徳島自衛官変死事件・その3 | 雑感

雑感

たまに更新。ご覧いただきありがとうございます。(ごく稀にピグとも申請をいただくことがあるのですが、当方ピグはしておりません。申請お受けできず本当にすみません)

徳島自衛官変死事件

(遺体のポケットから出てきた身分証明書をもとに、阿南署は、徳島県小松島市和田島町にある海上自衛隊小松島航空基地の警務分遣隊に、「Mという男性が自殺したのだが、広島県江田島基地の第1術科学校に勤務しているか?」との照会を行った。これをもとに、徳島・小松島の警務分遣隊が広島・江田島の警務分遣隊にMさんについての照会をかけたのが、12月27日の午前9時30分ごろだったという。司法解剖が終了したのは、この日の午後6時ごろのことだった)

 

※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います※※

 

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以下、「その1」「その2」の内容と重複する部分もありますが、遺体発見からの流れを記します。

 

妹さんの手記から要点だけを抜き出して簡潔に並べればいいのですが、この事件はなかなかその手法(要点の箇条書き)では肝心な部分が伝わりにくいものがあると感じたので、場面によっては、手記から丸ごと引用という形を取らせていただきます。

完全に時系列順ではなく、一部前後して読みにくいですが、その点ご了承いただければと。

 

 

 遺体発見以降の流れ

 

1999年12月27日(月)、午前2時30分ごろ、阿南市福井の新逆瀬橋の下の河川敷で、阿南署員が遺体を発見した。(橋の上からサーチライトを照らして発見)

のちの警察の説明によると、写真撮影のために辺りが明るくなるのをその場で1時間半ほど待ったという。(そこまで待っても真っ暗だったはずだが)

 

12月27日(月)、午前4時ごろ、県警の検視官や鑑識班、機動捜査隊が立ち会う中で、遺体が河川敷から橋の上まで運ばれた。

 

12月27日(月)、午前4時30分ごろ、遺体のポケットから身分証明書が出てきた。

同じころ、阿南署からMさんの川島町の実家に「至急、阿南署まで来てください」との連絡が入った。

家族が、「事故車両が放置されていた現場の近くで父が捜索しているはずなので、父が持っている携帯に連絡を入れてみてください」と応じたところ、警察から(そのとき現場近くの福井ダム公園で一人で捜索をしていた)Mさんの父親が持っていた携帯に連絡が入り、父親は現場に急行。

そこにはすでに大勢の警官が来ていたが、父親はその後、警官に付き添われて阿南署に行き、そこでMさんの遺体と対面した。

 

12月27日(月)、午前8時ごろ、父親からの連絡を受けた家族(母親、妹)が阿南署に到着した。

母親はこの時に遺体と対面した。

妹はこの時は心情的な理由から遺体を見ることができず、母親が遺体と対面している間に、警官から簡単な事情聴取を受けていた。妹は司法解剖が終了して遺体が帰宅したときに遺体と対面した。

また、地図での計測だと、川島町の実家から阿南署までは1時間半程度の道のりかと思われるので、母親と妹が父親から「すぐに阿南署に来い」との連絡を受けたのは、「署への到着時間=午前8時ごろ」から逆算すると、午前6時過ぎ~6時半ごろではなかったかと想像する。

同じく、母親が遺体と対面した午前8時ごろに、遺体を司法解剖に出すと知らされた。

 

12月27日(月)、午前8時30分ごろ、遺族が阿南署を出た。

 

12月27日(月)、午前9時ごろ、Mさんのクリスマスの日のデート相手であったY子さん(仮名)が、阿南署でこの件を担当している刑事課のA警部補(仮名)から、

「(Mさんの死因は)自殺やけど、あなたの責任じゃないから。早く忘れなさい」

と言われた

(のちに妹からの聞き取りに対して、Y子さんは、「それでも忘れられる訳はない」と話したという。)

 

12月27日(月)、時刻は不明ながら、阿南署から徳島県の海上自衛隊小松島航空基地の警務分遣隊に対して、「Mという男性が自殺したのだが、広島県の江田島第1術科学校に勤務しているか」との隊員照会と捜査依頼があった

(注:「警務」とあるが、「警務隊」「警務分遣隊」はあくまで自衛隊の組織であり、自衛隊内部で警察的な役割を担っている)

 

12月27日(月)、午前9時30分ごろ、徳島県の小松島警務分遣隊から、広島県の江田島基地の警務分遣隊に対して、「徳島県警阿南警察署から、Mが自殺したとの連絡が入った」との連絡と捜査依頼がなされた

(注:手記では小松島の「警務分隊」、江田島の「警務隊」となっているが、正しくは双方とも「警務分遣隊」ではないかと思う。手記が書かれた16年前とは組織の編成が変わったのだろうか? 以下、とりあえず江田島基地の「警務分遣隊」であることを前提に。)

