(白斑の袈裟懸け熊は特に気が荒く、「七沢越えても妊婦を襲う」という昔からのアイヌの言い伝えがあるという。明景家に避難した婦女子らは羆来襲の恐怖に怯え、薄暗いランプの下でいっときも早く夜の明けるのを祈っていた。)
※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います。※※
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引き続き、ウィキペディアからのコピペ(赤茶色の文字)と、木村盛武氏のレポートその他の資料を参考にしつつ若干の補足を加える(白字の部分や画像)ということで進めてみます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AF%9B%E5%88%A5%E7%BE%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6
三毛別羆事件ウィキペディア
■ 12月10日
● 捜索
早朝(5時ごろ)、斉藤石五郎は村を後にした。残る男たちは、ヒグマを討伐してマユの遺体を収容すべく、約30人の捜索隊を結成した。
昨日の足跡を追って森に入った彼らは、150mほど進んだあたりでヒグマと遭遇した。馬を軽々と越える大きさ、全身黒褐色の一色ながら胸のあたりに「袈裟懸け」と呼ばれる白斑を持つヒグマは捜索隊に襲いかかった。鉄砲を持った5人がなんとか銃口を向けたが、手入れが行き届いていなかったため発砲できたのはたった1丁だけだった。怒り狂うヒグマに捜索隊は散り散りとなったが、あっけなくヒグマが逃走に転じたため、彼らに被害はなかった。
改めて周囲を捜索した彼らは、トドマツの根元に小枝が重ねられ、血に染まった雪の一画があることに気づいた。その下にあったのは、黒い足袋を履き、ぶどう色の脚絆が絡まる膝下の脚と、頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体だった。
このヒグマは人間の肉の味を覚えた。マユの遺体を雪に隠そうとしたのは保存食にするための行動だった。
● 太田家への再襲
夜になり、幹雄の両親とその知人の3名が到着。太田家では幹雄とマユの通夜が行われたが、村民はヒグマの襲来におびえ、参列したのは六線沢から3人、三毛別から2人と幹雄の両親とその知人、喪主の太田三郎のあわせて9人だけだった。
幹雄の実母・蓮見チセ(はすみ チセ、当時33歳)が酒の酌に回っていた午後8時半ごろ、大きな音とともに居間の壁が突如崩れ、ヒグマがマユの遺体を取り返すために室内に乱入してきた。棺桶が打ち返されて遺体が散らばり、恐怖に駆られた会葬者達は梁に上り、野菜置き場や便所に逃れるなどして身を隠そうとする。混乱の中、自身の妻を押し倒し、踏み台にして梁の上に逃れたある夫は、妻に一生頭が上がらなかったという。
この騒ぎの中でも、気力を絞って石油缶を打ち鳴らしてヒグマを脅す者に勇気づけられ、銃を持ち込んでいた男が撃ちかけた。さらに300m程離れた中川孫一宅で食事をしていた50人ほどの男たちが物音や叫び声を聞いて駆けつけたが、そのころにはヒグマはすでに姿を消していた。
犠牲者が出なかったことに安堵した一同は、いったん明景家に退避しようと下流へ向かった。
● 明景家の惨劇
そのころ、明景家には明景安太郎の妻・ヤヨ(当時34歳)、長男・力蔵(りきぞう、当時10歳)、次男・勇次郎(ゆうじろう、当時8歳)、長女・ヒサノ(当時6歳)、三男・金蔵(きんぞう、当時3歳)、四男・梅吉(うめきち、当時1歳)の6人と、斉藤家から避難していたタケ、巌、春義の3人、そして要吉(長松要吉=太田家の寄宿人・オド)の合計10人(タケの胎児を含めると11人)がいた。
