(2015年末のニュースから。一枚目は、宮澤家の裏、ポッポ公園側の外壁に取り付けられている給湯器~風呂窓あたりを調べている捜査員。二枚目は、入江さん宅の玄関ドアを開ける捜査員)
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引き続き、入江杏さんの著書、『この悲しみの意味を知ることができるなら---世田谷事件 喪失と再生の物語』から、自分的に気になった部分を、そのまま引用していきます。
(「」内が引用部分。特に重要と思われた部分については、すでに「その9」までに引用を終えており、そういった部分については、以下には掲載しておりません。また、何ページからの引用か、といった説明は省略しています。
最も近くで、事件を見聞きされた方の一人だと思います。この事件を詳しめに見てみたいといわれる方は、是非買って、読んでみることをお勧めします)
(2000年大みそかの紅白歌合戦、紅組のスターターはホワイトベリー、曲は『夏祭り』だった)
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■ 2001年1月3日(水曜日)、「紅白歌合戦~」の場面
「鑑識による現場調査が引き続き行われた。
(中略)
鑑識は人数が増えたようだ。妹宅からはひっきりなしに人が出たり入ったりしている。
事件発覚後、晦日、大晦日の経過を何度も話しているのに、人が増えるたびに、また新たに繰り返し同じ話をしなくてはならないのには、いささか閉口させられる。
こんな会話もあった。いきなり玄関先に、今まで話したこともない刑事さんが現れて、大声で聞かれる。
『大晦日ね、三十一日、発見したとき、おばあちゃんが隣に行ったのは何時?』
『十一時になったかならないか、十時半から十一時の間だったと思います。』
『そのとき、みんなは紅白は見てなかったのか?』
『こうはく、って言いますと?』
『紅白歌合戦だよ、見てなかったのか?』
『あのー、午後十一時じゃなくて、午前の十一時ですけど・・・』
単なる勘違いといえば、それだけのことかもしれない。ただ、こんな質問ひとつにも、自分の張りつめた気持ちと捜査陣のそれとの温度差を感じてしまう。
事件発覚からもう三日もたっているのに、いっこうに進展が感じられない。なぜこんな質問を、今頃されなければならないのだろう? しかも、夜と昼を取り違えているなんて、平気で初歩的な間違いをする人に、捜査を任せて大丈夫なのだろうか?
私はどうしようもない不安と焦燥に駆られて、私たち一家の事情聴取の内容を時間軸に沿って書き出してみた。そしてそれをできるだけコンパクトにまとめて、テレビの番組欄の切り抜きとともに、捜査陣のひとりに渡した。
すると、『これ、便利でいいね、ぼくだけにくれる? 他の人に渡さないでね』と言う。
私は思わず耳を疑った。素人の私がまとめたものだから、たいして参考にならないかもしれない。ただ、捜査に携わる全員に情報を共有してもらうため、せめてその場にいる皆にコピーして渡そうと思っていた。家にはコピー機があったのだから。新たに出入りする捜査員に妙な質問をされる手間が省けると思ったのだが、なぜ、便利に役に立つと思ったものをみんなで共有しないのだろう? どうも納得がいかない。
なんとか自分を納得させるために思いついた理由はこうだ。系統が異なるチーム同士でチェックしあうために、敢えて情報を共有しない・・・これも捜査の一手法なのだろう、と自分に言い聞かせる、腑に落ちない思いにとらわれたまま、手書きでまとめた用紙をその捜査員に渡した。」
■ 2001年1月3日(水曜日)、遺留品の確認作業
「その日は昼過ぎから鑑識に協力して、犯人の遺留品を見分ける作業に従事する。
ポラロイドで撮影した何点もの写真、その中で、私がみきおさんのものとはっきり断言できなかったものは三点。
血染めのトレーナー、グリーンのウエストポーチ、ブルーのポーチ風小バッグ。
写真ではどうもはっきりしないが、トレーナーは灰白色の地にラグラン風の袖部分が濃い紫だという。写真と実物はずいぶん違うものだが、本当に色は違って見える。中国製だそうだが、確かにみきおさんらしくないと言えば、らしくない。けれど、中年だからこんなトレーナーは着ないとは断言できない。
(中略)
衣服はすべて警察に証拠品として押収されている。今、眺めているのは、色もはっきりしない写真だ。
『これ、みきおさんの最期の服装なんですけど・・・ズボンにベルトをしてるんですよ。』
鑑識課の捜査員は写真を示しながら言う。
『ベルト? 寝る時にベルトはしないと思いますけど・・・。このセーターはタートルネックですか? 素材はなんですか?』
『レザーだと思うけどね。』
『レザー? 皮ですか?』
『うん、そんな感じのね、なんかピカピカした感じのセーターだったですよ。』
レザー製のタートルなどあるだろうか、と訝しく思う。写真では素材が判然としないが、ほんの一ヶ月前にいっしょに買ったセーターではなかったろうか? 近所にユニクロが進出してきて、母も伴って妹と車で出かけた。オープンしたばかりで長蛇の列ができていたが、妹は子どものための下着やTシャツ、靴下など日常品を忙しく買っていた。
『シンプルで着やすそうだわね、みきおさんにこれどう?』と薦めた黒のタートル。買ったばかりのはずだ。寝間着におろすには早すぎる。それとも、まだ寝つく前の凶行だったのか?