これを受けて、江田島基地の警務分遣隊長は、Mさんが勤務していた第1術科学校の課長(Mさんの直属の上官ではない)に連絡を入れ、彼らは遺書のたぐいがないかを確認するために、Mさんの官舎の部屋に入った。

そこでMさんの私服のジャケットから結婚相談所の領収書(5千円)を発見した。

次に警務分遣隊がMさんの職場の同僚らに聞き込みをすると、Mさんが徳島に帰省したその日に、普段電話をかけない同僚に電話をかけていたことが分かった。

(ただし、「職場の同僚らに聞き込みがなされた」「徳島に帰省する日、普段電話を掛けない同僚に電話をかけていたことが分かった」という点は警務分遣隊長による説明であって、のちに妹が江田島基地に赴き、Mさんを知る人々に個別に聞き込みをした結果、

「警務分遣隊から聴取を受けたのは課長一人だけ」

「Mとは彼が徳島に帰省する前の日にも一緒にいたけど、自殺するそぶりなんかなかった。その僕も警務分遣隊からの聴取は受けていない」

「電話も珍しいことではなく、同じ職場なので普段から仕事の電話はよくあった。その日も、休みの日に仕事の話するなよ、なんて会話だった」

等の証言を得た。

妹は、「警務分遣隊がMさんの職場の同僚ら(つまり複数人)に聞き込みを行った」「普段電話を掛けない同僚に電話をしていた」等の警務分遣隊長の説明が、果たして事実であったのか疑問を抱いたという。)

 

12月27日(月)(時刻不明)、司法解剖が開始された。(担当したのは徳島大学医学部法医学教室)

 

12月27日(月)、午後1時30分ごろ(司法解剖が行われている途中)、Mさんの実家に電話があり、妹が出てみると広島県の海上自衛隊江田島第1術科学校(Mさんの勤務先)からだった。

相手はMさんの上官(直属ではない)で課長だったが、名前を名乗ったうえで、「この度はM君が自殺をなさったそうで・・・」と話を切り出した。

まだ司法解剖の最中なのに、突然電話してきてこの人は何を言っているのか?と妹は内心で驚いたが、訳を聞いてみると、相手は「警察のほうから、そういう連絡があったんです」と答えた。

 

12月27日(月)、午後3時ごろ、広島・江田島の警務分遣隊は、徳島・小松島の警務分遣隊に対して、
「Mさんの部屋から結婚相談所の領収書(5千円)が出てきたこと」

「普段電話を掛けない同僚に電話をかけていたこと」

この2点を報告した。

これをさらに小松島の警務分遣隊長が阿南警察署に伝えた。

その後(司法解剖の結果が出た後)、小松島の警務分遣隊長は阿南署を訪問し、そこで再び、「Mさんは自殺である」との説明を受けた。

そして「隊員が自殺により死亡」との報告が呉地方総監部になされ、そこからさらに、海上幕僚監部へと報告がなされた。

 

同じく、12月27日(月)、午後3時ごろ、Mさんの両親は司法解剖の終了に備え、遺体を引き取るために、Mさんの叔父夫婦に付き添われて徳島大学医学部に行った。

この時、大学の正面玄関まで私服警官が迎えに来ていた。

警官は紙袋に入ったMさんの遺留品を両親に返却しながら(司法解剖はまだ終わっていない時点)、

「解剖後に着せるので、下着と浴衣を買ってきてください。誠に申し上げにくいのですが、謝礼金として3万円いただくことになっています」

と伝えた。

両親は遺留品を受け取ると、3万円を警官に手渡した。

(のちの妹による調査によると---以下、手記から抜粋---「多くの自殺体は行政検視だけで、司法解剖はおろか行政解剖もしてもらえません。遺族がいくら医学的な死因を知りたいと頼んでも、解剖はあくまで公の利益でなくてはならないのです。司法解剖は、警察、検察、裁判所からの嘱託・命令で行われるので、費用は国の負担になります。解剖自体が捜査の一環なので、遺族は死体検案書の費用だけを支払います。<警察法37条、犯罪鑑識に要する経費> その費用は都道府県によって1500円から5000円ぐらいの幅がありますが、私たちが(阿南署の)警察官に請求され支払った3万円もの金額がかかることはありません。」)

 

12月27日(月)、午後6時ごろ、司法解剖が終了した。遺体は実家へと搬送された。(妹はこの時に実家で遺体となった兄と対面した)

 

12月27日(月)、通夜が執り行われた。

同日の午後11時ごろ、Mさんの実家に1術校から上官らが到着した。その中に、先の電話で「警察からM君は自殺であると聞いた」と言っていた上官もいたので、その間の事情を尋ねると、その上官は、

