ヒンターカイフェック殺人事件・その6(遺体の傷の状況その他) | 雑感

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ヒンターカイフェック殺人事件

(ヴィクトリアと子供たちの寝室。乳母車の中では、2歳ヨーゼフの遺体が発見された)

 

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 遺体発見時の状況

 

 遺体発見日時と、第一発見者について

 

6遺体とも、発見されたのは、1922年4月4日(火)の午後5時ごろ(1922年=大正11年)

 

第一発見者は5人、内訳は、ローレンツ・シュリッテンバウアー(47歳)、そのご近所の男性2人(56歳と30歳)、シュリッテンバウアーの息子2人(16歳と9歳)

 

息子2人のうち9歳のほうは、1921年にシュリッテンバウアーが再婚した時の相手女性の連れ子。

上記5人の年齢は、いずれも遺体発見当時。

 

唯一鍵の掛かってなかった納屋の西側ドアから屋内に進入し、遺体を発見。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

 

第一発見者としてシュリッテンバウアーの息子たち2人を含めているが、この少年ら2人は、納屋の飼料置き場で発見された4遺体については発見に立ち会っているが---各遺体の発見場所については後述---母屋で発見された2遺体(2歳のヨーゼフとメイドのマリア)については、発見に立ち会っていない。

 

(納屋の飼料置き場で4遺体が発見されたとき、シュリッテンバウアーだけが、「俺の息子(2歳ヨーゼフ)はどこだ?」と言いながら、飼料置き場から、畜舎→母屋というルートで建物内を進んでいったが、他の4人は---要はビビッてしまったと思われる---納屋での4遺体発見直後に、いったん納屋から屋外に出ている。

屋外に出たメンツの中で、ご近所の男性2人だけが、再度、母屋の正面玄関から母屋に入り---これはシュリッテンバウアーが正面玄関の内側からカギを開けて男性2人を中に導き入れたもの---内部でメイドのマリアや2歳ヨーゼフの遺体を発見した。

少年ら2人は屋外にとどまっていたため、マリアやヨーゼフの遺体発見には立ち会っていない。)

 

 遺体発見場所

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(上が屋内見取り図。赤×の場所で遺体が発見された)

 

アンドレアス・グルーバー(当時63)と、その妻ツェツィーリア(当時72)、グルーバー夫妻の娘であるヴィクトリア・ガブリエル(当時35)と、その娘ツェツィーリア(当時7)は、納屋内の飼料置き場で発見された。

 

この4人の遺体は、飼料置き場から畜舎へと通じる小さなドアの手前に、まとめて遺棄されていた。

4人の殺害現場もそこであるとされている。

 

アンドレアス、72歳ツェツィーリア、ヴィクトリアの遺体は積み重ねられていた

重なった3遺体のうち、ヴィクトリアが一番下で、その上に72歳ツェツィーリア、一番上にアンドレアスの遺体があった。

ヴィクトリアと72歳ツェツィーリアの遺体は仰向け、アンドレアスの遺体はうつ伏せの状態。

 

重なった3遺体の上には、かなりの量の藁や(高さ50cmほどとされている)、古い戸板が被せられていた。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

ヒンターカイフェック殺人事件

(先の屋内見取り図の「飼料置き場」と書かれているあたりからカメラを構えて撮影した画像。遺体はモザイクをかけてあるが、ググれば修正なしのものがいくらでも出てくるので、そちらで確認していただければと。飼料置き場の遺体は、第一発見者らが発見した時には、1枚目のように重ねられ、藁や戸板が被せられている状況であったが、シュリッテンバウアーが---「被害者の生死の確認や、自分が認知した2歳ヨーゼフが埋もれていないかを確認する」という名目で---遺体を掘り起こして動かした結果、2枚目の画像のようになったという。1枚目の画像は、警察が第一発見者らへの聞き取りをもとに、発見当初の遺体の状況を再現したもの。いずれにしても、すでに全員首がないように見えるので、1、2枚目ともに、検死により首を切り落とした後での撮影ではないかと思われる)

 

3遺体のすぐ近く---3遺体とその西側にある畜舎の壁との間---に7歳ツェツィーリアの遺体があり、その上にも藁が被せられていた

 

畜舎へのドアに最も近い位置にあったのは、この7歳ツェツィーリアの遺体だった。(このことから、最後に殺害されたのは7歳ツェツィーリアではないか、と推測する向きもある)

 

4遺体の横にあった畜舎へと通じる小さなドアの表面には、多数の飛沫血痕が確認された。

 

