ヒンターカイフェック殺人事件・その7(1849年~1921年5月) | 雑感

雑感

たまに更新。ご覧いただきありがとうございます。(ごく稀にピグとも申請をいただくことがあるのですが、当方ピグはしておりません。申請お受けできず本当にすみません)

ヒンターカイフェック殺人

(ヒンターカイフェック農場の建物模型)

 

※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います※※

 

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以下、ヒンターカイフェック殺人事件に関連する人物や出来事について、遺体発見までの流れを年表風にまとめてみます。これまで触れていなかった部分もこの年表の中に盛り込みますが、過去記事との重複も多いです。

 

自分的には、これで間違いない(だろう)と思われる部分を書いているつもりなのですが、絶対に間違いないかというと、そこまでの自信はありません。細部について疑義がある、あるいはより深く知りたいという場合は、独自にお調べになることをお勧めします。

 

誤字脱字の訂正、内容の追加、些細な変更については、とくに断りなしでさせていただきますが、追加あるいは変更することによって該当部分の意味合いが大きく変わってくるという場合は、追加変更にあたって、なにかしらの説明文を付させていただきます。

 

(遺体発見以降の、捜査の部分は、年表をアップし終わったあとで書く予定です。)

 

ピンク文字=ヒンターカイフェック関連の出来事。水色文字=ヒンターカイフェックとは無関係ながら、時代背景の目安となるような歴史的出来事。

 

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1848年2月、マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を発表

 

1849年11月27日、ツェツィーリア・ザンヒューターが、ゲーロルスバッハで生まれた。

(のちにアンドレアス・グルーバーの妻となる人物で、ヒンターカイフェック殺人事件の被害者の一人。ゲーロルスバッハは、ヴァイトホーフェンから10kmほど南に下ったところにある田舎町)

 

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリーの黒船が浦賀に来航

 

1858年11月9日、アンドレアス・グルーバーが、グラインシュテッテンで生まれた。

(のちにヒンターカイフェック農場の農場主となる人物で、ヒンターカイフェック殺人事件の被害者の一人。グラインシュテッテンは、ヴァイトホーフェンから11kmほど南東に下ったところにある田舎町)

 

1868年1月~1869年6月(慶応4年1月~明治2年5月)、戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い~箱館戦争)

 

1874年8月16日、ローレンツ・シュリッテンバウアーが、グレーベルンで生まれた。

(グレーベルンの住人で、一時期ヴィクトリアと恋仲にあり、ヒンターカイフェック殺人事件では容疑者として取り調べを受けた人物の一人)

 

1877年(明治10年)2月~9月、西南戦争(明治政府軍vs西郷軍)

 

1877年5月14日、ツェツィーリア・ザンヒューターが、最初の結婚をした。

相手の男性は3歳年下で、この男性の父親は1865年2月に建物などもまだ真新しかったヒンターカイフェック農場を前所有者から購入して営んでいたが、自分の息子とツェツィーリアが結婚するにあたって、農場の権利を息子夫婦に譲り渡した。(そのことを約した相続と結婚に関する取り決めは、結婚の20日前---1877年4月24日に結ばれている)

この結婚により、ツェツィーリアは夫とともに、ヒンターカイフェック農場の共同所有者となった。

 

1877年10月1日、マリア・バウムガルトナーが、キューバッハで生まれた。

(のちに殺害されるグルーバー家のメイド。マリアについては、以下のURLにて)

https://ameblo.jp/maeba28/page-3.html

 

1885年5月21日、ツェツィーリアの夫が、肺炎で亡くなった。

(結婚から約8年後。この間、夫婦の間には、夭折した子も含めて4人の子供が生まれていた)

 

1885年12月28日、ツェツィーリアとヒンターカイフェック農場の使用人であったアンドレアス・グルーバーは、シュローベンハウゼンの公証人のもとで、結婚と相続に関しての取り決めを行った。

(この取り決めにより、ヒンターカイフェック農場はツェツィーリアとアンドレアスの共同所有となった)

