(事件現場となった農場建物。向かって左の三角屋根が材木や道具置き場、中央の横向きの番号が振ってある部分について、1がグルーバー夫妻の寝室兼居間、2がグルーバー夫妻の娘であるヴィクトリア・ガブリエルとその子供たちの寝室、3が牛や豚がいる畜舎、向かって右の三角屋根の部分が納屋---少し見えにくいが屋根の部分に4という数字が振ってある---この納屋内も区画ごとにわりと細かく分かれている。このアングルからは見えないが、1の裏側---向こう側---にメイド室がある。殺害現場は、そのメイド室と、2の部屋、そして4という数字の直下あたりの場所)
※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います。※※
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■ 地理的なものについて
ヒンターカイフェック殺人事件は、
1922年3月31日(金)の夜から翌4月1日(土)未明にかけて、ドイツ・バイエルン州のグレーベルンという地区にある農場で起きた未解決の殺人事件。
(犠牲者は農場の一家5人とメイド1人の、合計6人)
事件現場となった場所を、現在のドイツの行政区画に基づいて少し詳しめに、そして日本風に表現すると、
「ドイツ国バイエルン州オーバーバイエルン県ノイブルク=シュローベンハウゼン郡ヴァイトホーフェン町グレーベルンのヒンターカイフェック農場」。
(ヒンターカイフェックとは地名ではなく、農場主個人が命名した農場の名前)
1922年の事件発生当時の行政区画に基づいて日本風に言うと、
「ドイツ国バイエルン州オーバーバイエルン県シュローベンハウゼン郡ヴァンゲン町グレーベルンのヒンターカイフェック農場」
ということになるかと。
(ヴァンゲンは現在はヴァイトホーフェンの一区画だが、当時はヴァイトホーフェンとは別の一区画をなしていた)
知っている人には何のことはないでしょうが、知らない人にはさっぱりではないかと思います。
自分はさっぱりでした。
そこで、とにかく視覚的に把握したいということで、以下、地図を見てみると、まず、だいたいドイツのこのあたりです。
(正確には、事件現場となった農場建物は、赤ピンの先から130mほど西の地点です)
ミュンヘンの中心市街地からだと、直線で北に約54kmの位置。
赤ピンの先あたりが、ヒンターカイフェック農場。
下の写真、赤ピンの右隣にヴァンゲンであるとか、その他、シュローベンハウゼン、ヴァイトホーフェン、ホーエンヴァルトとかの小さな町があります。
大体このあたりの地名と、位置関係を押さえておけば大丈夫ではないかと。
(ヴァイトホーフェンを囲んでいる水色の四角の中央から赤ピンの先までは、直線距離にして約2km。現在、農場があった場所はこのヴァイトホーフェンに属している)
農場あたりにぐっと寄った図が以下。
(赤で着色した部分が、ヒンターカイフェック農場の敷地。大雑把に、この範囲ということで)
事件現場となった農場建物は、赤ピンの先から東に約130mの地点、画像中、黄色〇あたりに位置していた。(農場建物は事件翌年1923年に取り壊されて、現在は存在していない)
右斜めに上に「グレーベルン」とありますが、ヒンターカイフェック農場(の建物)は一軒だけやや離れた場所にあったものの、このグレーベルン集落の中の一軒であった、ということになります。
(農場建物からグレーベルン集落内の最寄りの建物まで、当時は約500mほど離れていた)
そしてこのグレーベルン集落は、当時はヴァンゲンの一区画であり、現在はヴァイトホーフェンの一区画、ということになります。
バイエルン州のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E5%B7%9E
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■ 時代背景
約100年前のドイツの田舎の未解決事件なので、細かな部分のニュアンスをつかむ(つかんだような気になる)ためには、一家が生きていた時代の雰囲気に触れてみることも重要ではないかと。
以下、ウィキペディアからリンクと一部抜粋を紹介します。
1910年代
https://ja.wikipedia.org/wiki/1910%E5%B9%B4%E4%BB%A3
「1910年代初頭、優に全世界の4/5の地域が、ヨーロッパ列強諸国の占領下に置かれていた。
このような国際情勢下で、列強諸国は自国の覇権争いに躍起となっており、見た目の平和と裏腹に一触即発の国際情勢となっていた。