「(今日の)午前9時半ごろに、『Mが自殺した』という連絡が(江田島基地の警務分遣隊に)あり、警務(分遣)隊のほうから(Mの上官である私に対して)事情を聞きたいといわれまして、課員に連絡をしました」

と答えた。

 

12月28日(火)、葬儀が執り行われた。

 

12月29日(水)、遺族は阿南署に捜査状況を聞きに行った。

署内には3~4人の警官がおり、「担当者は年末休暇に入っている。呼び出すので待ってほしい」と言われた。

待っていると官舎から担当の警官(以下、A警部補)がジャージ姿で現れた。

A警部補は阿南署の刑事課の所属で、27日の午前8時過ぎに(母親が遺体と対面している間に)妹に簡単な事情聴取を行った警官だった。

A警部補は名乗ったうえで、

 

「Mさんは車両が放置されていた橋のところから手前に約8.2km離れた山中の路上で交通事故を起こしている。その事故現場に落ちていたバンパーとライトの破片が、Mさんの車のそれと一致した」

Mさんは事故を起こしたことで自暴自棄になり、そのまま自分で約8.2km運転し、たまたまそこにあった橋(新逆瀬橋)のわきに車を停め、橋の上から飛び降り自殺した

「橋の欄干の外側(の足を置ける9cmほどの狭いスペース)に、左右は不明だが内向き(つまり道路向き)の靴跡が一つ付いており、その靴跡がMさんの靴と一致した。このことから、Mさんは後ろ向きで飛び降りたことが推測できる」

「遺体は下の河川敷で、頭を橋のほうに向けて、仰向けに横たわっていた」

「放置されていたMさんの車から、飛び降りた地点までに、Mさんの足跡は発見されなかった」

「欄干から指紋は発見されなかった」

「車内にも本人の指紋しかなかった」

 

等の捜査結果を遺族に説明した。

(以下、手記から、上の説明がなされた後の部分をそのまま抜粋)

 

妹「事故現場を教えてください」

A「地図を用意しますから、ちょっと待ってください。(阿南署で預かっている)お兄さんの車まで案内します」

車は、阿南署の駐車場にポツンと置かれてありました。

4日前にきれいに洗った兄の車。

私は持ってきたカメラで、車体についた傷の一つ一つを撮っていきます。

そこには26日の夜、父と私、(福井派出所の)森下巡査(仮名)が確認した(運転席側の)屋根の傷もしっかりとありました。

車に乗り込み、兄の残した遺留品を箱に詰めました。

(中略)

運転席左横のボックスを開け、カセットテープを取り出していると、あるはずの物がないことに気が付きました。25日の朝、私が片付けて入れたはずの高速道路の領収書が全てないのです。

そしてチェーンスモーカーだった兄のたばこの箱もどこにもありません。

そういえば、警察から返された遺留品の中にもたばこはありませんでした。

そこに事故現場の地図を手にしたA警部補が近寄ってきます。

A「車ですけど、いろいろ大変でしょうし、こちらも初動捜査にミスがありましたんで。落ち着いたところで結構ですので、取りに来てください」

初動捜査にミスってなにがあったんだろう?

なんで靴と(欄干の外側に付いていたという)足跡が一致したと言いながら、左右が分からないの?

なんで当日車内を掃除した私の指紋は出てこなかったの?

A警部補の言っている言葉の一言一言が「なぜ?」という疑問を生んでいきます。

妹「高速の領収書がないんですけど」

A「高速ですか? ドアポケットに須磨で降りたのがありましたよね」

妹「はい、それはありました。だけど、25日の朝、私は兄の車を洗ってるんです。その時には高速の領収書がいっぱいあって、運転席の左にあるボックスに片付けたんです」

A「はぁ・・・なかったんですかぁ」

A警部補はそれっきり黙ってしまい、地図を渡された私たちは事故現場へと向かいました。

(中略)

 

徳島自衛官変死事件

(「事故現場」と「車両放置・遺体発見現場」の位置関係。この2点間の道路距離は約7kmだが、事故現場からのタイヤ痕を調べてみると裏道の農道へと続いており、その農道を経由して国道55号線に出るルートをとれば、「車両放置・遺体発見現場」までは「8.2km」の道路距離となるという。)

 

 

徳島自衛官変死事件

(1枚目の画像の黄色の資格で囲んだ部分を拡大したもの。事故現場は国道55号線を左に折れ---それが画像中のA地点---その地点から県道288号線を小勝島の発電所方面に約1km進んだところにある。)

 

 

徳島自衛官変死事件

A地点を北側から南に望んだ図。ここを左折して約1kmで事故現場に着く)

 

 

(以下、引用続き)

事故があった道は、いまでこそ「県道288号線」ですが、当時は名前もなく、突き当りの小勝島に建設中だった四国電力の発電所の工事関係車両が出入りするだけでした。

(中略)