 

1886年4月14日、ツェツィーリアとアンドレアスの結婚式が、ヴァイトホーフェンの教会で執り行われた。

 

1887年2月6日、ヴィクトリア・グルーバーが、グレーベルンで生まれた。

(グルーバー夫妻の最初の子供で、のちのヴィクトリア・ガブリエル。ヒンターカイフェック殺人事件の被害者の一人。ヴィクトリアにはのちに二人の妹が生まれているが、一人は1年9か月ほどで、一人は誕生直後に死亡している。)

 

1888年12月16日、カール・ガブリエルが、ラークで生まれた。

(のちにヴィクトリアの夫になる人物。ラークはヒンターカイフェック農場から南東に約1kmほどのところにある小集落。ガブリエル家の家業は農業。カールは男ばかり6人兄弟の長男だった。ヒンターカイフェックのあったグレーベルンもカールの実家であるラークもヴァイトホーフェンの小学校の学区なので、年の近いヴィクトリアとカールは、幼いころから顔見知りではなかったかと思われる。)

 

1894年(明治27年)7月~1895年(明治28年)11月、日清戦争

 

1897年4月25日、クレスツェンツ・リーガーが、オーバーハウゼンで生まれた。

(ヒンターカイフェック殺人事件の約7か月前までグルーバー家でメイドをしていた女性。オーバーハウゼンは、ヒンターカイフェックの南西約40kmのところに位置する町で、1911年にアウクスブルクに合併され、以降はアウクスブルクの一地区となっている。)

 

1899年1月17日、ローレンツ・シュリッテンバウアー(当時25)が、最初の結婚をした。相手はシュローベンハウゼンの東側にあるリートという集落出身の5歳年上の女性。結婚と同時に、父親からグレーベルンの農場の権利を引き継ぎ、農場主となった。

(シュリッテンバウアーの家はグルーバー家から約500mの位置にあり、両家が営む農場は地境を接していた。シュリッテンバウアーの父親は酒で何かと失敗した人物であったらしく、シュリッテンバウアーは農場の引継ぎとともに、かなりの額の借金も引き継ぐことになった。)

 

1903年、ヴィクトリア・グルーバー(のちのヴィクトリア・ガブリエル)は16歳になったが、「父親のアンドレアスから性的虐待を受けた」とシュリッテンバウアーの妻に打ち明けたという。(事件後になされたシュリッテンバウアーによる証言)

 

1904年(明治37年)2月~1905年(明治38年)9月、日露戦争

 

1914年3月11日、ヴィクトリアとラークの青年カール・ガブリエル(当時25)との結婚に備えて、結婚と相続に関する事前の取り決めがなされ、これにより、ヒンターカイフェック農場の権利は、グルーバー夫妻からヴィクトリアとカールに移転した。

 

1914年4月3日、ヴィクトリアとカールの結婚式が、ヴァイトホーフェンの教会で執り行われた。新郎新婦はグレーベルンのヒンターカイフェック農場でグルーバー夫妻と同居の生活を始めたが、カールと義理の両親との折り合いはよくなかったという。

 

1914年4月後半~5月、ヴィクトリアの夫カールが、ラークの実家に一時里帰りした。里帰りした理由は不明ながら、村人の中には、ヴィクトリアとその父アンドレアスとの肉体関係に気付いたからではないかと噂する者もいた。

 

1914年(大正3年)7月、第一次世界大戦勃発。

同年8月、ヴィクトリアの夫カールは、予備歩兵として軍役に就いた。

ローレンツ・シュリッテンバウアーも、国家総動員令が下された結果、9月に予備歩兵として軍役に就いた。(やや詳し目なところは「その4」で)
https://ameblo.jp/maeba28/entry-12411710804.html

 

1914年12月12日、ヴィクトリアの夫カールが、フランス北部アラス近郊のヌーヴィルサンヴァで塹壕戦の中で戦死した。享年25歳。死因は、擲弾によったとも地雷によったともいわれ、判然としない。26歳の誕生日(12月16日)を目前にしての戦死だった。