前日の太田家の騒動を受け、避難した女や子供らは火を焚きつつおびえながら過ごしていた。護衛は近隣に食事に出かけ、さらに太田家へのヒグマ再出没の報を受けて出動していたため、男手として残っていたのは要吉(オド)だけで、主人の安太郎は所用で鬼鹿村へ出かけており不在だった。太田家から逃れたヒグマは、まさにこの守りのいない状態の明景家に向かっていた。
太田家からヒグマが消えてから20分と経たない午後8時50分ごろ、ヤヨが背中に梅吉を背負いながら討伐隊の夜食を準備していると、地響きとともに窓を破って黒い塊が侵入して来た。ヤヨは「誰が何したぁ!」と声を上げたが、返ってくる言葉はない。その正体は、見たこともない巨大なヒグマだった。かぼちゃを煮る囲炉裏の大鍋がひっくり返されて炎は消え、混乱の中でランプなどの灯りも消え、家の中は暗闇となった。
ヤヨは屋外へ逃げようとしたが、恐怖のためにすがりついてきた勇次郎に足元を取られてよろけてしまう。そこへヒグマが襲いかかり、背負っていた梅吉に噛みついたあと、3人を手元に引きずり込んでヤヨの頭部をかじった。だが、直後にヒグマは逃げようと戸口に走っていく要吉(オド)に気を取られて母子を離したため、ヤヨはこの隙に勇次郎と梅吉を連れて脱出した。追われた要吉(オド)は物陰に隠れようとしたが、ヒグマの牙を腰のあたりに受けた。(物陰に隠れたが、頭隠して尻隠さずの状態で、尻に猛然とかぶりつかれたという)
要吉(オド)の悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、7人が取り残されている屋内に眼を向けた。ヒグマは金蔵と春義を一撃で撲殺し、さらに巌に噛みついた。このとき、野菜置き場に隠れていたタケがむしろから顔を出してしまい、それに気づいたヒグマは彼女にも襲いかかった。居間に引きずり出されたタケは、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた。
川下に向かっていた一行は、激しい物音と絶叫を耳にして急いだ。そこへ重傷のヤヨと子どもたちがたどり着き、皆は明景家で何が起こっているかを知った。
重傷を負いながらも脱出してきた要吉(オド)を保護したあと、男たちは明景家を取り囲んだが、暗闇となった屋内にはうかつに踏み込めない。中からは、タケと思われる女の断末魔のうめき声、肉を咀嚼し骨を噛み砕く異様な音が響き、熊の暴れまわる鈍い音がした。一か八か家に火をかける案や、闇雲に一斉射撃しようという意見も出たが、子供達の生存に望みをかけるヤヨが必死に反対した。
一同は二手に分かれ、入り口近くに銃を構えた10名あまりを中心に配置し、残りは家の裏手に回った。
裏手の者が空砲を二発撃つと、ヒグマは入口を破り表で待つ男たちの前に現れた。先頭の男が撃とうとしたがまたも不発に終わり、他の者も撃ちかねている隙にヒグマは姿を消した。
ガンピ(シラカバの皮)の松明を手に明景家に入った者の目に飛び込んできたのは、飛沫で天井裏まで濡れるほどの血の海、そして無残に食い裂かれたタケ、春義、金蔵の遺体であった。上半身を食われたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、そのときには少し動いていたという。しかし1時間後には死亡した。
力蔵は雑穀俵の影に隠れて難を逃れ、殺戮の一部始終を目撃していた。ヒサノは失神し、無防備なまま居間で倒れていたが、不思議なことに彼女も無事だった。
急いで力蔵とヒサノを保護し、遺体を収容した一行が家を出たところ、屋内から不意に男児の声があがった。日露戦争帰りの者がひとり中に戻ると、むしろの下に隠されていた重傷の巌を見つけた。巌は肩や胸に噛みつかれて傷を負い、左大腿部から臀部は食われて骨だけになっていた。
