※ 自殺実況テープ続きです。自ら命を絶つケースには、病苦、鬱、職場や学校で心身ボロボロになった末にとか、老々介護、追い詰められた母親がノイローゼ気味に幼い子供を道連れなど、本当に---子供については、行政に丸投げしてでも生かす道はあると思われるので、道連れにしてはいけないと思うのですが---痛ましいケースが多いのですが、この記事の社長のケースは(社長に)同情の余地があるとも思えず、社長の所業について感じたままに書いたら、部分的には責めるような響きの文章に---特にそうした意図はなかったのですが---なってしまっていますので、そういうのが不快な方、この種の話に影響されやすい方、あれこれ想像しては鬱になってしまう方、怖がりの方、希死念慮の強い方はお読みにならないほうがいいかと思います。
(テープから起こした部分の文字色は赤茶色にしているのですが、見た感じはほとんど赤色になっています。読みにくくてすみません)
※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います。※※
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■ 事件発生から逃走、犯人による自殺の実況、自殺体発見までの流れ
1994年(平成6年)11月10日(木)早朝~朝7時ごろ、松田雅夫(当時50)は、葛飾区西新小岩の自宅で、妻の敏子(同49)と娘の望(同23)をテレビ用のアンテナコード(青)で絞殺した。
朝7時ごろ、近所の主婦が「たすけてーッ」という女性の弱々しい声を聞いている。
この日は金融会社からの借金の第一回目の返済期日だった(借金総額2800万円。保証人は敏子と親族、知人の計5人)。
当該期日の返済額は700万円、しかし敏子には、返済の期日も、返済が困難であることも何一つ知らせていなかった。
(前日の11月9日、借金の保証人になっている雅夫の親族から自宅に電話があり、そこで初めて、敏子は第一回目の返済期日が明日に迫っていることを知った)
妻子の殺害後、雅夫は遺体から遺髪を切り取った。
家中の金をかき集め、わずかに残っていた預金も解約し、レンタル契約していた白のベンツで旅に出た。
以下、自殺直前の11月18日夜~19日未明にかけて録音されたテープから、
「はい、松田雅夫が喋っています。こんなことをする気は無かったんですけれども、いくら手紙を書いても仕様がありませんし、自分の気持ちを正直に言うには、これが一番いいかな、と思って、思いついたように喋っています」
「先月の10日頃から、ちょっと危なかったものですから、折りをみて話そうと思ったんですけれども、なかなかそういうきっかけもなかったんですね。もちろんその間、 わたしの方としては金の策というんですか、資金のこと、もう本当に信じられないくらい一生懸命やったんですけれども、結局、最終的には11月10日には間に合わない、と。翌11日からは、もう矢のような催促がくるわけですし、捕まってしまえば逃れられなくなりますから、どうしても10日のうちに決めてしまわなければならない、と」
「ぼくがこの事業に失敗したからということで、例えば離婚するとか、あるいはぼくだけ、まあ消えちゃう、まっ、そういうことは、ぼくは出来ませんからですね」
「(離婚や雅夫単独で消えるということを)やったとしても、あのカミさんの性格、子供の性格を考えますと、まあとにかく、信じられないくらいの心の負担になって、何も出来なくなって、本当に心身ともにボロボロになってしまうんじゃないかなと思うんですね」
「10日の早朝に、敏子を、それから望に対しては“母さん、病気でちょっと寝てるから、ちょっと、そっとしておいてやってくれ”というような形にして、望と一回対峙してですね、それで朝食も食べ終わり、彼女の後ろから・・・カミさんと同じロープで絞殺した、というわけです」
書くより録音することを選んだのは、思いついたことをその都度記録していくにはそのほうが楽ということに加えて、音楽ソフト制作会社社長という職業柄ということもあったのでは、との見方がある。
資金繰りに窮していることについて、「折りをみて話そうと思ったんですけれども」とあるものの、前年8月の200万の借金の時にも妻には何ら一切打ち明けてはいなかったというから、話す気が本当にあったかは疑わしいかと。
「催促が来て捕まる前に逃げた」といっているので、苛烈な取り立てを受けた末に無理心中を図ったのではなく、そうなる前に、いち早く(妻子を巻き添えにして)逃げたことがうかがわれる。
自己破産の道もあったはずだが、それをせず無理心中ということは、本人の感覚的には、自己破産は妻子を道連れにして自殺するよりも惨めでみっともないことだったのだろうか?