遺体は、カールの旧友2人を含む軍の同僚たちによって明確にカール本人であることが確認され、塹壕の近くに埋められた。

(現在は、社団法人ドイツ戦争墓地維持国民同盟によってフランス北部アラス近郊のサンローランブランジーにあるドイツ軍人墓地に埋葬されている。ただしカールは、「同墓地にあるプレートに多数名前の彫られた中の一人」なので、遺体の確認はできなかったものと思われる。)

 

ヒンターカイフェック殺人

ヒンターカイフェック殺人

(1枚目の画像は、サンローランブランジーのドイツ軍人墓地にある銘板に刻まれたカールの名前。この画像は、同じ一枚の銘板の別々の部分で、ガブリエルの部分が銘板の右端、カール以降の部分が---先のガブリエルの部分から一段下がって---銘板の左端。「ガブリエル・カール、補助予備役、戦死(十字架マーク)1914年12月12日」の文字が見て取れる。軍内でのカールの役種「エアザッツレザヴィスト」とはドイツ軍特有のものらしく、しいて訳語をあてるとすると「補助予備役」---「予備の予備」程度の意味合い---かと思ったので、その訳語をあてた。2枚目の画像はカールの銘板ではないが、要するに同墓地では、遺体が確認できなかった多くの兵士たちについて、こういった形で名前と役種・兵科・戦死日が刻まれ葬られているという一例)

 

1915年1月9日、ヴィクトリアは、長女ツェツィーリアを産んだ。

(ツェツィーリア・ガブリエル=のちに7歳でヒンターカイフェック殺人事件の被害者の一人となった)

アンドレアス・グルーバーが、ツェツィーリアの法定後見人となった。

 

1915年5月?日、ヴィクトリアは、父アンドレアスとの性交渉の現場を当時のメイドに目撃された。メイドはことの次第を当局に通報し、グルーバー父娘は、近親相姦の罪で逮捕・起訴された。

 

1915年5月28日(22日との情報も)、ノイブルクの地裁で、アンドレアスとヴィクトリアの近親相姦行為(性倫理規範違反)への判決が言い渡され、アンドレアスは1年、ヴィクトリアは1か月の実刑を言い渡された。

(理由は不明ながら、この時の訴追と判決は、1907年から1910年の期間に行われた両名の近親相姦行為に対してのものとなっている。捜査の結果、その期間の近親相姦行為について第三者による動かしがたい目撃証言が複数集まった、ということかもしれないが、真相は不明。また、二人の収監は翌1916年1~2月から開始されている。)

 

1915年8月25日、シュリッテンバウアーが、「軍役に適さず」として除隊となった。軍役に就いて以来、右手中指が関節炎になる、腹が痛い、頭痛がする、胃腸炎になるなど、体の不調が続いた末の、健康上の理由による除隊だった。

 

1915年9月ごろ?~1916年ごろ、事件後のシュリッテンバウアーの証言によると、この時期、ヴィクトリアは、シュリッテンバウアーと親密な仲になろうと試みたようであった。

(シュリッテンバウアーによると、妻子ある身としてはヴィクトリアの積極的なアプローチをいなしていたというが---シュリッテンバウアーの妻は1918年7月に癌で亡くなった---「妻の闘病中もシュリッテンバウアーはヴィクトリアと男女の関係にあった」とする村人の証言もある。)

 

1915年(大正4年)12月、北海道苫前で、三毛別ヒグマ事件発生

 

1916年1月10日、ヴィクトリアが、ノイブルクの刑務所に収監された。

 

1916年2月3日、アンドレアスが、シュトラウビングの刑務所に収監された。

(シュトラウビングは、ヒンターカイフェックの東方約100kmのところにある町)

 

1916年2月10日、ヴィクトリアが、ノイブルクの刑務所から出所した。

 

1917年2月3日、アンドレアスが、シュトラウビングの刑務所から出所した。

 

