(睦雄の生まれ故郷、加茂町倉見の「三十人ヶ仙」山頂から、自殺現場となった荒坂峠「仙の城」までの道程を望む)
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「その4に引き続き、人物紹介を。
前項と同じく、必要な情報が多々抜け落ちた、かなり端折った内容なので、詳細な部分は津山事件の関連本にて確認いただければと。
● 都井いね(旧姓・寺井いね、睦雄の祖母、事件当時73)
祖母いねは、1864年(元治元年)12月生まれ、事件では最初に殺害された。
戸籍上では、明治24年=1891年の2月21日に、倉見の都井家に「再婚入籍」したとなっている。
いねが50代の半ばだった1918年(大正7年)7月に夫(睦雄の祖父)を病で亡くし、同年12月には息子(睦雄の父)を病で亡くした。
翌年の1919年(大正8年)4月には、息子の嫁(睦雄の母)を病で亡くした。
家には、いねと、まだ2歳の睦雄、その3歳上の姉みな子のみが残された。
1920年(大正9年)頃、いねは睦雄とみな子を連れて、自身の故郷に近い加茂村の小中原・塔中に転居した。
1922年(大正11年)頃、いねは倉見の山林を売った金で故郷である西加茂村の貝尾に中古の家を購入し、睦雄とみな子を連れてその家に転居した。いねは二人を貝尾で育てた。
みな子が警察に語ったところによると、
「私や弟は祖母が(倉見の)田や山を売ったり、僅かばかりの小作米を取って育ててくれたのであります」
ただし睦雄との関係では、あとで考えてみるとわりと重要なことがあったらしく、みな子によると、
「(睦雄は)高等小学校を出た時は、先生も、『成績が良いのでこのまま百姓をするよりは上の学校へでも行ってみんか』と言われたのですが、男が一人ですから祖母がよう手離せず、(睦雄は)そのまま家に居ましたが、(卒業直後に胸の)病気になってからは本人も百姓をやることはできないと思っていたようです」
戸籍の記載を見る限り、祖母いねと睦雄との間には血の繋がりがなかったのではないか、という指摘がある。
ここは津山事件を見るうえで非常に重要な点で、ブログで取り上げる以上はこの点についての自分なりの見方を明確にするべきかとも思われるものの、正直よくわからないというのが本音だった。
自分的には、血の繋がりは、なかったようでもあり、あったようにも思われた。
「なかったようでもあり」というのは、戸籍の記載や都井家の墓の記載を素直に読めば、明治24年2月21日にいねが都井家に「再婚入籍」した時点ですでに睦雄の父親は生まれており、その年齢は満年齢で言えば3歳~4歳だったと推定されるからだった。(つまり、いねと睦雄の父親にそもそも血縁がなかった可能性がある。詳細は割愛)
一方で、「(血縁が)あったようにも思われた」というのは、例えばいねは事件の2か月ほど前に睦雄から異臭のする白い粉末をみそ汁に盛られ、睦雄に殺される危険を感じて、近所に住む甥の「寺井元一(44)」という人物---この人物は睦雄が幼いころから面倒を見ていた---の家に行き、
「何だか睦雄に殺されそうな気がする。本当の孫だが危険な感じがして一緒にいられない(警察の調書原文ママ)」
と訴え、元一宅に2~3泊させてもらっている。
下線部については、実は本当の孫ではない(血の繋がりがない)からこそ「本当の孫だが」として(なにかしらの思惑のために)わざわざ血の繋がりを強調して見せた・・・という風にも受け取れるものの、そこまで穿ってみる必要があるか疑問ではあるし、また、「睦雄が自分を殺しにかかっている、怖くて一緒にいられない」と怯えている状況なら、普通は、「この心配は決して杞憂ではない。実は今まで黙っていたが、私と睦雄とは血の繋がりはないのだ(睦雄はそれを知って私を邪魔にしているのかもしれない)」といったことを打ち明けたいのが人情というものではないだろうか。
にもかかわらず、いねはこの状況でもなお「本当の孫だが」として、「実は血縁はない」とは言っていない。
これを素直に見れば、血縁は確かにあったという風に読むことも、できなくはないという気がする。
また、30人殺しの現場となった貝尾には睦雄の「親戚」が多く、それはいねも含めた寺井一族がそれだった。
寺井一族の中には、襲撃された家もあり、襲撃を免れた家もあるが、例えば先の、常日頃から睦雄の面倒を見ていた「寺井元一」という人物とその家族などは、襲撃を免れたことでかえって睦雄の親族の代表格として遺族らから激しく糾弾され、子供たちは虐められ、一家は非常に辛い立場に置かれたという。(詳細は割愛するが、その窮状に父子らは抱き合って号泣したとある)
とすると誰でも思うのは、こうした辛い状況の中で、もし睦雄と寺井一族との間に血の繋がりがなかったのであれば、寺井家の人間としては、
「睦雄はいねばあさんが貝尾に連れてきて育てていたのは確かだし、我々もいねばあさんの親戚として睦雄の面倒を見ていたのも確かだが、実は睦雄と我々寺井家との間に血の繋がりはないのだ」
ということを、せめてそれだけでも周囲に言っておきたいのではないだろうか?