ヴィクトリアの息子ヨーゼフ(当時2)は、ヴィクトリアと子供たちの寝室に置かれていた乳母車の中で発見された。

乳母車は、寝室のドアから2~3歩のところに置かれていた。

遺体には、母ヴィクトリアのものとみられる赤い服が被せられていた。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(手前にヨーゼフの乳母車。この位置からは見えないが、向かって左奥にもう少しスペースがある)

 

メイドのマリア・バウムガルトナー(当時44)は、台所横のメイド室で発見された。

遺体は、メイド室のベッド横の床の上で、格子模様の布を掛けられ、左わき腹を下にして横たわっていた。

メイド室に入った第一発見者らがまず目にしたのは、その格子模様の布からはみ出ている、編み上げ靴を履いたままの2本の足であった。

布をはいで顔を確認すると、第一発見者らにとっては見知らぬ女性だということがわかったという。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(左わき腹を下に横たわるマリアの遺体。奥に見える傘は、みぞれの降る中を差してきたものと思われる)

 

 各遺体の傷の状況その他

 

検死は、ノイブルクの地裁から派遣された医師により、グルーバー家の中庭に木材や戸板を用いて即席でしつらえた検死台の上で行われた。

 

遺体発見2日後の4月6日(木)に、72歳ツェツィーリア、ヴィクトリア、7歳ツェツィーリアの検死が行われ、翌4月7日(金)に、アンドレアス、2歳ヨーゼフ、メイドのマリアの検死が行われた。

 

伝えられているところの各人の傷の状況を挙げてみると、

 

アンドレアス・グルーバー(当時63)については、頭部を凶器で殴打されており、特に顔の右側が滅多打ちにされており、その部分の肉がグシャグシャになり、頬骨が露出していた。

遺体発見時の着衣は、シャツとズボン下。(就寝中に起きだしてきたか、就寝間際ではなかったかと推測された)

靴は履いていなかった。

 

アンドレアスの妻ツェツィーリア(当時72)は、頭部に7か所の打撃痕があり、頭蓋骨が砕かれていた。

打撃痕のうち、一つは三角の形をしていた。

右目の周辺に痣(あざ)があった。

首に絞められた形跡あり。

着衣は日中の普段着であった。

片方の足にスリッパをはいていた。

 

ヴィクトリア・ガブリエル(当時35)は、頭蓋骨と、顔の右側を砕かれていた。

頭部に星の形をした傷(★)が9か所あった。

頭頂部に、先の尖った凶器によるとみられる、鉛筆ぐらいの太さの丸い傷(●)が1か所あった。

母親のツェツィーリアと同様、首を絞められた形跡があった。

(首を絞められた形跡については、72歳ツェツィーリアとヴィクトリアの両方にあったとするものもあり、ヴィクトリアについてだけそれを言及するものもあり、判然としない)

着衣は日中の普段着であった。

靴を履いておらず、両足には靴下だけだった。

(72歳ツェツィーリアの遺体を見る限り、靴下はかなり長めのタイプのそれではないかと思われる。靴については、脱げた靴かスリッパが藁の中から見つかったのか、それとも見つからなかったのか、そのあたりについての情報は見当たらなかった。)

妊娠はしていなかった。

 

ツェツィーリア・ガブリエル(当時7)は、頭部~顔面部に打撃を受けており、下あごが砕けていた。

頭蓋骨が砕けていたとの情報があるが、一方で、検死に当たった医師を補佐した人物への調書によると、頭蓋骨に傷はなかったともある。(医師本人への調書は残っていない)

顎の下(頸動脈に近い部分)に、大きく口を開けた横広がりの傷があった。(裂開創)

顔の右側に、円形の傷があった。

鼻の右側あたりに打撃痕。

頭皮から髪の毛がむしり取られ、その髪の毛の束が右手に握られていた。

首には血の付いた手でなぞった跡があった。

着衣はキャミソールのみ、寝ていたところを起きだしてきたか、就寝間際ではなかったかと推測された。(また、遺体の位置が畜舎へのドアに最も近かったため、4人のうち最後に殺害されたのではないかと推測されている)

検死に当たった医師によると、ツェツィーリアは襲撃によっても即死はせず、抗拒不能に陥りながらも、苦悶の中で自らの髪の毛をむしる~出血して痛む首に手を伸ばすなどの動作をし、受傷から2~3時間後に出血性ショックで死亡したものと推定され、発見が早ければ助かった可能性がある、と結論付けられた。

 

