倉一宅から岡本和夫宅までの十町(約1.1km)に近い山腹の小径を駆け抜けたことになる。もっとも、小型懐中電灯のほうは買ったばかりで光度が新鮮だった。私がこの文を綴る当時も、証拠品として押収されているこの懐中電灯を調べたとき、その一つはなお電池が残っていて明かりが点いた。」
● 「ナショナルランプ」
睦雄は犯行時、直径6cmのレンズ付き大型円筒形のナショナルランプを、首から細ひもで胸部に吊り下げていた。
このランプの正式商標は「ナショナルバンドライト」。
津山事件報告書ではいくつかの個所で「自転車用」とされているが、発売元の「松下乾電池株式会社」の企画部主任の説明によると、同商品は、夜間や坑道内、自動車の下など、暗所において両手で作業をするとき、頭部等に取り付け照明として使用する用途で製造されたとのこと。(用途は必ずしも自転車用とは限らない)
1937年7月(事件の約10か月前)から販売が開始され、同主任によると、もとは外国製の輸入品を参考に開発された商品とのことで、
その輸入品は「ライト部分」と「電池ケース」がセパレートになっており、その両者をコードで連結しなければならないという欠点があったが、松下製の「ナショナルバンドライト」は「ライト部分」と「電池ケース」とを一体化(接着)させ、両者をコードで連結する煩雑さを解消したものであるとのこと。
襲撃した最後から2番目の家である寺井倉一宅を襲った時には、この胸のナショナルランプは消えていたという。(電池切れか機械の故障かは不明)
ちなみに、頭に牛の角の如く2本の懐中電灯を刺し、胸にナショナルランプを吊り下げた睦雄の装束については、当時の人々もよほど異様に感じたらしく、津山事件報告書には、
「衒奇性の一表現とも見得るであろう」(検事)
「凶行時の装備の如きは衒奇的の色彩濃く、懐中電灯を牛の角の如く両側頭に装置し、他の一個を胸に吊り下げ、三刀を腰に差したる凶行当時の彼のいでたちは、一種の衒奇症とも見ることを得ん」(京都帝大の法医学教授)
といった感想が見られる。
(衒奇症<げんきしょう> = 奇矯なわざとらしいふるまいをすることで、統合失調症の症状の一つとのこと。)
凶行時の睦雄の装束について、先の検事はさらに続けて、
「睦雄の地元では夜に川漁をするとき懐中電灯を1個手拭いで頭上に結び付ける慣習があるので、それにヒントを得たのではないか」
「睦雄が愛読していたという雑誌『少年倶楽部』昭和12年度12月号に掲載されていた日本兵のイラストをヒントにしたのではないか」
といった推測もしている。
(雑誌『少年倶楽部』昭和12年度12月号に掲載されていた日本兵のイラスト)
しかし、「衒奇性(衒奇症)」とか「何かからヒントを得た」云々以前に、電線を切断して集落を暗黒化し、その中で逃げ惑うターゲットを確実に視界にとらえ、銃撃し、あるいは日本刀で殺害するということであれば、複数の照明器具を身にまといつつ、なおかつ2本の腕をフリーに保つことが必須であり、銃や日本刀を奪われる~弾を撃ち尽くすといった事態のためには予備の武器(つまり匕首)も必須と思われ、そういった見地に立てば、誰であれ、あの装束に行き着くのではないかと。
あの異形は、目的完遂のために何をどう装備すべきかを考えた上での合理的な結論であり、何かの物真似であるとか、いわんや「衒奇性(衒奇症)」といったものとはむしろ対極にあるものではないか、と思う。
(画質があれですが・・・、左が細ひもとナショナルランプ、右が特製鉢巻きと2個の懐中電灯、いずれも犯行時に装着していた実物)
● 「雑嚢(ざつのう)」
雑多な物を入れる袋~肩から掛ける布製のかばんのこと。
睦雄が犯行時に携帯していたのは肩掛け式のもので、これに実包を入れ、左肩から右脇に掛けていた。
事後の検証で、睦雄が用意していた実包は約100発と推定されている。
犯行スタート時点で9連発ブローニングに装填していた実包数を9発とすれば、残りの約90発を雑嚢に入れて犯行を開始し、撃ちまくる途中で何度もこの雑嚢に手を突っ込み、実包を取り出してはブローニングに装填しなおしたものと思われる。
睦雄の自殺体発見時、ブローニングにはなお5発の実包が装填され、雑嚢には9発の実包が残されていた。
