北海道苫前・三毛別羆事件(大正4年12月)・その2 | 雑感

雑感

たまに更新。ご覧いただきありがとうございます。(ごく稀にピグとも申請をいただくことがあるのですが、当方ピグはしておりません。申請お受けできず本当にすみません)

北海道苫前・三毛別羆事件

(ヒグマはまず山側の窓辺に吊るされたトウモロコシを漁ろうとして窓から部屋を覗き、これに気づいて驚いたマユと幹雄の大声に逆上して窓を破り、室内に躍り込んだとみられている。画像は漫画家の矢口高雄先生『野生伝説 羆風』より。)

 

※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います※※

 

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引き続き、ウィキペディアからのコピペ(赤茶色の文字)と、木村盛武氏のレポートその他の資料を参考にしつつ、若干の補足を加える(白字の部分や画像)ということで進めてみます。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AF%9B%E5%88%A5%E7%BE%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6

三毛別羆事件ウィキペディア

 

 12月9日

 

 太田家の惨劇

 

秋から冬にかけ、開拓村では収穫した農作物を出荷するさまざまな作業に追われていた。三毛別のような僻地では、それらの作業は人力に頼らざるを得ず、男達の多くは出払っていた。


12月9日の朝、三毛別川(の支流のルペシュペナイ川)上流に居を構える太田家でも、同家に寄宿していた伐採を生業とする長松要吉(ながまつ ようきち、当時59歳。通称オド)が一足早く仕事に向かい、当主の太田三郎(おおた さぶろう、当時42歳)も氷橋(すがばし)に用いる桁材を伐り出すため出かけ、三郎の内縁の妻・阿部マユ(あべ まゆ、当時34歳)と太田家に養子に迎えられる予定であった蓮見幹雄(はすみ みきお、当時6歳)の2人が留守に残り、小豆の選別作業をしていた。(木村盛武氏『慟哭の谷』によると、幹雄は小学校入学を迎える翌年の春には蓮見家に返す予定だったとされている。)


同日の昼、要吉(オド)が食事のために帰宅すると、土間の囲炉裏端に幹雄がぽつんと座っていた。(前かがみに座ったままの姿勢であったという)

ふざけてたぬき寝入りをしているのだろうと思った要吉は、わざと大声で話しかけながら近づき、幹雄の肩に手をかけてのぞき込んだ。そのとき、要吉は幹雄の顔下に付着した血の塊と、何かでえぐられた喉元の傷を見つけ驚愕した。

側頭部には親指大の穴があけられ、すでに幹雄は息絶えていた。

要吉は恐怖に震えながらマユを呼んだが何の応答もなく、ただ薄暗い奥の居間から異様な臭気が漂うのみであった。
ただならぬ事態を察した要吉は家を飛び出し、下流の架橋現場に走った。

駆けつけた村の男たちは、踏み入った太田家の様子に衝撃を受けつつも、これがヒグマの仕業だと知るところとなった。入口の反対側にあるトウモロコシを干してあった窓は破られ、そこから土間の囲炉裏まで一直線に続くヒグマの足跡が見つかった。トウモロコシを食べようと窓に近づいたヒグマの姿にマユと幹雄が驚いて声を上げ、これがヒグマを刺激したものと思われた。
足跡が続く居間を調べると、くすぶる薪がいくつか転がり、柄が折れた血染めのまさかりがあった。ぐるりと回るようなヒグマの足跡は部屋の隅に続き、そこは鮮血に濡れていた。それは、まさかりや燃える薪を振りかざして抵抗しつつ逃げるマユがついに捕まり、攻撃を受けて重傷を負ったことを示していた。そこからヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき数十本の頭髪が絡みついていた。

要吉が幹雄の死に気づいたとき、土間にはまだ温かい蒸し焼きの馬鈴薯が転がっていたという。そのことから、事件が起こってからさほど時間は経っていないと思われた。

また午前10時半過ぎに三毛別の村人が太田家の窓側を通る農道を馬に乗って通り過ぎていた。彼は家から森に続く何かを引きずった痕跡と血の線に気づいたが、マタギが獲物を山から下ろし太田家で休んでいるものと思い、そのときは特に騒ぎ立てなかった。このことから、事件は午前10時半ごろに起こったと推測された。


事件の一報に村は大騒動となった。しかし、12月の北海道は陽が傾くのも早く、幹雄の遺体を居間に安置したころには午後3時を過ぎ、この日に打てる手は少なかった。

男達は太田家から500m程下流の明景安太郎(みようけ やすたろう、当時40歳)の家に集まり、善後策を話し合った。ヒグマ討伐やマユの遺体奪回は翌日にせざるを得ないが、取り急ぎ苫前村役場と古丹別巡査駐在所、そして幹雄の実家である力昼村(現・苫前町力昼)の蓮見家への連絡を取らなければならない。しかし、通信手段は誰かが直に出向くより他になかった。