ヨーゼフ・ガブリエル(当時2)は、つるはし様のものとみられる凶器により、右の側頭部を一撃され死亡していた。

その一撃は、まず乳母車の屋根を覆っていた布を直撃してそれを引き裂き、その勢いのまま、下の男児の頭部を直撃したものとみられた。

あまりにも強力な一撃だったとみられ、頭蓋骨が粉砕され、中の脳組織が乳母車の天井の布や傍のベッドにまで飛び散っていた。

 

マリア・バウムガルトナー(当時44)は、右の側頭部に数度の打撃を受けていた。

後頭部に、つるはし様の凶器によるとみられる深さ4cmの穴が開いていた。

着衣は、3月31日の午後4時~5時ごろにグルーバー家に到着した時のままだった。

到着時に履いていた編み上げ靴も履いたままだった。(この靴については、マリアの左右の足の長さの違いを補助するための補助靴というか矯正靴だった可能性があり、寝る直前に脱ぐものだったのではないか、と推測する向きもある。)

持参していた借り物のリュックサックは、まだ開けられていなかった。

遺体発見の翌日、妹のフランツィスカにより、人相、着衣、持ち物などから、マリア本人であることが確認された。

 

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6遺体について、第一発見者や、当局関係者(当時の捜査主任、地裁の判事、検死の補佐をした人物等)、警察が現場に来る前に、「一家殺害」の報を聞きつけ野次馬として現場に入り遺体を目にした近隣住民の証言から総じて言えることは、被害者らは、頭部あるいは顔面部を凶器で激しく殴打されていたということだった。

 

首から上を滅多打ち、あるいは、強烈な一撃を受けて、いずれの遺体も---生々しい表現ながら---文字通り血塗れで倒れていたということになる。

(捜査官や判事、検死を補佐した人物が、各遺体について、「顔面血塗れで倒れていた」「大きな血だまりの中に倒れていた」などと---血だまりは乾いていたものと思うが---表現している。)

 

特徴的なのは、殴打痕が頭部(顔面部)の右側に顕著なことだった。

 

一部の被害者らの頭部(顔面部)に、鉛筆程度の太さの丸い傷や、三角、星形の傷などがあり、また首に大きく口を開けた横広がりの傷が見られる遺体もあり、

 

これらは、単に重量のある硬い物体で殴打したというにしては説明のしにくい傷であり、様々な凶器が使われた可能性が指摘された。

 

初期の捜査では、畜舎内の餌を入れる長桶から、つるはしがみつかった。

 

そのつるはしの柄には赤茶色の小さなシミがあり、そのシミは乾いた血のようにも見え、血が当該つるはしの広範囲に付着していないのは家畜が舐めたものと考えられていたが、実験によってもこれが凶器だとは断定できず、捜査側は首をひねっている状況だった。

 

事件の約1年後に現場建物が取り壊された際、母屋の屋根裏の床下から大型のつるはし---鍬との中間のような形---が発見され、さらに、納屋からはナイフ、金属の輪などが発見された。

いずれも血が付着しており、これらが凶器として用いられたものと推定された。

 

一部の遺体に残されていた不可解な形の傷---円形や三角、星形の傷---は、このつるはしの柄の部分から突き出た金具(ボルトなど)が当たってできたものであろうと推測された

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(事件の前にヒンターカイフェックで雇い人として農作業をしたことがあったという人物によると、発見された血の付いたつるはしは、アンドレアスが自分で柄にヘッドの部分を取り付けた手製で、素人仕事だったために柄の形もいびつであり、ボルトなども柄から突き出てしまっていた。先の雇い人自身もこのつるはしで仕事をしたことがあり、よく覚えていたのだという)

 

 

検死終了後、その場で6人の首は切り落とされ、ミュンヘン大学の病理学研究室に送られ、標本処理を施された。

 

その後、検事の要請を受け、検死の補佐をした人物は、標本化された6人の頭部を携え、ニュルンベルクの霊媒のもとへと車を走らせた。なにかしらの超常的な知見が得られるかと期待してのことだったが、結果的にはこれといった成果はなかった。

 

1922年4月8日(土)、遺体は首のないまま棺に納められ、ヴァイトホーフェンにあるカトリック教会の墓地に埋葬された。洗礼や結婚式など、家族にまつわる様々な行事は、代々この教会で行われてきた。ヴィクトリアもこの教会の聖歌隊のリードシンガーだった。

 

6人の棺を乗せた車は---7歳のツェツィーリアが通っていたヴァイトホーフェンの小学校のそれであろう---全校生徒に伴われて教会に到着した。

 

参列者は、近隣~遠方から3000人を数えたという。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(7歳ツェツィーリアや2歳ヨーゼフの小さな棺も見える。画像左端はヨーゼフが使っていた乳母車)