(日本軍の雑嚢レプリカ一例)
● 「日本刀」と「匕首(あいくち)」
睦雄は事件前の3月に親族その他の通報により一度家宅捜索を受け、それまでに集めた武器弾薬の全てを没収された。
その翌日から睦雄は密かに武器弾薬の再入手に着手した。
日本刀については、睦雄はこれを、当時東加茂村大字桑原で歯科の出張診療所を開設していた伊藤医師から購入している。
伊藤医師は刀剣マニアで、事件前年の正月に加茂町で自身会長となって刀剣会を立ち上げたほどだった。睦雄はこれを知り、伊藤医師への接触を試みたものと思われた。
伊藤医師によると、事件の1か月ほど前、睦雄が診療所に来て治療を請うた。見ると左上顎小臼歯がかなり腐食していたので、医師は当日を含め2度の治療で応急の手当てを施した。
その2度目の治療の時、睦雄が突然、
「先生は刀剣を沢山秘蔵されているそうですが、私の従兄がこの度軍曹に昇進し、手ごろの刀を求めているので、ぜひ一本分けてくれませんか」
と申し出たので、医師はこれを承諾した。
その後(日付は不明)、医師が診療所から鳥取県智頭町の自宅に戻るべく、因美線の美作加茂駅で午後6時12分発鳥取行きの汽車を待ち合わせていると、睦雄が訓練服に番傘をさして現れ、
「これからお供をしてもよろしいですか?」
と問うたので、医師は当日その予定にはなかったが、睦雄を智頭町の自宅に同行することにした。(医師本人はそう供述しているが、両者が落ち合ったのは、美作加茂駅ではなく、もう一つ鳥取寄りの「知和駅」であるとしている検事もいる。※また、その時の日付について医師は明確に述べていないが、警察の調べでは「5月8日」「5月8日頃」とされている。)
自宅で見せた三振りの中から、睦雄はとある一振りを選び出した。
医師によるとそれは200~300年ほど前の加賀の新刀であり、刃渡り2尺ほど(約60cm)、焼きには甘さが見られたという。
(「新刀」とは、慶長元年<1596年>以降から江戸時代後期の明和元年<1764年>より前に作られた日本刀であるとのこと。また、焼きについては、多少焼きが甘いほうが粘りがあり折れにくく実戦向きだとする情報もある。)
売却価格は30円、睦雄は現金で支払った。
この刀が凶行で使用された。(祖母を殺害した直後に襲撃した家で、3人に対して使用)
睦雄はこの日本刀の他に、匕首(あいくち=つばの無い短刀)2口を腰に差し、犯行に及んだ。
これらについては、刃渡りがそれぞれ6寸5分(約20cm)と5寸2分(約16cm)であり、購入先が(遺書にある通り)神戸であるらしいということ以外の詳細は不明だった。(これらの匕首は犯行に使用された形跡はなかった)
(奥が日本刀、手前が匕首、いずれも犯行時に携帯していた実物)
● 「ゲートル」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%9A%E7%B5%86
睦雄は犯行時、足に茶褐色のゲートル(脚絆)を装着していた。
ゲートルには、活動時に脛(すね)を保護し、障害物に絡まったりしないようズボンの裾を押さえ、また長時間の歩行時には下肢を締めつけてうっ血を防ぎ、脚の疲労を軽減する等の目的がある。
日本では江戸時代から広く使用され、現在でも、裾を引っ掛けることに起因する事故を防いだり、足首や足の甲への受傷を防ぐ目的で着用を義務付けている職場があり、作業服などを扱う店で販売されている。
睦雄が装着していたのは「巻きゲートル」と呼ばれるタイプで、包帯状の細い布を巻いて脚絆を作るもの。
このタイプは19世紀末頃から使われ始め、軍隊の軍装品としては、第1次世界大戦をピークに、第2次世界大戦頃まで各国の軍隊で広く用いられたが、第2次大戦後には編上げ式の半長靴が普及するにつれて廃れていった。
民間では、第2次大戦頃までは軍隊と同様に広く普及していたが、こちらも現代ではほぼ廃れている。
日本帝国陸軍において、巻きゲートルは日露戦争中に採用され、日露戦後に徒歩本分者の被服とされた。
巻き方には数種類あり、いったん巻いた脚絆の上下(足首と膝下)を固定用の紐でさらに締め、紐が脛の前で交差する巻き方は「戦闘巻」と俗称された。
(ゲートル、戦闘巻の一例)