六線沢の全15戸の住民は、三毛別にある三毛別分教場(その後、三渓小学校になるが廃校)へ避難することになり、重傷者達も3km川下の辻家に収容されて応急の手当てを受けた。巌は母・タケの惨死を知るすべもないまま、「おっかぁ!クマとってけれ!」とうわ言をもらし、水をしきりに求めつつ20分後に息絶えた。
この2日間で6人、胎児を含めると7人の命が奪われ、3人が重傷を負った。重傷者たちは翌日さらに3km下流の家に移り、古丹別の沢谷医院に入院したのは12日のことだった。
■ 12月11日
すべての住民が三毛別分教場に避難した六線沢に人影はなく、おびえながら固く戸締りをした三毛別の各農家がヒグマ避けに焚く炎が、昨夜から不気味に寒村を照らしていた。小村の住民だけではもはやなす術はなく、三毛別地区区長の大川与三吉(おおかわ よさきち,当時47歳)と、村の長老や有志、駐在所巡査、御料局分担区員、分教場教師らが話し合い、ヒグマ退治の応援を警察や行政に頼ることを決議した。
その一方、家族に降りかかった悲劇を知らず雪道を往く斉藤石五郎は、役場と警察に太田家の事件報告を終えて10日は苫前に宿を取り、11日昼近くに帰路についた。下流の三毛別にたどり着き、妻子の受難を知らされ、呆然と雪上に倒れ伏しただ慟哭をあげるしかなかった。
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続いて、木村盛武氏によるレポートなどを丸写し参考にしつつ、補足的なものを。
● 斉藤石五郎の妻子(明景家で被災)について
12月10日(金)の午前5時ごろ、斉藤石五郎(当時42)が苫前村役場や古丹別駐在所に事態を知らせるべく急使に出た後、その妻(タケ・当時34)と、三男の巌(当時6)、四男の春義(当時3)は、自宅から約1.3km下流に位置する明景安太郎家へと避難した。
当初は最も安全と言われた三毛別分教場(斉藤家から下流に7km弱の位置)に避難する予定だったが、夫が急使に出たこととの絡みで、急遽避難先を明景家に変更したのだという。(夫が急使に出たことと避難先を変更したこととの間にどういう脈絡があったのかについては触れられていない。)
斉藤家には他にも長男の永次(当時15)、長女のハマ(当時13)、次男の勇次郎(当時9)がいたが、この3人は当時、隣村である鬼鹿村の親類の家に預けられ鬼鹿小学校(明治14年1月開校)に在籍しており、六線沢には不在だった(よって危難に遭わず)。
ちなみに木村氏は昭和30年代に当時苫前町に在住していた斉藤家長女のハマに取材を申し入れたところ、当初は怒鳴らんばかりにして追い返されたが、粘り強い交渉の末にようやく執筆の趣旨を理解してもらい、伝え聞いていることを話してもらうことができた。
石五郎の妻・タケは明日にも産まれるかという臨月の身だったが、明景家に避難していく途中、自分の太い股(もも)を叩いて見せながら「私の股なら肥えてうまいから、熊も食いごろだろうね」と冗談を言い、同行の夫人と大笑いしたという。
(各ポイントの位置は木村盛武氏の図表を参考に大まかな位置を示したもの。明景~太田家の位置については後でもう少し細かく触れる予定です)・・・(※ 8月2日追記: 「その2」でも説明しました通り、8月1日放送のNHKBS『ダークサイドミステリー』では、明景家跡地の位置について、「推定」とした上で、上の図で言えば黄色〇の位置あたりとしていました。)
● マユの遺体捜索(12月10日午前9時ごろ~)
マユと幹雄が危難に遭った12月9日(木)の夜のうちに、凶報は三毛別の集落内に広まった。