49歳(元ピアノ講師)と23歳(大学生・就職内定済み)の妻子を巻き添えにしたことについて、あたかも妻子のためを思って殺害したかのようなことを言ってはいるものの、
本当の理由は、単に自分一人で死ぬのが怖い、一人で逝くのが寂しい、妻子に対して奇妙な一体感というか所有感のようなものがあり、自分の人生が終わるときは所有物の人生も終わるときなので、死出の旅路に同行させるのは当然であると、
その言い訳として、「自分一人が消えれば、残された彼女らは心身ともにボロボロになって何もできなくなる」というものを思いついた、といったところではないかと。
妻子を同じ一つの「ロープ」で絞殺したとあり、この「ロープ」とは雅夫によるとテレビ用のアンテナコード(青)だった。
11月16日の未明、雅夫は奈良のホテルで、同じこの青いコードを自分の首に回して自殺を図ったが、コードは切れ、失敗に終わっている。
葛飾区西新小岩の自宅(事件現場)と御茶ノ水駅前の事務所とは、直線距離で約8km
首都高速中央環状線から南へ、事件現場付近を望む
現場付近、事件の約2年前の画像
独白は続く。
「本当に考えるだけでも、手も震え、身も震え、恐ろしいことなんですけども、そうする自分が一番怖いわけで、今思い出しても体中がぶるぶるしています」
「そしてわたし自身も、その後を追おうと思ったんですけれども・・・」
「今月の1日に日光に家族で行ったり、11月の3日の望の誕生日は歌舞伎を観たりと。そんな中で“あそこにも行きたかったなあ、ここにも行きたいねえ”なんていう話を何かの形で聞いたことを思い出しましてですね。そうだ、おれとして出来ることを、せめてひとつ・・・死ぬのはいつでも出来ると・・・あんたたちの行きたいと言ったところを、時間の許す範囲で回ってみようと、思ったわけです」
先に、「先月(10月)の10日頃から、ちょっと危なかった」「金の策というんですか、資金のこと、もう本当に信じられないくらい一生懸命やった」と語っていた一方で、ここでは「11月1日に日光に家族旅行をした」「11月3日の娘の誕生日に歌舞伎を観に行った」と言っている。
独立以来、借金を重ねるようになってからも、家賃のより安いところに自宅や事務所を移すでもなく、白のベンツのレンタル契約をやめてトヨタにするでもなく、自分の側で切り詰めようとしていた様子はあまり見られない。
妻子の殺害後にいったん自殺を思いとどまり、いくつかの観光地を泊まり歩いて飲み食いしたことについて、本人はいわば妻子への供養のためだったとして、妻子を言い訳に用いているものの、
本当の理由を妄想してみると、妻子を絞殺し絞殺体を目の当たりにして死への恐怖をリアルに感じ、直後の自殺を躊躇してしまったであるとか、
妻子を絞殺することで、ある意味では一時的に独身に戻り、肩の荷が下りて心に余裕が生まれ、殺害後、直ちにはこの世への未練を断ち難くなった(もう少し遊んでいたくなった)であるとか、
ワーグナーやモーツァルトの世界に耽溺し、なおかつ極度の見栄っ張りだったとされる本人的には、2遺体が横たわる公団賃貸住宅の一室で、その手に殺害の感触も生々しいままに自らの首を括ることは、人生の幕引きの在り方として美意識的に耐えがたい、この俺の人生のフィナーレとしてあり得ない、とんでもないと、
そこで悍(おぞ)ましい行為の口直しとして、最後に美味いものをたらふく食い、絶景を心行くまで堪能し、自分に相応しい舞台でクラシックの名曲のような美しい余韻を湛えつつフェイドアウトするべく、終幕を演出しようとしたであるとか、
そういった自分本位な理由から、ほうぼうの観光地を巡り歩くことを思い立ち、そのための言い訳として、「妻子への供養」ということを持ち出した、といったあたりが本音に近いのではないかと。
親族に電話して犯行を告白し(これで妻子の遺体は速やかに発見してもらえる)、自分は秘かに富士の樹海か、それに類するひと気のない山奥に消える・・・という手もあったはずだが(これで宿泊施設側への迷惑が掛からない)、
あくまで宿泊施設での最期に執着しているのは---1回目の自殺決行(未遂)は奈良の皇室御用達のホテルだったので、自分の最期の「舞台」としてそういった場所を求める気持ちがあったことに加えて---宿泊施設で死ねば自分の遺体が死後速やかに発見され、
