葛飾区西新小岩「社長一家」無理心中事件(自殺実況テープ)・その1 | 雑感

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自殺実況テープ

( 「十日、事件の当日なんですけど、その日は一度、『山の上ホテル』で・・・天麩羅が美味しいですね。肉マンの美味しいこの『山の上ホテル』に泊まってみたい、なんてことが言われてましたもんですから、ぼくとしても『山の上ホテル』で一泊してもいいなあ、と思って、十日の夜、泊まりました」・・・・・何も知らずに読めば、この軽いノリに「じゃらん」か「食べログ」の口コミか何かと勘違いする人もいるのではないだろうか。男は妻子を絞殺し、死に場所を求めて旅に出た)

 

※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います※※

 

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 有名な自殺実況テープについて、その地理的なものを整理してみるというだけの記事になります。ただし内容が内容なので、影響されやすい方、あれこれ想像しては鬱になってしまう方、怖がりの方、希死念慮の強い方は、お読みにならないほうがいいかと思います。

 

(冒頭の画像中、愛知の小牧空港---県営名古屋空港---近くのホテルとその他の名前を挙げているホテルは、自殺の未遂~既遂があった等ではなく、単にこの事件の犯人が逃走中に宿泊し飲み食いしたというだけのもの。

また、「箱根プリンスホテル」は1994年当時の名称であり、ここは2007年に「ザ・プリンス箱根」に、さらに2015年に「ザ・プリンス箱根芦ノ湖」に名称変更している。

同画像中、赤枠で示した奈良のホテルと長野の旅館は、自殺未遂と既遂の場所なので名前を伏せた。ただし、祝康成氏@新潮45のレポートでは、名前は伏せられているが、ググればすぐ分かる程度には情報が載っている。

11月16日については宿泊場所が書かれていないが、この日の夜は車中で過ごしている)

 

以下、ほぼ全ての情報の元ネタは祝康成氏の新潮45レポートであり、申し訳ないくらい、当該レポートから引用させていただきました。

 

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 事件の概要

 

 発生日時: 1994年(平成6年)11月10日(木)早朝~午前7時ごろ

 

 発生場所: 東京都葛飾区西新小岩、平井大橋のたもとにある14階建て公団賃貸マンションの一室(犯人と被害者の自宅。ググれば部屋番号あり)

 

 犯人(自殺実況テープでの自供による): 松田雅夫(当時50)。元ソニー・ミュージックエンタテイメント社員で、事件の3年前(1991年)、47歳の時に同社を退職。事件当時は自ら立ち上げたクラシック専門の音楽ソフト制作会社の社長をしていた。

身長は163cm、銀縁の眼鏡に色白のソフトな容貌で、やり手のビジネスマンというよりは、真面目な音楽教師風だったという。

 

 被害者: 松田雅夫の妻・敏子(当時49)と、娘の望(当時23)。敏子は両親ともに小学校の教師という家庭に育ち、派手さを嫌うタイプ。望は当時、東京女子大の4年生で、大手食品会社に就職も決まり、卒論仕上げの真っ最中だった。

 

 殺害方法: テレビ用アンテナコードによる絞殺(2名とも同じコードを使用)

 

 犯行動機: 借金苦による無理心中。(借金総額2800万円。ただし貸主からの苛烈な取り立ての末に無理心中を図ったということではなく、借金の第一回目の返済期日その日に---つまり取り立てを受ける前に---妻子を殺害して逃走、その数日後に首吊り自殺を遂げている。)

 

 知人による加害者(雅夫)評:

「とにかく明朗で快活で話術は抜群でした。強引で図々しいところもあって、ソニーミュージック時代、有名な演奏家が来日すると楽屋まで入り込んでいました。カラヤンやバーンスタインと一緒に収まった写真もあります。サイン色紙は、それこそ山ほど持っていました。しかし、仕事でこれといった実績は上げていない。調子が良くて、大風呂敷を広げるけれども、結果に結びつかない。地味な仕事には向かないタイプです」

「自宅の一室をオーディオルームにして、壁一面にCDやレコード、LDがズラリと並んでいた。とくにモーツァルトとワーグナーが好きで、コンサートにも頻繁に出掛けていた。お金に余裕があれば、全てクラシックにつぎ込んでいました

「(ソニーミュージックでは)長らく企画制作のセクションにいましたが、クラシックばかり担当できるはずもなく、ポップスや歌謡曲もやらなければならない。子会社に出向して、オーディオの宣伝もやっていた。出世コースからは完全に外れていました。おそらく50歳を目前にして、好きなクラシックに携わって生きていきたい、と考えて独立を決意したんだと思います」

「しかも見栄っ張りだから、事務所を都内の一等地に構えて、ベンツを乗り回している。中身よりも、とにかく形だった。あれでは失敗して当然でしょう。オーストリアやドイツのオーケストラの演奏をLD化して売り込んだりしていましたけど、利益はほとんど出なかったはずです。しかし、旅費やスタジオ使用料、事務所の維持費など、カネはどんどん出ていく。借金は、マンションを売って返そうにも賃貸だし、まさに八方ふさがりの状況だったと思います。かといって、奥さんにすべてを打ち明けて、一からやり直すことは、彼のプライドが許さなかったのでしょう」

 

 知人による被害者(敏子)評:

「彼女は派手なことが嫌いで、金銭欲の希薄な、良妻賢母タイプの女性です。音楽教師になっていたら、素晴らしい人生だったと思います。野心家で夢想家の彼の経営のパートナーになれるような女性ではありません」

 

 知人による被害者(望)評:

「努力家で派手なことが嫌い。お小遣いをユニセフに寄付するような心優しい娘だった。敏子さんとは姉妹のように仲の良い母子で、時間が許す限り、いつも一緒に過ごしていました」

また望は、父親の事業がうまくいっていないのを薄々勘づいていたのか、「お父さんの仕事がダメになったら、私が養ってあげる」と語っていたという。

 

 その他情報1:

犯人の松田雅夫は妻子を絞殺し、後を追おうと考えたが、思い直して一旦逃走。「妻子に良い景色を見せ、美味いものを食わせる」という名分のもと、いくつかの観光地のホテルを転々としながら、風景を楽しみ飲食したのち、11月19日(土)未明に、長野県内の旅館で首吊り自殺を遂げた。

妻子の殺害に至るまでの事情や心情、首吊りによる絶命までの状況について本人の口から吹き込まれたテープが残されており(録音時間は約40分)、いわゆる「自殺実況テープ」として、事件に関心を寄せる人々の間では知られている

 

 その他情報2:

この「自殺実況テープ」は、二度目の自殺決行を前にした1994年11月18日深夜~自殺を遂げた19日未明の数時間の間に吹き込まれたものであり、このテープについて時々言われる「11月10日の妻子殺害直後から泊まり歩いた先々で数日にわたり録音を重ねていった」という情報は、正確ではない

(一度目の自殺決行は、11月16日未明の奈良のホテルでのことであり、首に掛けたロープが切れて失敗に終わったが、この時はテープへの吹き込みはしておらず、とすると、当初は死ぬ前に自分の心情をテープに吹き込もうという意図はなかったのかもしれない。いずれにしても、当記事中、テープからの引用部分については全て、「11月18日深夜~19日未明の自殺直前に吹き込まれたもの」としてご覧いただければと。)

 

 その他情報3:

事件が発生した1994年は、バブル崩壊による不景気の只中であり、同年の流行語は「同情するならカネをくれ」、事件としては「井の頭公園バラバラ殺人事件」「オウム真理教による松本サリン事件」「福徳銀行5億円強奪事件」「住友銀行名古屋支店長射殺事件」「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」「つくば母子殺人事件」、翌95年1月には「阪神・淡路大震災」、3月には「地下鉄サリン事件」「警察庁長官狙撃事件」、7月には「八王子スーパー強盗殺人事件」など、後世に語り継がれることになる有名な事件が立て続けに起きていた。

 

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 犯人である松田雅夫の誕生から、事件前年(1993年)までの流れ

 

1943年(昭和18年)12月、松田雅夫が長野県松本市に生まれた。父親は高校の国語教師、兄二人も中学の教師。(姉もいたが職業は不明。この姉は1994年の事件発生当時は都内に在住していた)

 

1962年(昭和37年)3月、地元の松本深志高校を卒業、同年4月に上智大学に入学するが、翌年(1963年)、改めて故郷・松本の国立信州大学教育学部音楽教育課程に入学し直した。

学生時代から熱狂的なクラシックファンで、アルバイトで資金を稼いでは、東京で開催される内外の演奏家のコンサートに毎月のように通い詰めていた。

のちに結婚し殺害することになる妻の敏子も、信大教育学部音楽教育課程の学生だった。(敏子の両親はともに小学校の教師)

二人は在学中から交際し、卒業後の結婚を約束していた。

 

1967年(昭和42年)、雅夫は信州大学を卒業し、大阪の音楽興行会社に就職、奈良市の公団住宅(中登美団地)に移り住んだ。

一方の敏子については、音楽教育課程の学生のほぼ全員が音楽教師の道を選択する中、敏子もまた、周囲から教師になることを強く勧められたものの、「教師になれば雅夫さんと一緒に生活できなくなる」としてこれを断念、松本市でピアノ講師をしていた。

ほどなくして二人は結婚、敏子も奈良市の公団住宅(中登美団地)に移り住んだ。

当時の雅夫の月給は3万円程度、敏子は奈良でもピアノ講師として働き、家計を助けた。

 

1969年(昭和44年)、雅夫はCBS・ソニーレコード(当時)に転職し、大阪営業所へ配属となった。

 

1971年(昭和46年)、雅夫は東京の本社勤務となり、夫婦は埼玉県春日部市の公営住宅に転居した。

 

同年11月3日、一人娘の望(のぞみ)が誕生した。

 

1983年(昭和58年)~1984年(昭和59年)、娘の望が小学6年生の時、一家は東京都葛飾区西新小岩にある、平井大橋のたもとに建つ14階建ての公団賃貸マンションに転居した。(最上階の3LDK)

 

1991年(平成3年)、雅夫はソニー・ミュージックエンタテイメントを退職し、クラシック専門の音楽ソフト制作会社を設立した。

JR御茶ノ水駅前のマンション2部屋を月24万円で借り上げて事務所とし、レンタル契約していた白のメルセデス・ベンツを乗り回す毎日だったが、時代はその後「失われた10年」と呼ばれる景気低迷期の入り口であり、規模の小さい日本のクラシック音楽市場では大きなビジネスができるはずもなく、すぐに運転資金にも事欠くようになり借金を重ねた。

 

1993年(平成5年)8月、雅夫は「運転資金」と称して敏子の親族から内密に200万円を借りた。半月後に全額返済したが、その際、20万円を利息として差し出した。敏子の親族は、この半月20万の利息については受け取りを拒んだが、雅夫は「俺の気持ちが済まない」と引かず、結局、「子供たちの小遣いに」として5万円を渡した。その後、借金の事実を知った敏子は、「夫婦なんですから、これからは何でも相談してください」と雅夫に強く迫ったという。