そのような中で、1914年6月、当時オーストリア占領下に置かれていたサラエヴォでオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されるテロ事件(サラエヴォ事件)が起き、これが契機となり、1914年7月、第1次世界大戦が勃発した。
ヨーロッパでの大規模戦争は普仏戦争以来実に40年振りであり、多くの若者が戦争を知らない世代であった。そのため、開戦当初は、『クリスマスまでには帰れる』と、多くの者が楽観的に戦争の早期終結を思い描いていた。
しかしながら、実際に戦局が展開されるようになると、従来の騎馬を用いた突撃戦ではなく、両陣営が塹壕を用いた消耗戦へと変貌を遂げ、戦局は長期化する事になる。
このような長期総力戦の中で両陣営が疲弊していく中、1917年4月、アメリカ合衆国が参戦を表明し、アメリカ史上初めて外国への軍事介入を行うこととなった。
アメリカ軍の圧倒的な物量戦により、それまで拮抗状態にあった西部戦線のパワーバランスは瓦解し、1918年11月、休戦協定により軍事行動は停止され、1919年6月、ヴェルサイユ条約締結により正式に第1次世界大戦の終結となった。
これ以降、ヴェルサイユ体制と呼ばれる新たな国際秩序が構築され、アメリカの大繁栄、国際社会における日本の躍進、極大な賠償義務を課せられたドイツの衰退とナチズムの台頭、そして第2次世界大戦の勃発へと繋がって行く事になり、20世紀はより混迷の度を増していく事になる。」
(画像は建造中の豪華客船タイタニック号。1909年3月に起工し、処女航海中だった1912年4月14日深夜に、氷山に衝突して沈没した。ヒンターカイフェック殺人事件の約10年前の出来事だった)
ヒンターカイフェック殺人事件の被害者の一人であるヴィクトリア・ガブリエル(事件当時35)の夫カール・ガブリエルは、1914年に第1次世界大戦に従軍し、同年12月にフランス北部ヌーヴィルサンヴァにおける塹壕戦の中で死亡した。
顔の損傷はそれほど激しくなかったので、同僚の兵士らがカールの死を確認したが、遺体のその後の消息は長らく不明のままだった。これがのちに、事件に関してある噂を生むことになった。
(※ 上の下線部分について、追加で説明をさせていただきます。警察の調べによると、「遺体はカールが戦死した場所の近くに、彼が所属していた部隊によって埋められた」というざっくりとした事実のみが軍の記録からは分かっていたが、具体的にどの場所に埋葬したのか、等の詳細については不明だった。カールの死に際しては、戦前からカールを知る二人の兵士もカールの遺体を確認しているが、そのうちの一人は、1950年代になされた警察の調べに対して、敵弾に晒される中でカールの遺体を少し埋め---仮埋葬のようなことをした---が、いつどこで正式に埋葬されたかは知らない、と証言している。しかし近年の調査により、カールは、彼が戦死したフランス北部のヌーヴィルサンヴァにほど近いサンローランブランジーの戦没者墓地に埋葬されていることが明らかになった。同戦没者墓地は、1920年代の前半に整備され始め、一つ一つの遺体の確認作業は、第2次世界大戦後も続いていた。遺体の確認ができた戦没者については、一人一人に墓碑が用意されたが、確認ができなかった戦没者については、銘板に集団で名前が彫られて墓碑とされた。カールは銘板に集団で名前のある一人なので、遺体の確認ができなかったのかと想像される。こういったことは、事件当時の人々には知る由もなく、人々は、カールは実は生きており、事件の際にはヒンターカイフェックに戻ってきていたのではないかと噂しあったという)
(100年前とは言え侮れない。テクノロジーは凄いことに。ヒンターカイフェック農場にも発動機を置いている部屋があったが、バイエルンの田舎の農家にも技術革新の波が押し寄せていたのは、こうした時代背景をみればうなづけるものがある)
第1次世界大戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
塹壕
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%B9%E5%A3%95
ヴェルダンの戦い
ソンムの戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
スペインかぜ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%8B%E3%81%9C
「スペインかぜは、1918年から1919年にかけて世界的に流行した、インフルエンザのパンデミック。
感染者5億人、死者5千万~1億人と、爆発的に流行した。
米国発であるにも関わらずスペインかぜと呼ぶのは、情報がスペイン発であったためである。