「墓に入れてもらえる」
というメリットを考えてのことだったのではないかと思う。(樹海で死ねばそのあたりが怪しくなる)
ともあれ、妻子を絞殺した日の夜、雅夫は千代田区神田の「山の上ホテル」に宿泊した。同ホテルは、御茶ノ水駅前のマンションにある雅夫の事務所から300mほどの距離だった。
「十日、事件の当日なんですけど、その日は一度、『山の上ホテル』で・・・天麩羅が美味しいですね。肉マンの美味しいこの『山の上ホテル』に泊まってみたい、なんてことが言われてましたもんですから、ぼくとしても『山の上ホテル』で一泊してもいいなあ、と思って、十日の夜、泊まりました」
「肉マンの美味しい」山の上ホテル(東京都千代田区神田駿河台1丁目1)
翌11日(金)、雅夫は千代田区内幸町1の「日比谷花壇 帝国ホテル店」に赴き、そこから2遺体が放置された葛飾区西新小岩の自宅マンション宛てで花を贈った。
そこに添付されたメッセージカードには、「地獄から天国へ行きます」と記されていた。
同日、東京を発ち愛知県へと向かった。なぜ愛知か、本人によると、
「そうだ、カミさんはまだ一回も海外へ連れていっていなかったんだ、と思いましてですね」
「そうだ、今だったらそんなに混んでいないわけだから、ウィーンとか、ミュンヘンとか、あの辺に連れていってあげよう、という気持ちで行動を始めました。でも、成田だと、もしかしたら十日のことが分かっちゃってて、手配されているかもしれないから、とりあえず名古屋空港(小牧空港)に行きまして。名古屋空港から韓国航空(大韓航空)で行けば安いし、ということで、韓国にとりあえず渡ろうと思いまして、11日の夜は東京を出て、名古屋の小牧空港の近くのホテルに一泊しました」
セントレアができる以前の事件当時、愛知の小牧空港(県営名古屋空港)では国際線も運行していた。
ウィーンやミュンヘンを目指した理由として、またしても他人(妻)を持ち出しているものの、本当の理由は、単に自分がはまっていたモーツァルトやワーグナー的に、人生のフィナーレにふさわしい舞台がオーストリアやドイツであり、
そこを目指す言い訳として、「そういえばカミさんを一回も海外へ連れていっていなかったな」ということを思い付いた、といったところではなかったかと。
いずれにしてもパスポートは用意していたということで、祝康成氏は「高飛びも考えていたのだろうか?」とされている。
「翌朝(12日<土>)、ファーストクラスしかなかったんですけど、6万円くらいでしたので、とりあえずチェックインします」
ところが、ファーストクラスのラウンジで1時間ほど過ごすうちに心変わりした。
「そうだ、海外へ行くよりも、日本でも見ていないところがまだいっぱいあるし、日本の良さもまだそんなに知っていないんだし、ということでですね、ハッと思いついたのが、“そうだ、いまなら外国へ行っても冬だ”と。冬の寒い時にクルマを運転できないのは困る、と。考えてみればそうですよね。突然のことですから、国際免許の手続きもしていない、と」
「やはり昔から海を見たがっていましたし、日本を好きでしたので、とりあえず名古屋から下田に行きまして、『下田プリンス』に一泊しました」
一度も海外旅行に連れて行ってなかった妻をウィーンやミュンヘンに連れて行こうとの企画は、「当地は寒いし車が使えない」ということで、あえなくボツに。
目的地を南伊豆の下田に変更したことについて、「(妻が)昔から海を見たがっていた」「日本を好きだった」として、再び家族を言い訳にしている。
自己都合により特定の行動をとるときに、自分がそうしたいということを明言せず、他人を言い訳にするというのが、この人の癖なのかもしれない。
下田プリンスホテル(静岡県下田市白浜1547-1)
下田プリンスホテル、雅夫が宿泊した4日後の航空写真。この写真が撮影されたころ、雅夫は奈良のホテルで自殺に失敗し、糞尿で汚した部屋を片付けていたか、東大寺裏の駐車場に停めた車の中でひっくり返っていたものと思われる。
雅夫が下田プリンスに宿泊したこの日(11月12日<土>)、東京では雅夫宅への電話が通じないことに胸騒ぎを覚えた都内在住の雅夫の姉がマンションを訪ねた。
玄関には鍵が掛けられており、家人からの応答はなく、公団事務所に鍵を開けてもらおうにも土日は不在で、やむなくその日は帰宅するしかなかった。