睦雄の血縁者だということで、今後例えば寺井家の子供たちが結婚その他で差別を受けるかもしれず、それを考えれば、せめて、「睦雄との間に血縁はない」ということだけでも、ハッキリさせておく意味は(差別的かもしれないが現実問題として)あったと思われる。
ところが、寺井家の人々が周囲にそうしたことを訴えたという情報は、津山事件報告書その他の資料にも一切見られない。
「血縁がない」という事実を寺井元一自身が知らなかったということも考えられるが、しかし、この寺井元一は、かつて両親を失った2歳の睦雄の今後について話し合うために集まった親族会の寺井側代表だったのである。
(元一はいねの甥として、寺井側代表として親族会の会員となった。これに、「睦雄の祖父の弟」「睦雄の母の姉婿」を合わせた3人が親族会を構成していたという。※アップ当初、「睦雄の祖父の弟」の部分を「睦雄の父の弟」としていたのですが、誤りにつき訂正しました)。
その元一自身が、果たして本当に、睦雄と寺井との間に血縁がないということを知らなかったのか?という疑問もなくはない。
また仮に元一自身がそれを知らなかったとしても、では、古くから貝尾に住んでいた、いねばあさんに年齢の近いような(事件当時すでに故人になっていた人々も含めて)貝尾の古老たちはどうだったのか、
例えば後で出てくる「(寺井の)本家のじいさん」や寺井千吉その他の80を越した古老たちまで、「いねが倉見に嫁いだ時にすでに相手の男性には3~4歳の長男Aがいたという事実」、つまり、「いねと、Aの息子つまり睦雄との間には血縁がないという事実」を知らなかったのだろうか?という疑問もある。
「倉見でいねさんが世話してる男の子Aは、あれはいねさんの子ではなく、相手の先妻の子だよ」
といったことを、貝尾の誰も、全く小耳に挟まなかったのだろうか?
もし古老たちがその「血縁なし」の事実を知っていれば、その事実はとっくの昔に貝尾中に広まっていたものと思われるが、しかしそんな話が貝尾に広まっていたという形跡はない。
とすると、古老たちを含め、貝尾の誰一人として、「いねが倉見に嫁いだ時、相手の男性にはすでに3~4歳の長男Aがいた」という事実を知らなかったということになるかと思われるが、しかしそんなことが果たして本当にあるのかな、という気もする。
こうした疑問はすべて決定的なものではなく、漠然とした、「なんとなくの疑問」ではあるものの、しかしそれにしても拭い難い疑問ではあった。
それらの疑問に加えて、当時の戸籍の記載が実態とずれていることも珍しくはなかったという事実を考えあわせれば、戸籍の記載を根拠に「いねと睦雄との間には血縁がなかった」として、その観点のみから事件を見るのは、自分的には躊躇を覚えるものがある。
ただし、戸籍の記載を素直に読めば「血縁がなかった」と解釈できるのは事実だと思う。
なので自分的には、「血縁がなかった可能性がけっこうある」というぐらいのスタンスで見るのがいいのかなという気がした。
戸籍の記載からいねと睦雄との間に血縁関係がなかった可能性を最初に指摘されたのは、ジャーナリストの石川清氏だった。その石川氏の著作『津山三十人殺し 七十六年目の真実』に、被害者の遺族の一人に聞き取り調査をした時の証言として、
「睦雄とおばあちゃんのいねは、血縁関係はなかったんじゃ。貝尾には、そのへんを詳しく知る人はおらんかったようで、隠しておったそうじゃ」
というものが紹介されていた。
こうした証言の背景(例えば当時の貝尾の人々でさえ知らなかった情報が、いつ誰によってどういった形でもたらされたのかといった部分)がより詳細に分かれば、睦雄といねの血縁の有無について、自分なりにも判断しやすくなるのではないかという気がした。
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● 都井みな子(睦雄の姉、事件当時23)
睦雄には3歳上の姉があった。
姉は人に好かれる明るい性格だったとのことで、当時この事件を調査した検事のレポートによると、
「睦雄にはただ一人の姉みな子(大正3年生まれ)があるだけで、他に兄弟姉妹はない。姉みな子は4年前、苫田郡一宮村に嫁いだが、これもまた病弱な女で肋膜か肺結核を患っている様子である。その性格は快活であって、かつ殊の外愛情深い女だということである。」
とのこと。(みな子は1934年、昭和9年3月に19歳で結婚した)
また、西加茂尋常高等小学校の教師の言葉によると、
「睦雄の姉については明らかなる記憶があります」
「(睦雄については家庭で我儘なところがあり、動作にも少し面倒くさそうにしている部分もあったが)姉の快活にして愛情深き感化により、無邪気にして優しきところあり」
となっている。
小学校を卒業して以来、胸を患うやら目標を失うやらで、生来の翳のある性格がさらにこじれて陰キャラになりきってしまっていた睦雄にとって、明るく愛されキャラだったと思われる姉は、それこそ太陽のような、陽だまりのような存在だったのではないかと思われる。
その姉も嫁いでから胸を患った。睦雄は遺書の中で、
「どうか姉さんは病気を一日も早く治して強く強く此の世を生きて下さい、僕は地下にて姉さんの多幸なるべきを常に祈って居ます」
と述べている。
事件当時、みな子は臨月だった。警察の調べによると、睦雄が事件を起こしたことで、嫁ぎ先では分娩させないとの物議も起きたが(結果的には分娩し籍にも入っている)、みな子を知る人々の間では同情心を抱く者が多く、当時、排斥差別などの事実は認められなかったという。
胸を患いつつも事件後わりと長生きをされ、津山でうどん店を営みながら人に囲まれた人生を送り、最後まで現役を通しつつ、1991年6月に76歳で亡くなったという(心筋梗塞)。