当時は第1次世界大戦中で、世界で情報が検閲されていた中でスペインは中立国であり、大戦とは無関係だった。一説によると、この大流行により多くの死者が出たため、第1次世界大戦終結が早まったといわれている。
スペインかぜは、記録にある限り、人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行(パンデミック)である。感染者は約5億人以上、死者は5千万人から1億人に及び、当時の世界人口は約18億人~20億人であると推定されているため、全人類の約3割近くがスペインかぜに感染したことになる。」
(スペインかぜの患者でごった返す、アメリカ軍の野戦病院)
ロシア革命
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E9%9D%A9%E5%91%BD
連合国によるドイツ封鎖
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%B0%81%E9%8E%96
「『ドイツ封鎖』または『ヨーロッパ封鎖』とは、第1次世界大戦および戦後の1914年から1919年の間、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコなどの中央同盟国への原材料や食料品の海上輸送を封鎖するため、連合国によって行われた海上封鎖作戦を指す言葉である。
1918年12月、ドイツの公衆衛生当局は、この封鎖を原因とする飢餓と疾病によって同年12月までに76万3千人のドイツ市民が死亡したと主張しており、1928年に行われたある学術調査では、封鎖による全体の死亡者は42万4千人という見積りを出している。」
第1次世界大戦中にドイツで発生した飢饉「カブラの冬」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%81%AE%E5%86%AC
「人々は配給などに頼りながらも、前述のKパン(戦時パン)を始め、各種の代替食の開発・食用や、庭や公園などを畑として耕す『クラインガルデン』の流行、お金持ちの間では密商と称される闇商人から秘かに買う(当時、まだ闇市が形成される状態ではなかった)などの対応を取った。
だが1916年にはジャガイモの大凶作があって配給が完全に滞り、ついにはパンやジャガイモに代わってルタバガ(カブラ)が主食になり、町ではカラスやスズメの肉が売られる有様になった。すなわち『カブラの冬』の到来である。
折しもスペイン風邪の流行がドイツでも襲い、飢えと病気によって多くの人々が死ぬことになる。
大戦終結後、ドイツの帝国保健庁は1915年から1918年までにドイツ全域で(兵士を除いて)76万2千人が餓死したとする統計を発表している。」
1920年代
https://ja.wikipedia.org/wiki/1920%E5%B9%B4%E4%BB%A3
狂騒の20年代(アメリカ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%82%E9%A8%92%E3%81%AE20%E5%B9%B4%E4%BB%A3
ヴァイマル共和制(ヒンターカイフェック殺人事件が起きた当時のドイツの政治体制)
ドイツのハイパーインフレ(パン1個1兆マルク)
上のリンク、「ドイツ」の頁を参照。
ヒンターカイフェック殺人事件が起きたのが、1922年3月31日夜~翌4月1日未明、したがって、被害者家族は、1923年1月ごろから始まったドイツのハイパーインフレ(パン1個1兆マルク)の世相は経験していないが、インフレ自体は、大戦中から戦時公債の乱発などによりじわりじわりと進行しつつあった。
NSDAP(えんえすでーあーぺー)
いわゆるナチス党。
党本部をミュンヘンに置き、ヒンターカイフェック殺人事件の前年1921年7月には、目下売り出し中のアドルフ・ヒトラーが党首の座に就き、バイエルン州で順調に党勢を拡大しつつあった。
ミュンヘン一揆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%83%98%E3%83%B3%E4%B8%80%E6%8F%86
ヒンターカイフェック殺人事件の翌年(1923年)の11月、ヒトラーは、首謀者の一人としてミュンヘン一揆をおこした。(一揆は失敗に終わり、ヒトラーは裁判にかけられて実刑に)
下の画像1枚目は、ミュンヘン中心部にあるマリエン広場を占拠する突撃隊(SA)。当時、ナチスはバイエルン州に党員3万人を擁していた。
画像2枚目は、一体どちらが裁かれているのか分からなくなるほど、堂々とし(過ぎ)た態度の一揆首謀者(被告人)たち。