それにしても、警察の人は衣類の知識がないなと思う。別に揚げ足をとっているわけではないが、鑑識という立場であまりにも素材やデザインに無頓着ではないか。だいたいレザーのタートルネックなんてあるだろうか。
首のところが広がらなくては、着脱だって不可能だ。ウールのセーターに血が染み込んでピカピカしてレザーのように見えたのではないか? 遺体を直視できなかった私を気遣って、写真しか持ってこなかったのかとも思ったが、そうでもないらしい。
その後も、ずっと不鮮明なポラロイド写真での確認が続いた。その日のメモによると、
みきおさんの服装・・・黒のタートルネック、黒のズボン、ベルト。靴下は履いていたのか?
泰子の服装・・・黒のスエット上下、下着はブラジャー
にいなちゃんの服装・・・黄色の上下?
礼ちゃんの服装・・・横縞(青と黒)綿のハイネック+紺のトレーナー、白っぽいズボン
ノートには、いくつかの疑問が羅列してある。
ズボンの素材は何か?
実際はいていたズボン類を視認できれば、寝る姿(寝間着用?)かどうかわかると思う
やっちゃんはふだん寝るときはブラジャーはしないと思う
お風呂の後はブラジャーはしないと思う
みきおさんのタートルの素材は何か? ニット地なら寝間着ではないと思う
ポラロイド写真による照合ばかりなのがもどかしい。色がよくわからない。一刻も早く実物を見たい。
一枚だけ、その日の午後に、実物を見られたものがある。トレーナーだ。実際のそれは、血で汚れて裏返しになっていた。
『これ、みきおさんのですか?』
『うーん、らしくはないけど・・・メーカーはどこのですか?』
『えーとね、中国製の粗悪品ですよ。みきおさん、だいたいブランドものが多いものね。』
『別にブランド物ばっかりというわけじゃないですけどね』
『Lサイズだよ。みきおさん、小柄ですもんね。奥さんのほうが体格いいくらいですよね?』
確かにみきおさんは大柄なほうではない。なで肩なのを気にして、泰子は、コートなど体格がよく見える良質なものを慎重に選んでいた。だけど、こういうトレーナーをもし買うとしたら、身体にピッタリしたサイズではなく、絶対にひとまわり大きいLサイズのものを買うだろう。
『これ、若いもん向けだよ、何でもドラマでKが着たんだって。』
ドラマで人気タレントが着たものを買うのは若者と断定するのはどうか、とも思ったが、確かにみきおさんのものらしくはないように感じた。
泰子はみきおさんの仕事用の服は本当に質のいいものを買っていたと思う。企業のアイデンティティ・デザインという、無形のものに価値を持たせる仕事柄、服装や髪形といった見かけには人並み以上に気を使っていたのだろう。人は、中身を知らない以上、第一印象に左右される。だからこそ、身なりに気をつけたい、そう思っていたのだろう。
本来、おしゃれが好きな妹だったけれど、二人目の子どもが生まれてからは忙しくなって、あまりおしゃれに気を遣わなくなった。また、経済的に負担がかさむにつれ、自分よりも家族の、特にみきおさんの服装には、年を重ねるごとに、細やかな気配りをするようになった。でも、高級品と廉価なものをうまく取り合わせるバランス感覚もあったので、あながち安物だったらみきおさんのものではないと言えるかどうか? 私にはなんとも断定しにくかった。しかし、その夜にはもうそのトレーナーは犯人の遺留品として、一般公開された。
(中略)
大丈夫だろうか? 私は考えに考えて、この衣料品だけは、みきおさんのものとは断定できない、と言っただけだ。犯人のものと断定する根拠はあるのだろうか? 捜査員に聞いても、私の証言だけではなく、付着した汗などを鑑定した結果だという。