マユの遺体を取り戻す必要があったが(とはいえまだその時点では生死不明だったが)、苫前の山中で12月も3時過ぎとなると日は山の端に傾き、追跡するには遅かったため、捜索は翌10日を期することになった。しかしその準備時間のおかげで、六線沢15戸の開拓農民全員(男手)に三毛別地区からの助っ人も合わせ、銃手5人を含む30人余りの捜索隊を組むことができた。
10日(金)午前9時ごろから肢跡の追跡を開始した。
長柄の鎌を手にした者を先頭に、銃手5人(谷喜八や金子富蔵を含む)が後に続き、次いで鉈などの武器を手にした20人ほどが続いた。
林内に入り、70cmの深雪を分けつつ150mほど進むと、やや小高い場所にそびえるトドマツの根元あたりが黒く盛り上がっていた。先頭が近づくとたちまちそれが巨大なクマとなって躍り出た。5人の銃手は一斉に銃口を向けたが、火を吹いたのは谷喜八の一丁だけ、残り四丁のうち、三丁は不発。銃といっても万が一に備えて安心のために持っているだけで、日ごろ手入れされていないものが多く、詰めっぱなしの実弾は火薬が湿り気を帯びてしまい、発火するのが不思議なくらいの代物だった。金子富蔵に至っては日ごろの癖で銃の遊底に巻いていた布が邪魔をして引き金を引くことすらできなかった。
発砲されたクマは猛然と捜索隊に襲い掛かり、皆クモの子を散らすように逃げてしまったが、逃げ遅れた者が二人いた。(谷喜八の二発目があったのか、谷自身は逃げたのかについての記述はない。) しかし、そのうちの一人が大声を張り上げながら長柄の鎌を振り回し、残る一人が不発に終わった銃を構えてしばし対峙すると、熊はやおら方向を変えて山の手に向かいそのまま走り去った。立ち上がった時の丈は馬匹を凌ぐ大きさで、胸には「袈裟懸け」といわれる大きな白斑を交えた全身黒褐色の巨大なクマだった。
ほうほうの体で逃げ帰った者たちはとりあえず関係筋に救援要請の使者を派遣することを決めたが、怖気づいて一人また一人と近くの開拓農家に引きこもってしまい、やがて現場には誰もいなくなってしまうありさまだった。
再び気を取り直して再捜索に向かった時には、すでに3時を大きく回り、林内は薄暗くなっていた。先刻クマが飛び出してきたトドマツのあたりへ行くと、クマの姿はすでになく、血痕が白雪を染め、トドマツの小枝が重なったところがあった。その重なった小枝の間から、マユの片足と黒髪がわずかに覗いていた。マユの体はこの場所で完膚無きまでに喰い尽くされており、残されていたのは僅かに黒足袋と葡萄色の脚絆をまとった両足の膝下、そして頭髪を剥がされた頭蓋骨のみであった。衣類は付近の灌木にまつわりつき、何とも言えぬ死臭が漂っていた。
夕刻5時ごろ、マユの遺体は太田家に戻った。
● 太田家の通夜の席にクマが乱入した件について(12月10日午後8時半ごろ)
12月10日(金)夜にマユと幹雄の通夜が行われた。
参列したのは、力昼から到着した幹雄の両親(蓮見嘉七・チセ)とその知人、また、六線沢から中川長一、松村長助、池田亀次郎、三毛別からは堀口清作ともう一人、これに喪主の太田三郎を合わせて9人のみだった。
「クマは獲物があるうちは付近から離れない」
そう聞かされていた六線沢~三毛別の開拓民たちの多くは、クマの再襲を恐れて太田家に近寄ることができなかった。
六線沢から通夜に参列したうちの一人である池田亀次郎(当時19)は、11月に3度連続でトウモロコシ被害を受けた池田富蔵の次男であり---鬼鹿山方面への追跡に参加したが天候悪化のため下山したメンバーの一人---事件発生から終結までの一連の流れをよく知る人物だったが、木村盛武氏は昭和30年代にこの人物にも聞き取り調査を行っている。