1918年の復活祭のころ(3~4月ごろ)、ヴィクトリアが、夫カールの最期について詳細を尋ねるべく、カールの遺体を確認した兵士に会いに、ヒンターカイフェックの南約2.5kmの地点にあるラッヘルスバッハという町に赴いた。

この兵士はカールの旧友であり、開戦以来初めての休暇を取ってラッヘルスバッハに帰郷中だったが、この時は、すでにヴィクトリアが知っている以上の情報を提供することはできなかったという。

 

1918年7月14日、シュリッテンバウアーの最初の妻が死去。(癌を患っていた) 亡くなるまでに、夫ローレンツとの間に4人の子供を残した(男子1、女子3)。

 

1918年8月~12月ごろ、シュリッテンバウアー本人の証言によると、この期間、ヴィクトリアと5回ほど性交渉を持った。

 

1918年11月、第1次世界大戦が休戦となった(事実上の終戦)。

同月、ドイツ革命により、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世が退位、帝国内のバイエルン王国でも国王ルートヴィヒ3世が退位し、バイエルン王国が崩壊した。

 

1918年12月ごろ~1919年?月、ヴィクトリアがシュリッテンバウアーに対して、「自分たちが結婚を望んでいるということを父(アンドレアス)に話してほしい」と依頼した。

シュリッテンバウアーはこれに応じ、アンドレアスのもとを訪れ、ヴィクトリアとの結婚を望んでいるということ、そして、(シュリッテンバウアーによれば)ヴィクトリアに性的に手出しするのをやめてほしいということをアンドレアスに話した。アンドレアスはこの時、二人の結婚については承諾し、性的に手出し~~の件については明確な返答を避けたという。

このあと、シュリッテンバウアーがヴィクトリアに会ったとき、彼女から、妊娠していること、子の父親はシュリッテンバウアーであること、また、アンドレアスはもう二人の結婚を認める気はない、ということを告げられた。

シュリッテンバウアーは、「おなかの子の父は、アンドレアスではないか?」と抗議し、真意をただすべくアンドレアスのもとを訪れた。

「子の父親はシュリッテンバウアーで間違いない」と迫るアンドレアスに対して、シュリッテンバウアーは、子の父親はアンドレアスであり、このことを当局に訴えるといったが、アンドレアスは態度を変えず、しまいには、アンドレアスが鎌を振り上げシュリッテンバウアーを追い掛け回す事態に発展し、ここから、シュリッテンバウアーとグルーバー家との一連の紛争が始まった。

このあたり、やや詳しめには「その4」にて。

https://ameblo.jp/maeba28/page-3.html

 

1919年2月~、ドイツはヴァイマル共和制となった。

 

1919年6月、ドイツは連合国とヴェルサイユ条約を調印。ドイツは領土の約13%を失い、天文学的な金額の賠償金を請求されることになった。4年後には、パン1個1兆マルクのハイパーインフレに。

 

1919年8月、一人の男性が兄嫁とともに、買い出しのためホーエンヴァルトにやって来た。

二人は近場のグレーベルンにあるヒンターカイフェックも訪れ、そこで500グラムほどラードを購入したが(価格は15マルク)、その際、対応に出たおなかの大きな女性を相手に、長々と話し込んだ。

この妊娠中の女性がヴィクトリアだった。

ヴィクトリアは二人に、「夫はすでに戦死した」ということ、また、「おなかの子の父はグレーベルンの農夫で、名はシュリッテンバウアーという」といったことなどを話した。

ただ、買い物客はこの時購入したラードについて、15マルクにしては質が良くないと感じたという。

その約2週間後のこと、先の買い物客の男性が再びホーエンヴァルトを訪れた際、ヴィクトリアが「おなかの子の父」と称していたグレーベルンの農夫・シュリッテンバウアーと出会った。