この日以降、次々に見せられる衣料品の写真は、見覚えのないものも他にあった。特にみきおさんの衣服は、ほとんど、私にはうろ覚えと言ってよい。
『みきおさんのお母さんがお手伝いに来てくださっていたので、お母さんにも聞いてくださいね』と私は念を押した。
自分の記憶のおぼつかなさに腹が立つ。なんでもっときめ細かく観察していなかったのか、と悔やまれてならない。
自責の念とともに改めて思ったのは、人が人のすべてを知っているなどとは、とても言えない、ということだ。相手のことを知っているとどれだけ自負していても、その人のすべてを把握することなどできない。私は妹のことを知っていると思い込んでいただけだったのか? 小さい時から一緒に育って、よく理解している。なんでもかわっていると思い込んでいた。でもそれは思い上がりだったのだ。」
■ 2001年1月3日(水曜日)、報道への違和感(カタンがドスン等)
「情報が交錯したまま、次々に新たな情報が出てくる。
聴取の結果が情報となって出てくるのだろうが、私たちが実際に見聞きしたものとややずれているような印象を受けて、それが心配でならない。
例えば、犯人のものと断定された服、トレーナー、帽子、マフラーにしろ、私には『みきおさんのものらしくない、見覚えがない』という不確かな表現しかできなかったのだ。けれど、ニュースでは断定的な表現となって、当事者とメディアの微妙な距離を感じる。
(中略)
(1月3日付の朝日新聞で、「30日午後11時半から31日午前零時にかけて、宮澤さん宅で"ドスン"という物音がするのを近所の人が聞いており、犯行はこの時間帯とみられる」という記事が出たことについて)
犯行時間について、私たちは何度も刑事さんたちと話し合った。私は自分が眠りについた時間が十二時を過ぎていたと思うし、夫も午前二時頃、目を覚ましたと言っている。それでも、大きな物音など聞こえなかったのだ。静かな夜だった。風の音だけが耳についた。
この『大きな物音』という情報は何に基づいているのかというと、息子の『カタンという音を十一時半ごろに聞いたと思う』という言葉だ。
息子が寝ていたのは我が家の三階で、屋根に小さな窓がついている。私たちの家に隣接する公園の音はもとより、道路をへだてた公園をスケートボードで滑る音が聞こえてくることもある。が、のちに実験した結果、隣の物音はまったくと言っていいほど聞こえない、ということが証明された。『カタン』というのは、息子はそのとき、『べニア板をひっくり返すような音』と表現していたように記憶している。それなのに、なぜ、『十一時半にドスンという大きな音』という報道発表になるのだろうか?」
■ 1月3日~4日、銀行の仕事始めと口座の動き
「(息子にとって)この事件の衝撃と重荷はいかばかりだったろう。警察は事情聴取にあたって、人あたりのよい刑事さんたちを息子の担当に選んでくれたように思う。
息子の担当ばかりではない。遺族の担当は、みなやさしげな刑事さんばかりで、高圧的な話しにくい人は誰もいなかった。『紅白は見なかったのか?』と、いきなり怒鳴りつけてきたような捜査員は、いつの間にかいなくなっていた。
(中略)
明日(四日)は勝負の日だ。刑事さんがそう言っていた。妹たちの口座へ犯人はアクセスしてくるのだろうか? 明日こそ、明日こそ。明日は四人の密葬だった。四人に犯人逮捕の報告はできるのだろうか?
(中略)
明日には何かの動きがあって、事件解決へと向かうのだろうか? ただただ事件解決を祈りながら、また眠れない夜を過ごした。
(中略)
刑事さんは言っていた。
『銀行の仕事始めとなる四日午前九時が勝負だよ。一気に事件は動くからね。』
いよいよ犯人はその姿を見せるのだろうか?