この日、夕暮れまでクマを追跡していた三毛別のマタギ・谷喜八が帰りがけに太田家に顔を見せ、「どうせ喰われるならもう二、三人も喰われりゃよかった。一緒に弔ってやるのにな。今夜は見てろ、九時ごろ必ずクマが来るぞ」と悪態をつき、「明日もクマ撃ちだ!」と言い残して立ち去った。(現代の感覚からすればあまりにも空気を読まない暴言と思えるが、谷は普段はいたって人柄も面倒見もよく、誰からも好かれていたという。)
通夜の席にクマが乱入してきたのは午後8時半ごろで、幹雄の実母である蓮見チセ(当時33)が力昼から持参してきた清酒を6人に注ぎ回り、2回目の2人目に注ぎたそうとした、その瞬間だったという。遺体を安置した寝間の壁が大きな音とともに打ち破られ、黒い塊(クマ)がなだれ込んできた。ランプは消え、棺桶は打ち返されて屋内は逃げ惑う者で大混乱となり、ある者は梁によじ登り、ある者は厠に隠れるなど様々だったが、いち早く戸外に飛び出した中川長一が大声で怒鳴りながら石油缶を叩きまわり、三毛別の堀口清作(日露戦争帰り)が銃を放つに至ってさすがのヒグマも家から飛び出し暗闇へと姿を消した。この時、外に逃れていた2~3人が、数メートル先の小道を逃げていく黒いクマの姿を目にしたという。
その直後、太田家から三百数十メートルほど下流に位置する中川孫一宅周辺で警戒に備え食事中だった50余人の救援隊が駆け付けた。彼らは太田家の方角から突如わき起こった異様な物音と叫び声に慌てて駆け付け、太田家を包囲したのだった。クマの乱入からわずか10分ほどの早業だった。
ウィキペディア中の、「ヒグマが通夜に乱入した時、妻を押し倒し、それを踏み台にして自分だけ梁によじ登った男」は、幹雄の実父である蓮見嘉七であった。
このエピソードは妻(蓮見チセ)本人から木村盛武氏に語られたもので、夫の踏み台にされたチセは堀口清作(日露戦争帰り)に助けられてようやく梁の上に逃れたのだった。この一件のため、嘉七は生涯チセに頭が上がらなかったという。
● 明景家にヒグマが乱入した際のこと(12月10日午後8時50分~午後9時40分ごろの約1時間)
12月10日(金)の夜、明景安太郎の妻ヤヨ(当時34)は同家に集まる予定の20人ほどの救援隊員の夜食作りにかかっており、また、同家に子供連れで避難してきていた斉藤石五郎の妻タケ(当時34)は、仏前に備える団子づくりに余念がなかった。
そこへ、三毛別の農夫で救援隊員の一人がひょっこり顔を出し、「これから中川孫一の家に行くところなんだ。今夜は女や子供が多いからクマが狙ってくるぞ。さしあたり、肥えてうまそうな斉藤の母さんかな」と冗談を振りまき、高笑いしながら出て行った。
その直後、太田家の方角から異様な騒ぎが聞こえてきた。太田家の通夜にヒグマが乱入した騒動であり、時刻は午後8時半ごろだった。
この騒動に、中川孫一宅の近くに集まり食事中だった50余人の救援隊が、一斉に太田家へと駆け付けた(午後8時40分ごろ)。
突如川上からわき起こった騒ぎを受け、明景家に残された婦女子とオドは不安に怯えながら薪をくべ続けた。「火を絶やすな! どんどん薪をくべろ。火を見せればどんなクマも逃げていく」・・・クマは火を恐れるという誤った言い伝えによるものだったが、恐ろしさのあまり誰もオドのそばを離れようとしない。白斑の袈裟懸け熊は特に気が荒く、「七沢越えても妊婦を襲う」という昔からのアイヌの言い伝えもあり、婦女子らは恐怖に怯え、薄暗いランプの下でいっときも早く夜の明けるのを祈っていた。
一方、太田家に駆け付けた救援隊は、すでにクマが逃げたことや、通夜の席に連なっていた人々の無事を確かめた。彼らは救助した人々を伴い川下の安全地帯に向けて歩きだしたが、不思議な予感は当たるもので、太田家から避難した人々は皆、歩きながらも、クマはまだ付近に潜んでいる気がしていたという。