11月13日(日)、下田プリンスをチェックアウトした雅夫は北上して箱根へ。
「翌日(13日)は下田から箱根に行きまして、『箱根プリンス』泊まりです。富士山を近くで見たいと、太平洋の側から見せてあげたいなあ、と思ったからですね」
「箱根プリンスホテル」は1994年当時の名称で、現在は「ザ・プリンス箱根芦ノ湖」となっている。芦ノ湖を挟んで、富士山を北西に望むロケーションだった。
ザ・プリンス箱根芦ノ湖(神奈川県足柄下郡箱根町元箱根144)
同ホテルから、芦ノ湖を挟んでの富士の眺め。「富士山を近くで見たいと、太平洋の側から見せてあげたいなあ、と思ったからですね」
箱根プリンスホテル、雅夫の事件の前年8月の航空写真
11月14日(月)、箱根プリンスから北西に上がり、山梨県富士河口湖町の「富士ビューホテル」に一泊。富士山を南に望むロケーションだった。
「(富士ビューホテルからの富士の眺めは)夕方は全然ダメでしたけども、朝はもう、ほーんとに信じられないくらい、美しい富士山を見ることができました」
「富士山に関しては、一番いい姿を全部見せてあげられたんじゃないかな、と思います」
富士ビューホテル(山梨県南都留郡富士河口湖町勝山511)
「ほーんとに信じられないくらい、美しい富士山を見ることができました」(画像は富士ビューホテル5階からの風景)
富士ビューホテル、事件の約1年前の航空写真
同日(14日)、東京では大騒ぎになっていた。都内在住の雅夫の姉が、松本市から急きょ駆け付けた兄とともに再度マンションを訪問、午後1時30分、公団の委託を受けた錠前業者にドアを開けてもらい内部に進入、2遺体を発見したのである。
雅夫の妻・敏子の遺体は、玄関右わきの和室(四畳半)中央に敷かれた布団の中で発見された。
首には索条痕がくっきりと残っており、顔には白のバスタオル、体全体には夏用の薄手の布団が掛けられていた。
早朝、まだ布団に入っているところを、背後から絞殺されたものとみられた。
雅夫の供述によれば、娘の望は台所で殺害されたが、望の遺体は、奥のベランダに面した和室(六畳)に置かれていた。
そこは望の自室であり、ピアノと本棚、整理ダンス、机に囲まれる形でベッドがあり、そのベッドに遺体は横たえられていた。
布団が掛けられ、首には索条痕があった。
ベランダに面した、太陽光が差し込む部屋に置かれていたためか、望の遺体はすでに腐敗が進み、膨張していた。
(現場付近の気温について、過去データによると、遺体が発見された14日は日中の最高気温が13度台と冷え込んでいたが、10日~13日までは日中の最高気温は20~22度台で推移している)
雅夫が富士ビューホテルで、「ほーんとに信じられないくらい、美しい富士山を見ることができました」「富士山に関しては、一番いい姿を全部見せてあげられた」と悦に入っているとき、殺害現場では、首に索条痕を残した娘の遺体が、閉め切った生暖かい部屋の中で腐敗し膨張していた。
レンタル契約していた白のベンツで長距離を走り回るという、けっこう危ない橋を渡っていたことについては、次のように語っている。
「わたしとしてはですね、死に場所をいつも求めていたわけですね。十日、殺害に使いましたものを、テレビ用のアンテナコードですね。常にいつも持ちまして・・・死ぬ用意をしていました。それ一本では足りないと思いまして、白の、倍くらいの長さのコードも、常に持参してました」
「クルマで移動するわけですから、クルマの手配がされては困る、と。だからパトカーに停止されたら、華々しく・・・事故死でもしてやろうかなと思いましてですね。わたし、助手席にいつも、えー、ガソリンは買えないものですから、メチルアルコール3本とですね、後ろの席にはベンジンを3本の、ペットボトルというんですか、置いておきました」
「パトカーから停められても、ライターを擦ればいい、と。あるいはカーシングライターをつけてさえおけば、いつでも使えるということで、そういうような状態の緊張した中で走っていましたので、死に対する恐怖はありませんでしたけれども、逆に言うと、死に対する憧れのような形で走っていたのは確かです」
妻子殺害の件で捕縛され裁きを受けるのは、真っ平御免であるということと、借り物の白のベンツも、いざとなればクラッシュさせるなり燃やすなりすればいい・・・そう考えていたことが見て取れる。