そこで男性がシュリッテンバウアーに対してヴィクトリアが言っていたことを話し、

「でも、おたくの彼女、私に良くないラードを売りつけたよ。ちゃんと教育しといたほうがいいんじゃないの?」

と言ったところ、シュリッテンバウアーはにわかに興奮した様子で、

「あの汚らしいメス豚、一体なんだって俺が妊娠させたなどと言うんだ? どうせまたあいつのオヤジが孕ませたに決まっているんだ、あいつらは近親相姦なんだから。あいつらとは縁を切ったらいい。ラードならうちで売ってやるよ!」

と口汚く罵ったという。

 

1919年9月7日、ヴィクトリアは、長男ヨーゼフを産んだ。

(ヨーゼフ・ガブリエル=のちに2歳でヒンターカイフェック殺人事件の被害者の一人となった)

 

1919年9月10日、シュリッテンバウアーは、「ヴィクトリアの子ヨーゼフの父親はその祖父アンドレアスであり、アンドレアスは娘ヴィクトリアとの間で近親相姦行為を行っている」として、ホーエンヴァルトの警察に訴え出た。

ある村人の証言によると、警察に訴え出るにあたって、シュリッテンバウアーは、「ヴィクトリア本人が、ヨーゼフの父親はアンドレアスであることを明かしたのだから」とまで言っていたという。

しかし、農繁期でもあったことから、村人は「いまアンドレアスが収監されるのは、気の毒ではないか」と考え、シュリッテンバウアーに自重を促してみたが、シュリッテンバウアーは聞き入れず、警察に訴えて出たのだという。

 

1919年9月13日、アンドレアスは、警察に身柄を拘束された。

(ヴィクトリアについては、身柄の拘束はなかった。理由は、子供を産んだばかりだったからではないか、と推測されている。)

 

1919年9月25日、シュリッテンバウアーは、9月10日に自身がなしていたグルーバー父娘の近親相姦についての訴えを取り下げた。取り下げるにあたって、罰金を支払っている。

(のちのシュリッテンバウアーの供述によると、警察に訴えを起こした後で、ヴィクトリアがシュリッテンバウアーのもとを訪れ、まだ結婚できる可能性は残されているということ、認知して即ヨーゼフの後見人としての地位をアンドレアスに譲り渡してもらえればいいのであり、それらの行為に付随して発生する金銭の支払い義務については、必要な額をすべてグルーバー側が用立てるのでシュリッテンバウアーは一銭も支払う必要はないということ、父を助けてほしいということなどを、現金2000マルクに3000マルク相当の有価証券を差し出し、さらに加えて「シュリッテンバウアーは一銭も払わなくてよい」旨の一筆を差し入れたうえで、泣きじゃくりながら頼んだのだので、ヴィクトリアの願いを聞き入れたのだという。)

 

1919年9月27日、アンドレアスが釈放された。

(身柄拘束についての補償金は支払われていない)

 

1919年9月30日、シュリッテンバウアーは、シュローベンハウゼンの地裁において、ヨーゼフについて正式に認知の手続きを行い、一方で、アンドレアスがヨーゼフの法定後見人となった。

シュリッテンバウアーが、ヨーゼフの養育費(一時金)として、グルーバー家に1800マルクを支払うことが合意され、裁判所もこの合意を承認した。

シュリッテンバウアーによると、この1800マルクは、先にヴィクトリアが彼に渡していた現金2000マルクから支払い、余った現金200マルクについては、ほどなくして自主的にグルーバー家に返還したとのことだった。

 

1919年10月8日、シュリッテンバウアーは再び、アンドレアスとヴィクトリアとの間に近親相姦行為があるとして、警察に訴え出た。前に一度罰金を払って訴えを取り下げていたこともあり、警察は当初、この訴えを相手にしなかった。

 

1919年10月23日、シュリッテンバウアーは、シュローベンハウゼンの地裁において宣誓の上、「去る9月10日に申し立てた、アンドレアスとヴィクトリアとの間に近親相姦の事実があるという訴えは、いまだに真実である」と証言した。

 