その時、激しい物音と絶叫が川下の明景家の方角からわき起こった。クマが太田家を襲い損ねてから、わずか十数分後の、午後8時50分ごろのことだった。明景ヤヨが夜食のカボチャを囲炉裏の大鍋にかけて再び準備のため土間に戻ったところ、激しい物音と地響きを立てて、巨大な黒い塊が窓を打ち破り屋内になだれ込んできたのである。
その後の大混乱について、詳細は木村盛武氏の『慟哭の谷』を参照いただくとして、一点だけ、例の「腹破らんでくれ!」「喉喰って殺して!」という叫びに代表される殺戮の状況について、たまに「フィクションでは?」「想像では?」という声が散見されるので、これについてのみ触れてみるとすると、
この襲撃の際、明景家の長男である力蔵(当時10)は、部屋の隅に2段積みになった十俵ほどの穀俵の陰(18cm程度の隙間)に身を隠して九死に一生を得たが、隠れながらも、この夜の殺戮の一部始終を耳にすることになってしまった。力蔵は当初、身重だった斉藤タケと同じく隅の野菜置き場に身を隠していたが、ここでは危ないと判断し、さらに4mほど離れたところにある2段積みの穀俵の陰に身を潜めたのだった。木村氏は昭和30年代に力蔵本人からも聞き取り調査を行い、克明な手記も受け取っており、その後に発表した同事件に関するレポート『苫前三毛別事件』についても、その内容にお墨付きを得たという。
またクマが明景家に乱入したのが午後8時50分ごろ、クマが夜空に向けて放たれた2発の銃声に驚き---放ったのは三毛別のマタギ・谷喜八だったという---屋外に飛び出し逃走したのが午後9時40分ごろだった。つまり殺戮はその間約50分にわたっていたが、太田家方面から駆け付けた50余人の救援隊は、明景家の焚火やランプが蹴散らされて屋内が暗黒化され、クマがどこにいるかわからなかったこともあり---多分に怖気づいていたのだと思われるが---明景家を二重三重に包囲し婦女子の呻き声を耳にしつつも、内部に踏み込むことができずにいた。
(つまり、穀俵の陰に隠れていた明景力蔵のほかにも、婦女子たちの断末魔の呻き声を聞いていた者たちはいた。木村氏が著書で実名を明かしているだけでも、氏は昭和30年代に、事件当時19歳~28歳までで救援隊員として活動した6人の男性に聞き取り調査を行っている。力蔵その他の人々の証言にも、記憶違い等の可能性もあることを考えれば、それがそのまま事実だとまでは言えないにせよ、少なくともフィクションだと一蹴するには当たらないのではないかと。)
屋内に踏み込めず手をこまねいている救援隊員の中からは、家もろとも焼き払えとか、めくら撃ちでも構わないから内部に一斉射撃をして仕留めろ等の怒号も上がったが、これは、子供の生存に望みをかける明景ヤヨの必死の反対により、実行には至らなかった。自身も深手を負ったヤヨはいったん近くの中川孫一宅に避難しつつも、屋内に取り残された子供らの身を案じ、周囲の制止を振り切り現場に引き返してきていたのである。
結局、入り口のあたりに狙いを定めた10人あまりの銃手を配置し、まず夜空に銃を放ち、驚いて飛び出してきたクマをそれらの銃手が射止めるという作戦がとられたが、狙い通り銃声に驚き飛び出してきたクマを銃手の一人が真正面にとらえ引き金を引いたがこれが不発に終わり、慌てる隊員を尻目にクマは軒伝いに闇に消えてしまった。このとき、「生存者は出てこい!」と大声が聞こえた、と明景力蔵は述懐している。
屋内になだれ込んだ救援隊により、力蔵やその妹のヒサノ(当時6)が救出された。ヒサノは当夜、早くから就寝していたが、助け出された時には失神状態であり奇跡的に無傷だった。
殺害・食害された3人の遺体の状況について、臨月の身で危難に遭った斉藤タケは、四男の春義(当時3)と明景の三男・金蔵(当時3)の遺体の中ほどで息絶えていた。3人の遺体はそれぞれイナキビの入った五斗叺(ごとかます)、布団、荒ムシロなどで覆われており、また、3人とも申し合わせたように素っ裸にされていた。斉藤タケの遺体は、右肩から右胸部、腹部、右大腿部にかけて喰い尽くされており、腹から掻き出された胎児は奇跡的に無傷だったが、1時間後に息絶えた。