太田家の近くに住む男性が使者役に選ばれたが、本人が嫌がったため、代わりに斉藤石五郎(さいとう いしごろう、当時42歳)が引き受けることになった。

太田家よりもさらに上流に家を構える石五郎は、所用にて当主・安太郎が鬼鹿村(現・小平町鬼鹿)へ外出しなければならない明景家に妊娠中の妻・タケ(当時34歳)、三男・巌(いわお、当時6歳)、四男・春義(はるよし、当時3歳)の家族3人を避難させ、要吉(太田家の寄宿人=オド)も男手として同泊する手はずが取られた。

 

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続いて、補足的なものを。

 

 六線沢開拓部落の各家の位置関係というか地理的なものについて

 

この時期北海道旅行をされる方も多いのではないかと。三毛別の事件現場復元地に行かれる方も多いのではないかと思います。

でも私の見るところ、事件現場復元地のみならず、本当の事件現場である太田家や、明景家の跡地のすぐ近くにも行けると思います。

よければ参考にしてみていただければと。

 

北海道苫前・三毛別羆事件

 

画像上が北で、下が南。

上の端に近いところに「熊狩本部」。これより北の地域にクマを侵入させてはならないということで、このあたりが熊狩り組織の防衛ラインだった。

画像の一番下が、六線沢最奥に居を構えていたマタギの「金子富蔵」宅。金子宅から熊狩本部までは、直線で約4.6kmといったところ。

先の画像(小さくて見にくい)を上下2分割して、それぞれ拡大したものが以下。(※ 8月2日追記: 昨日---8月1日放送のNHKBS『ダークサイドミステリー』で、三毛別羆事件を取り上げていました。番組では六線沢の各家の位置やヒグマの射殺地点なども地図で示していましたが、その中で、「池田富蔵家」「明景安太郎家」「ヒグマ射殺地点」・・・この3つの位置について、これまで私が衛星画像等で示していた位置とは異なっていました。そこで、これまでアップしていた画像に、『ダークサイドミステリー』で示された位置を書き加えたものを作り直しましたので、ここに再アップさせていただきます。)

 

北海道苫前・三毛別羆事件

北海道苫前・三毛別羆事件

 

各ポイントの位置は、あまり詳細ではない木村盛武氏による図表や写真をもとに決めたもの。しかし、そう外れてはおらず、ほぼこれで合っていると思っています。(と、当初は申していたのですが、先述の通り、『ダークサイドミステリー』では、一部について、異なる位置が示されていました。各ポイントの位置については、木村盛武氏の『慟哭の谷』掲載の地図、苫前町郷土資料館で展示されている地図など、どれもネットで閲覧可能ですので---矢口高雄先生の『羆風』にも地図が載っています---いろいろと見比べながら、どの位置が正確かを見極めていただければと。)

 

人身被害のあった「太田三郎」宅と「明景安太郎」宅の距離は、直線で500m弱といったところ。

(太田家と明景家、ヒグマの射殺地点については、あとでもう少し詳し目に触れてみます。)

 

 氷橋(すがばし)について

 

一見して京都あたりの涼しげで雅(みやび)な銘菓の名前かという気がしなくもないものの、これは決してお菓子の名前ではなくまぎれもなく川に架ける橋(冬季限定)のことで、その造り方は---氷橋にもいくつかのタイプがあるらしいが---まず丸太を川に渡し、その上にエゾマツやトドマツの枝や葉を敷き詰め、さらにその上に雪を盛って踏み固め、さらに川の水をかけて冷気で凍らせ、何度かこの作業を繰り返して頑丈に仕上げるものだった。

当時、ルペシュペナイ川沿いの六線沢から約30km離れた苫前村の集落に出るには、途中で本流の三毛別川にかかる木橋を渡る必要があったが、その木橋が冬季には積雪で使用不能になるのだった。

そこで、六線沢の住民にとって、秋の収穫期に納屋にため込んだ農作物を積雪期に馬橇に乗せて苫前村の市場に出荷するには、まずは本流である三毛別川を渡るための氷橋の架橋が必須だった。

このあたり木村盛武氏のレポートよりも吉村昭氏の『羆嵐』の記述のほうがやや詳しいので引用させていただくと、

「村落から三毛別方向へ赴くには、二キロメートル下流の本流に架けられた木橋を渡らねばならぬが、雪がその橋の通行を不可能にした。それを補うために、男たちは、冬季に北海道の各地で仮設される氷橋と称される橋を村落と三毛別との境の渓流に架ける。まず丸太で橋の骨組みを整えてから枝を敷きつらねて、周囲を雪でかためる。雪はたちまち凍結して密度の濃い氷に化し、翌年の融雪期まで馬橇の往来にも十分に堪える堅固な橋になる。」