1919年12月31日、検察官がノイブルクの地裁に対して、アンドレアスとヴィクトリアを近親相姦の罪で起訴した。

 

1920年?月、アンドレアスとヴィクトリアは、近親相姦の疑いにつき、証拠不十分で無罪となった。

(判決の言い渡しは「5月」とするものがあるが、多くの情報は、判決が言い渡された月について明らかではないとしている)

 

1920年11月初旬、オーバーハウゼン出身のクレスツェンツ・リーガー(当時23)が、ヒンターカイフェック農場でメイドとして働き始めた。

クレスツェンツは9歳の時に母親を亡くして里子に出され、13歳からは、里親の親族で婦人服の縫製を業としていた女性のもとで見習いをしていたが、

2年後に師匠としていたその女性が死去して以降は---誰かのもとに弟子入りするにもそのための費用が必要だったらしく、しかしながらその費用の支払いを請け負ってくれる人がいなかったため---やむなくアパレルの道を断念し、農家のメイドとして働いてきたのだった。

クレスツェンツにヒンターカイフェックでの仕事を紹介したのは、シュローベンハウゼンで仕事の仲介をしていた女性だった。この仲介人の女性は、のちに殺人事件の被害者となるマリア・バウムガルトナーに同農場でのメイドの仕事を紹介した女性と同一人物だった。また、クレスツェンツは未婚だったが、当時すでに妊娠中だった。

クレスツェンツがヒンターカイフェックで働き始めてすぐに、当時ジャガイモの収穫や脱穀作業などのために同農場で雇われヴァイトホーフェンから通ってきていたビヒラーという男(当時29)が、夜中にメイド部屋の窓越しに誘いをかける等、夜這いのようなことをしてきた。

 

ヒンターカイフェック殺人

ヒンターカイフェック殺人

 

クレスツェンツによると、「何度か窓越しに誘われたが、一度も部屋に入れたことはない」とのことだったが、一方のビヒラー(夜這い男)によると、「何度か窓越しに誘いをかけたのは事実であり、一度だけ部屋に入れてもらったが、シュローベンハウゼンの居酒屋でクレスツェンツが他の男と一緒にいるのを見て、関係を断った」のだという。どちらの言い分が本当なのか、またビヒラーの言い分からも、肉体関係にまで至っていたのかは不明。

また、ヒンターカイフェックにはすぐに噛み付く番犬(スピッツ)がいたが---多くの証言者がこの犬について、「とにかくよく吠える犬だった」としている---クレスツェンツによると、この犬がビヒラーに対しては一切吠え掛かったりはしなかったのだという。一方でビヒラーは、「犬が自分に対してだけは大人しかったなどという事実はない」としている。

クレスツェンツは、ビヒラーから求愛されていることをグルーバー夫妻やヴィクトリアにも伝えたが、彼らはビヒラーについて、「彼は手癖が悪い(盗癖がある)から、止めておきなさい」と言ったという。

このことはビヒラーの耳にも入ったようで---クレスツェンツ自身が夜中の窓越しにしゃべってしまったのではないかと想像するが---クレスツェンツによると、このことを恨んだビヒラーは、「クレスツェンツとのことを邪魔立てするグルーバーの奴らはけしからん」「ヒンターカイフェックの奴らは全員、死に値する」「クレスツェンツを殺してやりたい」などと周囲の者に発言し、そのことがまた、ヴァイトホーフェンの教会関係者やグレーベルンの住民を通じて、ヴィクトリアやクレスツェンツの耳にも入っていたという。

またクレスツェンツによると、ビヒラーは、「グルーバーは金をたんまり持っている」と言い、またヒンターカイフェックで出される食事に度々ケチをつけながら、クレスツェンツに、「こんなところ、さっさと辞めてしまえ」などと言っていたという。