隊員が遺体を収容し、夜道を引き上げようとしたその時、突然背後の屋内から「おっかあ! クマ獲ってけれ!」と叫び声が聞こえた。生存者がまだ一人残されているのを見落としてしまっていた形だが、隊員たちが暗闇のむごたらしい現場に再び入るのを躊躇する中、ここでもまた日露戦争帰りの堀口清作が単身屋内に踏み込み、ムシロの下に隠されていた瀕死状態の斉藤巌(斉藤家の三男、当時6)を発見・救出した。巌は左大腿部から臀部にかけて骨が露出するほどの深手で、皮膚がぼろ布のようにまつわりつき、ふた目とは見られぬむごい姿であった。
相次ぐクマの襲撃に開拓民は恐れおののき、一刻も早く開拓地から逃れようとした。まずは婦女子を3kmほど下流の辻橋蔵家と、そこからさらに3kmほど下ったところにある三毛別分教場とに分散避難させることになった。この夜の避難民の落ち延びていく様子はあたかも平家の都落ちを思わせる陰惨な光景であった。深雪の中、ガンピの皮を松明にして火を灯し、六線沢沿いに点在する開拓民を奥地から一軒一軒大声で呼び出し避難の隊列に加えていく。列の長さは100mにも及び、燃えさしのガンピが路上に打ち捨てられ点々と燃える様はさながら不知火を思わせた。
明景家で深手を負った状態で救出された斉藤巌は辻橋蔵家に収容され、激しく水を求めながら、時折、「おっかあ、クマ獲ってけれ!」とうわごとを洩らしていたが、辻家の妻女リカが茶碗で水を与えると瀕死の者とも思えぬ勢いでこれを飲み下し、なおも「水! 水!」と激しく叫び続けたが、やがて声も細り、20分後には息絶えた。
同じく深手を負った明景ヤヨ、その1歳の息子である梅吉、太田家の寄宿人オドの3人は辻家で応急の手当てを受け、翌11日(土)、さらに3km下流の森伊三郎家に収容され、被災3日目の12日(日)になってようやく古丹別の沢谷医院に収容された。
この夜に六線沢から避難した人々の大半は三毛別分教場に収容された。中には恐怖のあまり、遠く古丹別や苫前、さらにその北の羽幌まで逃れる人もいた。やがて辻橋蔵家も危険区域に入ったため、12月12日午前には同家の全員もさらに3km下流の地域まで退避した。六線沢には救援隊から選抜された少数の隊員のみが留まることになった。
(12月10日午後8時50分~午後9時40分ごろ、明景家における被災状況。建物サイズ縦約4.5m、横約14.5m。)
(明景家で被災した重傷者が一時収容された辻橋蔵家は、上の画像中の池田富蔵家のすぐ近くにある。そこから多くの避難民が集まったという三毛別分教場までは、直線で3km弱といったところ)
(辻橋蔵家から三毛別分教場までのエリアを拡大。三毛別分教場はのちの三渓小学校---現在廃校---とのことで、だとすると画像の左上、矢印先の水色〇の位置がそれになるが、黄色〇の位置がそれだとする資料もある。いずれにしても、かつての分教場の位置はそのあたりということで。)
(水色矢印の先、在りし日の三渓小学校@1978年7月。現在も建物の一部は残されている。)
(水色矢印の先、在りし日の三渓小学校@1955年1月。)
(同じ場所の1947年10月、太平洋戦争終結の約2年後---ヒグマ事件の32年後---の画像。建物が在るのか無いのかよくわからない。三渓小学校自体は1907年<明治40年>4月に「三毛別御料特別教育所」として開校し---これがつまり木村盛武氏のいう「三毛別分教場(分校)」のことだと思われる---1947年<昭和22年>に「三渓小学校」に改称、1990年<平成2年>3月に廃校とのこと。廃校時の児童数は4名。)