11月15日(火)、富士ビューホテルをチェックアウトした雅夫は、樹海ではなく、奈良県へ。
奈良へ向かった理由は、娘が泊まりたがっていた皇室御用達の名門ホテルで首を縊(くく)り、自らの人生の幕引きとしようとの思いからだった。
ホテルにチェックインする前に、かつて新婚生活を送った奈良市内の団地を訪れ、紅葉を楽しんだ。
「(娘の望が)3月になったら奈良へ行きたい、〇〇ホテル(テープではホテル名あり)に泊まりたいんだけども、予約していいか、というような話も言っていたのを思い出しまして。(中略)わたしはもう、そこで最後にしようということを心に誓っておりましたものですから」
「河口湖(山梨の富士ビューホテル)からわたしが一番最初に行ったのは、昔、わたしたちが新婚生活を送った奈良市中登美団地です。あまりの変わりようにビックリしてしまいましたけれども、とても紅葉が美しくって感動的でした」
中登美団地(奈良県奈良市中登美ヶ丘1)
「中登美団地です。あまりの変わりようにビックリしてしまいましたけれども」
中登美団地、(おそらく)雅夫が埼玉に転居した直後ごろ
中登美団地(雅夫が入居したころ)
次に東大寺の二月堂や三月堂を訪れた。
二月堂では、この世の名残を惜しむかのように西正面の舞台にしばらく佇み、生駒山に沈む夕陽の美しさを堪能している。
「手摺から見る夕陽というのは大変美しくって、東大寺の屋根、それから生駒山、その他、大変よく見えましてですね、5時まで真っ赤な夕焼けを、40分近く佇んで見ていました」
東大寺二月堂。夕陽の絶景スポットとして知られる
同日(11月15日)夜、最期の場所と決めた、奈良市内の名門ホテルにチェックイン。
「わたしは、敏子と望の分の食事もとりまして、二人の遺髪を飾り、花を飾り、陰膳と一緒に最後の食事をしました。まだまだ、名残惜しい気持ちでしたけれども・・・」
「まだまだ名残惜しかった」・・・妻子の殺害後に観光地を泊まり歩いて飲食していたことが、「妻子への供養」というよりは、死への躊躇であるとか、この世への未練といった自己本位な理由であったことが垣間見えるかと。
日付が変わった11月16日(水)午前2時過ぎ、首つり自殺を決行。
妻子の殺害に使ったテレビ用アンテナコード(青)や紐を鴨居にかけて首に回し、足下の椅子を蹴ってぶら下がったが、紐とコードが切れて失敗、朦朧とした意識の中、下の床にあふれ出た大量の糞尿の中で転がりまわる羽目になった。
この時の状況について、自嘲的な含み笑いを漏らしつつ、本人は次のように語っている。
(以下、「いま」というのは、二度目の自殺決行直前のテープ録音時のこと)
「鴨居に・・・敏子と望(の殺害)に使ったブルーのコードをかけてですね、自分の、もちろん自分の首に回して・・・(中略)ちっちゃな鏡台に名刺を置いてたんですけども。で、鴨居に完全な形で結びつけてですね、わたしは本当に、まったく自然に足の下にあった椅子を蹴ったんですけれども・・・いま、こうしてまだ生きているということ。これをどう説明したらいいのか分かりませんけども、とにかくわたしは、あのー、その後、突然ですね、時間が長いのか、時間が短いのか、一瞬なのか、 1時間、3時間以上、経ったのか。まったく覚えていませんけれども・・・」
「痛さとですね、それとすごい悪い酔い方をしてるんじゃないかなあ、という感じで、部屋の中をズタズタ走り回ってですね、フフッ、あっちこっち傷だらけになったんですけれども」
「首吊りの途中で紐が切れて、そしてテレビコードが切れて、下に落ちてしまったんですね。真下に落ちたといっても、その周りはですね、とりあえず、 あのー、自殺者特有の便ですとか、尿ですとか、それが全部外に出ているわけですから」
「とにかく、もう豚小屋みたいなもんですね。その(糞尿の)上でもって、ツルツル滑るわけですから、あっちこっちにぶつかっても当然なんですけれども、まあ、その中で3、4時間、自分を取り戻すのに精一杯でしたけども」
人生のフィナーレに絶景と美味を心ゆくまで堪能し、娘が宿泊を望み妻子の遺髪を飾った皇室御用達の名門ホテルの一室で、妻子の首にまわした同じその青いコードで人生の幕を引くという目論見は、自らが床にぶちまけた大量の糞尿の中で脆くも潰えた。