 

北海道苫前・三毛別羆事件

北海道苫前・三毛別羆事件

(画像は『野生伝説 羆風』より)

 

氷橋の架橋工事は開拓部落の男たちが一堂に会する年中行事の一つであり、一軒から一人ずつ出て共同で作業に当たった。

 

問題の12月9日(木)---マユと幹雄がヒグマに襲われた日---は、その氷橋を造るための作業日に当たっていた。

その日の作業内容は、氷橋の取り付け位置の確定や(取り付け位置は先の画像の「射止橋」付近)、そこに比較的近い「辻橋蔵」家の裏山(御料林)から、役所(帝室林野管理局)によって氷橋の橋桁材用に払い下げられた樹木を伐採し搬出するといったものだった。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%AE%A4%E6%9E%97%E9%87%8E%E5%B1%80

帝室林野局ウィキ

 

六線沢開拓部落15軒から13人の男衆が出て、この日の作業に当たった。

(木村盛武氏の『慟哭の谷』では、出会い作業に出ていた人数を「13人」としているが、同氏による別レポートでは「15人」としており一定しない)

 

太田家からは戸主の三郎(当時42)が作業に出た。

 

同家には三郎のほかに男手として当時59歳の寄宿人・長松要吉(通称「オド」)がいたが、この男性は氷橋の作業には出ず、船のキール材(竜骨材)の伐採のため、その日は朝早くから太田家の裏山に作業に出ていた。

こうしたわけで、12月9日の午前中、太田家の男たち二人は出払っており、家には妻のマユ(当時34)と里子の幹雄(当時6)が残るのみの状況となっていた。

(事件発覚時の現場の状況から、被災時は小豆の選別作業をしていたとみられている)

 

 幹雄(当時6)について

 

この子は本名を蓮見幹雄といい、力昼(りきびる)在住の蓮見嘉七・チセ夫妻の三男だった。子供のなかった太田夫妻が、知人である蓮見夫妻から強引に預かってきた子だった。

 

北海道苫前・三毛別羆事件

(再掲。六線沢の太田家から力昼の集落までは直線でも15km程度あった)

 

太田夫妻は幹雄を我が子同然に可愛がり、また幹雄も生みの親に対するように夫妻になついていた。しかし、いつまでも預かったままにしておくわけにもいかず、翌年の春には小学校入学ということもあり、力昼の実家に帰す予定になっていた。

 

三郎が12月9日の朝、氷橋造りの作業現場に出かけるときに、幹雄は、「どうしてもついていきたい」と、日ごろはしたこともない後追いをしたという。そこで、「子供だからダメ」というマユと、「いいじゃないか、連れていく」という三郎との間でちょっとした口論となったが、結局、幹雄は家に残ることになった。

 

幹雄とマユが危難に遭う6~7時間前の9日未明のこと、力昼の実母・蓮見チセの夢枕に幹雄が立ち、「太田のおばさん(マユ)がこんな姿になってしまった・・・」と言いながら、両端に2本ずつより歯の残っていない木の櫛を見せたという。

(これは、木村盛武氏が昭和36年に幹雄の実母・蓮見チセに聞き取り調査をしたときに、本人の口から語られたエピソード。木村氏はこの話を聞いて背筋の寒くなる思いがしたという。)

 

なお、幹雄については被災後、太田三郎からのたっての願いで、あらためて「太田家長男」として入籍された。

 

 氷橋作業現場に向かう途中の出来事(松村長助宅のトウモロコシ被害)

 

12月9日の朝、太田三郎が500mほど下流に住む明景安太郎(当時40)と連れ立って氷橋作業現場に向かう途中のこと、松村長助方の畑の前を通りかかると、そこに野積みにされていたトウモロコシの山が食い荒らされ、あたり一面に巨大なヒグマの足跡が入り乱れていた。

しかし二人はさしたる恐怖心も感じず、「こんな大物ならさぞかし肉もうまかろう」と言い合う始末だった。
作業の一服休憩中にもこのことが話題に上ったが、誰一人として不安を抱く者はなかったという。

(松村長助宅の位置は先の地図を参照ください)

 

 太田家の寄宿人・長松要吉(オド)が抱いた事件への第一印象

 

12月9日の昼、キール材の伐採作業から昼食のために太田家に戻った寄宿人・長松要吉(オド)は幹雄の他殺体とマユの行方不明になっていることを発見し、この異常事態を知らせるべく4km下流の氷橋作業現場へと急いだ。

