北海道苫前・三毛別羆事件(大正4年12月)・その1 | 雑感

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たまに更新。ご覧いただきありがとうございます。(ごく稀にピグとも申請をいただくことがあるのですが、当方ピグはしておりません。申請お受けできず本当にすみません)

北海道苫前・三毛別羆事件

(「太田のおばさんがこんな姿になってしまった・・・」---事件が発生した12月9日の未明、自らも被害者の一人となった6歳の幹雄は離れて暮らす実母の夢枕に立ち、こう言いながら両端に2本ずつより歯の残っていない木の櫛を見せたという。「太田のおばさん<阿部マユ>」が頭髪を剥がされた頭蓋骨と両足の膝下のみの遺体となってトドマツの根元から発見されたのは、翌12月10日午後3時過ぎのことだった。)

 

※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います※※

 

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今更ですが三毛別羆事件を・・・。

 

大正4年(1915年)12月に発生した、日本の獣害史上最悪の惨劇、と言われています。(被災当時に胎児だった一人や、被災の2年8か月後に後遺症で死亡した一人を含めると、死者8人、重傷者2人

 

事件現場は北海道苫前三毛別(現・三渓)の「六線沢」という開拓部落になります。(下図の矢印の先あたり)

 

北海道苫前・三毛別羆事件

 

上のピンクで囲んだ枠内が以下。

現場・六線沢と各市町村との位置関係を確認いただければと。

 

北海道苫前・三毛別羆事件

 

六線沢から古丹別まではおおむね15~20km程度、六線沢から苫前の中心街までは30km弱といったところです。

当時はこの距離を歩いて避難したり、急を報せたりしました。

 

事件現場に士別方面から行く場合は、途中、霧立峠という峠を経由して、かなり下りたところでこの看板が出てくるので、

 

北海道苫前・三毛別羆事件

 

これに従い左折、道なりにどんどん行くと途中から未舗装となりますが、そこから約300mほどで事件現場復元地に到着します。

 

現場復元地とはいえ、実際の事件現場からはやや離れた場所に位置しています。(このあたりについては後ほど触れてみます)

 

この事件については素晴らしいウィキペディアがありますので、以下、そちらをコピペさせていただきます。(赤茶色の文字の部分がコピペ部分、画像や、白字の部分は当方が木村盛武氏によるレポートを参照しつつの補足になります)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AF%9B%E5%88%A5%E7%BE%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6
三毛別羆事件ウィキペディア

 

三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)とは、1915年(大正4年)12月9日から12月14日にかけて、北海道苫前郡苫前村三毛別(現:苫前町三渓)六線沢で発生した、クマの獣害としては日本史上最悪の被害を出した事件。六線沢熊害事件(ろくせんさわゆうがいじけん)、苫前羆事件(とままえひぐまじけん)、苫前三毛別事件(とままえさんけべつじけん)とも呼ばれる。

エゾヒグマが数度にわたり民家を襲い、開拓民7名が死亡、3名が重傷を負った。事件を受けて討伐隊が組織され、問題の熊が射殺されたことで事態は終息した。

 

 事件の経緯

 

事件の現場となった北海道三毛別六線沢は、日本海の沿岸から内陸へ30kmほど入った地区である。地名の「三毛別」は、アイヌ語で「川下へ流しだす川」を意味する「サンケ・ペツ」に由来する。なお、六線沢の住民は東北などから移住してきた人々で、元々住んでいた人はいない。

 

 池田家の騒動

 

1915年(大正4年)11月初旬のある夜明け前、六線沢の池田家に巨大なヒグマが姿を現した。飼い馬が驚いて暴れたため、そのときの被害は保存食のとうもろこしに留まった。

村は開拓の端緒にかかったばかりの土地でもあり、このような野生動物の襲来は珍しいものではなかったが、主人である池田富蔵(いけだ とみぞう)はぬかるみに残った足跡の大きさ(約30cm)に懸念をもった。
 

11月20日(過ぎの未明)、ふたたびヒグマが現れた。馬への被害を避けようと、富蔵は在所と隣村から谷喜八(たに きはち)と金子富蔵 (かねこ とみぞう)という2人のマタギを呼び、3人で待ち伏せることにした。
 