「お兄ちゃん、こんな道知っとったんかなぁ?」

現場に立ってみると---(中略)---緩やかな右カーブを走る兄の車は、小さな角度で左にハンドルを切り、ガードレールと接触しています。

兄の車が付けたであろうタイヤ痕は、ガードレールから農道の方へと続き、その周辺には別のタイヤ痕がいくつも追いかけるように付いていました。

「この事故、ちょっとおかしいないか?」

一緒に行っていた従兄も、不自然さを感じずにはいられないようでした。

道路に残された複数のタイヤ痕の写真を撮り、波紋の幅を測ります。

ガードレールの傷の長さと高さも測り、それぞれをメモしていきました。

周辺にあるたばこの吸い殻や飲料水の缶も拾い集めます。

「タイヤの痕、追い掛けてみよか」

父と私は車でタイヤ痕を追い掛けながら、写真を撮っていきました。

兄のタイヤ痕は、車があった(新逆瀬)橋のところまで続いています。そして、それとは別のタイヤ痕も。

「このタイヤ痕、事故現場からずっと付いてきてない?」

「急ブレーキ掛けながら追い掛けてきてるって感じやなぁ。この先にもあるか行ってみるか」

従兄は車があった位置(新逆瀬橋の南側のたもと)から、さらに5kmほど南下して、そのタイヤ痕が続いていないか探し始めました。

やっぱりMがおったとこ(新逆瀬橋の南側のたもと)でタイヤ痕切れてるなぁ

私たちは、兄の車の痕を追い掛けるように付けられたタイヤ痕が、事件の時に付けられたのではないかと思うようになりました。

「すみません。25日の夜に向こうの道で事故があったんですけど。すごい音がしてたと思うんです。なにか音を聞かなかったですか?」

「この辺りは滅多によそ者は入って来んけんなぁ。それに冬場は雨戸閉め切っとるけんなぁ。テレビ付けとったら、外の音は聞こえんわ」

「事故してから走ってるんで、かなり大きな音を立てていたと思うんですけど」

「この辺りは暴走族も多いけん。車の音がしとっても気づく人おらんのちゃうで。警察にも言うとんだろ?」

「はい、警察も調べてくれてるとは思うんですけど。警察は聞きに来ませんでしたか?」

「いやぁ、来んでよ」

事故現場から遺体が発見された場所まで、道路沿いの家を手分けして一軒一軒聞いて回りました

誰か事故の音を聞いていないか、不審な車を見ていないか。

でも返ってくる答えは、みな同じでした。

警察は聞き込みをしていない。

阿南署が捜査に動いた形跡は、どこにもありませんでした。

兄が一人で事故を起こし自殺した、という結論は、捜査されずに出されたのでしょうか。

ずっと兄の車を追い掛け、車が放置されていた場所まで残されていたタイヤ痕。不自然なガードレールの事故現場は、疑問をどんどん大きくしていきました。

(引用終わり)

 

徳島自衛官変死事件

(事故現場を西から東側の発電所方面へと望んだ図。やや見えにくいが、凹んだガードレールの道路側には縁石があり---黄色矢印の部分---縁石とガードレールの間の幅は60cm前後ではないかと想像する。)

 

 

徳島自衛官変死事件

(事故現場を東から西側の国道55号線方面へと望んだ図。凹んだガードレールの道路側には縁石があり---黄色矢印の部分---縁石とガードレールの間の幅は60cm前後ではないかと想像する。)

 

 

徳島自衛官変死事件

(遺族による調査の様子。黄色線は60cm前後ではないかと思うがどうだろうか)

 

 

徳島自衛官変死事件

(事故現場を少し発電所方面に行くと農道への分かれ道がある。遺族によると、事故現場からのタイヤ痕はこの農道へと続いていたという。)

 

 

徳島自衛官変死事件

(再掲。先の農道の入り口からピンク矢印の道を経由して「車両放置・遺体発見現場」まで行けば、その道路距離はグーグル計測によると「8.1km」であり、遺族や警察が言っている「8.2km」という数値とほぼ一致する。事故車両はおそらくピンク矢印の道を通って国道55号線に合流し、そこから南下して新逆瀬橋まで行ったのではないかと想像するが、正確なところは不明。)

 

 

12月30日(木)、遺族はMさんの私物を引き取るため、広島県の海上自衛隊江田島第1術科学校や下宿先(1術校から徒歩5分のところにある一軒家)に出向いた。

そこにはMさんが図書館で借りたままになっていた専門書やビデオなどもあったが、いずれも返却予定日は休暇明けになっていた。

遺書のような走り書きでもないかと、手帳やプリントの端に書かれてある落書きにまで目を通してみると、Mさんが休暇明けの仕事の打ち合わせまでしていたことが分かったが、死を予感させる書き込みは見つからなかった。