走りながらまず考えたのは、自分が朝方に裏山に働きに出た後で再び三郎とマユの口論(幹雄を氷橋の作業現場に連れていく~いかないに端を発する口論)が再燃し、その末に幹雄がとばっちりを受けて夫婦のどちらかに殺害され、慌てた夫婦がそろって行方をくらませたのではないか、ということだったという。

 

北海道苫前・三毛別羆事件

北海道苫前・三毛別羆事件

(『野生伝説 羆風』より。オドは前かがみで座ったままでいる幹雄を、当初は狸寝入りだと思ったという)

 

 現場の状況と犯行推定時刻

 

オドからの急報を受けた氷橋作業現場の男たちが太田家に駆け付け、現場の状況から、幹雄を殺害したのはヒグマの仕業であり、マユはヒグマによって連れ去られたらしいことが分かってきた。

山側(農道側)の窓が破られ、薄暗い居間にはくすぶる薪が散乱し、部屋の隅には柄が折れ血糊に染まったマサカリが落ちていた。血痕は周囲の天井にまで飛び散り、屋内のいたるところに血に染まった人の手形が付いていた。状況から、山側の窓を破って室内に躍り込んだヒグマはまず囲炉裏端で幹雄を一撃のもとに斃し、次に燃える薪やマサカリで立ち向かうマユを部屋の隅にまで追いつめて捕らえ、殺害したことが推測された。

マユはその場で一部食害されたらしく、寝間の夜具はおびただしい鮮血に染まっていた。ヒグマが押し入ったとみられるその同じ窓枠には頭髪が束になって絡みつき、ヒグマの足跡は血痕とともに向かい側の御料林に一直線に続いていた。

部屋に残された幹雄の遺体の状況や、炉端に2~3個落ちていたまだ生暖かい馬鈴薯、また事件発生直後に現場横を通りかかった男性の証言などから、事件の発生は午前10時半前後と推定された。

 

北海道苫前・三毛別羆事件

北海道苫前・三毛別羆事件

(『野生伝説 羆風』より)

 

北海道苫前・三毛別羆事件

 

 事件発生直後に現場横を通りかかった男性

 

「太田家の被災直後にその横の農道を馬に乗って通り過ぎていたという男性」について、これは太田家の知り合いの松永米太郎(当時19)という人物で、その日は用事もたまっていたことから米太郎は太田家に寄らずに通り過ぎたが、太田家とその向かい側の山裾との間に一直線に血痕が続いていることには気づいていた。

しかし米太郎は、その血の痕跡などについて、マタギが獲ったウサギを引きずって太田家に入り、一服しているものとばかり思っていたという。三毛別事件を調べた木村盛武氏は、昭和36年にこの人物への聞き取り調査も行っている。

 

 役場や駐在所への使者の交代

 

「苫前村役場や羽幌警察分所古丹別巡査駐在所に事件を知らせるための使者役に選ばれたが、しぶってその役目を斉藤石五郎(当時42)に代わってもらったという男性」について、これは太田家の一つ川下に居を構える中川孫一という人物だった。

苫前村役場まで約30km、古丹別巡査駐在所まで約20kmの深い雪道を、家族を残して徒歩で急使に出ようと名乗り出る者はいなかったため、やむなくクジ引きで決めたところ、中川孫一が使者役に決まったのである。

ところがなんとしても気の進まない中川が斉藤石五郎に交代を頼み込んだため、「それほど言うなら、せめて家内や子供を安全な場所に避難させてからにしてくれ」と、人の好い斉藤はこれを引き受けた。「そのことなら、マタギも大勢来ているし、大船に乗ったつもりでいてくれ」と、中川は斉藤を安心させたが、この小さな交代劇が、のちに中川・斉藤の双方にとり、それぞれ別の意味で最悪の結果を招くこととなった。

 

 苫前村役場や古丹別駐在所のほかに、「幹雄の死を実の親である蓮見夫妻に知らせるため力昼に赴いた人物」もいたはずだが---蓮見夫妻は被災翌日の10日夜には太田家での幹雄の通夜に参列している---、この使者役を引き受けたのが誰であったのかが、木村盛武氏のレポート中では触れられていない。「斎藤石五郎が苫前村役場や古丹別駐在所を回るついでに力昼にも寄った」のか、あるいは、「所用で鬼鹿村へ出かけたという明景安太郎がそのついでに力昼に寄った」のか、それとも「別の三毛別<含六線沢>の集落の誰かが力昼へと知らせに走った」のか、比較的どうでもいいことながら、不明確な点ではあった。

この点、漫画家の矢口高雄先生による『野生伝説 羆風』の中では、「太田三郎によるたっての頼みで、明景安太郎が力昼へと赴いた」ことになっている。一方で、吉村昭氏の『羆嵐』では、被災した男児は太田家の実子で9歳の設定であり、力昼からの預かり子だという設定にはなっていない。)