30日(夜8時ごろ)、三度現れたヒグマに撃ちかけたが、仕留めるには至らなかった。その夜、長男・富吉 (とみきち)や妻に留守を頼み、次男・亀次郎(かめじろう・当時18歳)を加えた4人で鬼鹿山方向へ続く足跡を追い血痕を確認したものの、地吹雪がひどくなりそれ以上の追撃を断念した。

谷たちは、件のヒグマは「穴持たず」という、何らかの理由により冬眠し損ねたクマであると語った。さらに足跡の巨大さから「このクマはあまりの巨体のため、自分の身に合う越冬穴を見つけられなかったのではないか」と推測し、「穴持たず」となったクマは非常に凶暴であることを付け加えた。

 

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 一連のヒグマ事件の現場となった地は三毛別川の支流であるルペシュペナイ川沿いに位置しており、当時の正式名称は、

 

「北海道天塩国苫前郡苫前村大字力昼村三毛別御料農地六号新区画開拓部落六線沢」

 

当時から今日まで「六線沢」の通称で通っている。

 

事件当時、六線沢には15戸、40人余りの住民が暮らしていた。

 

北海道苫前・三毛別羆事件

 

上の画像、左側は事件の約32年後の画像。

現在のグーグル画像などによっても、川の形状にはほとんど変化がないことが見て取れる。(ただし道路については、現在の道道1049号「ベアーロード」のような道が通っていたはずもなく、ルペシュペナイ川沿いに細々とした道がついていただけだった)

 

六線沢の住民は、事件の5年ほど前---1910年(明治43年)ごろ---から、隣村の大椴<おおとど>や鬼鹿、本州の東北地方から新墾地として開放間もないこの地に移住してきた人たちで、三毛別地区においては新参の人々だった。

 

11月に起きた池田家の一連の被害は、軒下に吊るしたトウモロコシを食害されたのみで、人身への被害や、開拓民にとって命の次に大切だった馬への被害は出ていない。

(クマが12月14日午前10時ごろに射殺されるまでに、胎児を含めて7人の命が犠牲となり、ニワトリや穀類、漬物類が食害される被害はあったが、「馬への被害」と---囲炉裏が蹴散らされる等の犯行状況だったにもかかわらず---「火災」は一件も出なかった。)

 

池田富蔵がクマ駆除のために呼び寄せた2人のマタギのうち、「金子富蔵」は六線沢の最奥に居を構えていたマタギであり、「谷喜八」は同じ三毛別地区のマタギではあったが六線沢の住民ではなかった(谷喜八はベテランのマタギであったという)。

 

池田富蔵宅で2人のマタギがクマを待ち伏せていたところ、11月30日夜8時ごろにヒグマが現れ、軒下のトウモロコシを漁り始めた。

その時、ベテランのマタギである谷は発砲のタイミングを計りながら「まだ撃つな」と金子を目で制していたが、気負い立つ金子が制止を気に留めず発砲してしまった。

ヒグマまでの距離はわずか数メートルだったが、弾は逸れ、即座に状況を判断した谷は素早く二の弾を放つも、ヒグマは転げるように林内に消えてしまった。

 

ヒグマの逃げた足跡を見てみると点々と血が滴っており、ヒグマの体のどこかに谷の放った弾丸が命中したことがうかがえた。

しかしすでに夜だったためその日の追跡は断念し、翌朝(12月1日)、2人のマタギと、池田富蔵、その次男である亀次郎が、小雪の舞う中、山中への追跡を開始した。しかし鬼鹿山(364m)の三角点近くまで足跡を辿ったころから小雪は地吹雪となり、クマの足跡も見失ったため、4人はやむなく引き返すことになった。

 

クマはその日を境にぱったりと姿を見せなくなった。

 

池田富蔵宅から鬼鹿山の山頂---必ずしも「山頂」=「三角点」とは限らないが---までは、直線で約6km。手負いとなったクマは鬼鹿山方面へと逃走した。

 

北海道苫前・三毛別羆事件

 

下はその時の状況を漫画家の矢口高雄先生が描いたもの(『野生伝説 羆風』より)。

 

北海道苫前・三毛別羆事件

 

弾は逸れ、状況を察した谷が素早く二の弾を放つも手負いに。翌朝、逃走したクマの追跡を開始するも鬼鹿山の三角点近くで・・・、

 

北海道苫前・三毛別羆事件