一方のビヒラーは、警察の聴取に対して、先のような脅迫めいた発言はしていないと供述しており、どちらの言い分が本当なのかは判然としない。

いずれにしてもクレスツェンツによると、彼女がヒンターカイフェックでの事件を知ったとき、真っ先に思ったのは、このビヒラー(と、その10歳年下のこれまた盗癖のある弟と、彼らとは別の、クレスツェンツがヒンターカイフェックでメイドとして働き始める直前に同農場で盗みを働いたとされているかつての使用人の一人、つまり計3人)が、事件に絡んでいるのではないかということだったという。 

 

1921年3月26日、メイドのクレスツェンツ・リーガーが、ヒンターカイフェックで女の子を産んだ。(非嫡出子。3月27日生まれという情報もあるが、26日が正解かと思ったので、こちらの日付で。)

お産に立ち会い、赤ちゃんをその手で取り上げたのはヴィクトリアだった。この子は、1921年夏に里子に出された。

子の父親は、クレスツェンツより10歳年上の工場労働者で、クレスツェンツはこの男性が第1次世界大戦前にエーデルスハウゼンという集落---ヒンターカイフェックの北西約3.5km---の某男爵家のもとで使用人として働いていたときに知り合い、恋仲になったのだという。

ところが1914年夏、第1次世界大戦勃発により、この男性も招集を受け、歩兵として西部戦線を転戦する中で、1916年8月にソンムの戦いにおいて左ひざを榴散弾(りゅうさんだん)---細かい弾丸が飛散するタイプの爆弾---で負傷し、1917年9月に退役したのだった。男性は1921年5月にミュンヘンで左ひざの手術を受けたが、術後の経過が悪く、同月に死亡した。

クレスツェンツによると、出産後も、先のビヒラー(夜這い男)がメイド部屋の窓越しに誘いをかける等してきたが、「相手にしなかった。ヒンターカイフェックにいた期間は、誰とも性交渉を持っていない」とのことだった。

 

1921年春ごろ、メイドのクレスツェンツ・リーガーが、夜の7時から8時ごろに、水樽への水の補給を手伝おうと納屋に入ったところ、藁の上で性交渉中のアンドレアスとヴィクトリアを目撃した。

ヴィクトリアはクレスツェンツに見られたことに気づいたらしく、あとで、「あなたが納屋に来るのがわかっていたら、父に体を許すようなことはしなかったのに」と言ったという。

(この言葉は、「あなたという助けが来るのがわかっていたら、私は徹底的に父に抵抗していただろう=抵抗したかったが、誰も助けが来ないと思ったから父に屈してしまった」という、申し開き的な意味があったのだろうか?)

また、クレスツェンツによると、先の出来事の後、日時は不明ながら、鳩小屋の修理中、アンドレアスがヴィクトリアに対して、「結婚なんてする必要ないよ。私が生きている限り、"それ"のためには、この私がいるのだから」と言うのを聞いた。クレスツェンツは、"それ"とは性的な満足の意味であろうと思ったという。

 

1921年5月7日、ローレンツ・シュリッテンバウアーが、28歳の女性と再婚した。

相手の女性は、グレーベルンの南方約4.5kmのところにある「ディーポルツホーフェン」という集落の出身で、シュリッテンバウアーと知り合った当時は、グレーベルンの北方約4kmのところにある「ブルネン」という集落で働いていた。

女性はすでに4人の出産経験があったが(いずれも非嫡出子)、うち3人は幼い時に死亡しており、生き残った8歳の男の子一人を連れてのシュリッテンバウアーとの結婚だった。

知り合って3週間での結婚であり、恋愛結婚ではなく、お互いの状況を鑑み、利害が一致したという形での結婚だったであろうと言われている。

のちに夫婦の間には5人の子供が生まれた。4人は長生きしたが、うち一人は、生まれて約1か月で死亡しており(1922年3月26日、死因は百日咳)、この子が埋葬されたのは、ヒンターカイフェック殺人事件が起きる1日前のことだった。(埋葬日=1922年3月30日)

シュリッテンバウアーはこの年に、父の代から背負ってきた借金をようやく完済した。よく働き、手堅く蓄財も行ってきたので、経済面では豊かであったという。