四日の午前中、なんの連絡もなかった。
午後、刑事さんたちがいつものように二人連れで訪ねてきた。『どうなりましたか?』と聞くと、『今のところはなんの動きもないね』という答えだった。
なんだか拍子抜けしたが、予想通りという気もした。現場に残っている通帳には手をつけていないとも聞いていたし、立ち退き料が目当ての犯行と言われても、ローンを支払えばほとんど手元に残らないはずだ。
お金のことは日頃からお互いに相談したりされたりで、妹宅の経済状況はわかっているつもりだったから、つじつまがあわない気もしていた。」
■ スラセンジャー
「これまで書いてきたとおり、私たち家族と妹一家のあいだの行き来は頻繁だった。白昼は時に施錠しないことも確かにあった。ただ、みきおさんは施錠には気を遣っていたように思う。
また、礼くんと同じように発達障害を持つ子がひとりで家を出てしまい、遠くの友達のお宅まで行ってしまったということがあった。その時は妹と、『鍵を忘れないでかけようね』と確認し合い、いつも鍵をエプロンに入れて、行き来するように心がけていた。
(中略)
それにしても納得がいかない。なぜ、妹の家が狙われたのだろう?
刑事さんとも何度も話したことだが、開口部は我が家のほうがずっと大きいし、広くて、入りやすい。狙う気になればいつでも侵入できたはずなのだ、なぜ妹の家に? 今でも残る疑問だ。常人の思いの及ばぬ何かが動機となっているように思えて戦慄する。
早い段階から、犯人のはいていた運動靴が『スラゼンジャー』というメーカーであることは伝えられていた。犯人の靴跡からロゴマークが判明したのだろう。
耳慣れないメーカーだったが、綴りを見て、息子と私には思いあたるふしがあった。息子がイギリスの学校の体育の授業で使っていたクリケットの道具がスラゼンジャー製だったから。
でもスラゼンジャー製の靴というのは、見たことがなかった。靴も作っていたのだろうか? スラゼンジャーというメーカーを息子が知っていたことに、警察は驚いたようだった。
(中略)
『スラゼンジャーの靴をはいてる友達なんかイギリスにはいなかったよ』と息子。
ネットで探してみると、ホームページが見つかった。クリケットやゴルフ、テニス用品などを扱うスポーツメーカーだ。そのホームページを刑事さんに示す。『ふーん、こんな綴りなんだねぇ。』捜査員はやさしく話しやすかった。」
■ 2001年1月7日(日曜日)、降雪と警察犬のこと
「その日は大雪だった。
(中略)
妹たちのいなくなった世界に降ったこの雪は、あまりにも冷たい。雪で足跡が消えてしまうのではないか、犯人の体臭が雪で消えてしまうのではないか? 不安が募ったが、警察はその時点では自信にあふれているように見えた。
『これほど証拠の品がたくさんあるんだ。すぐ足がつく』と自信に満ちて語っていたあの言葉を思うと、『警察犬は入れたのでしょうか?』と聞くのがやっとだった。
『足跡にしろ、証拠になるものはすべて保全してあるので大丈夫』本当に心強く、頼もしく聞いたその言葉だったのだが・・・。」
■ 2001年1月16日(火曜日)、都の緑地公園課の職員から電話
「東京都の緑地公園課の担当の方がお悔やみの電話をくださった。その一本の電話から、いろいろな思い出が胸をよぎった。
その電話を受けた当時、私はお悔やみへの御礼をごく型通りに述べただけで、その思いのひとかけらさえ、彼女にお伝えできなかった。
(中略)
妹たち一家が東京都との折衝で立ち退きを決めてから一年がたっていたが、土地譲渡の決定後は、都とは書類のやりとりだけで速やかに事務処理が進み、ほとんど担当者と接触することもなかった。担当者とのやりとりも、ごく事務的なものだった。
(中略)
土地の立ち退きについては、今まで何度か触れたかもしれない。私たちが立ち退きの申請をしたのは一九九九年の年末、事件の一年前のことだった。
すっかり変わってしまった周辺の様子に、治安上、長く住めるものではないと心配でならなかった私は、見積もりだけでもしてもらったほうがいい、とずっと妹たちに言ってきた。
でも、『礼くんがこの環境にようやく慣れたのだから』と言われると、私も強いことが言えなかった。礼くんの発達障害に家族で一生懸命向き合う姿を日々、目のあたりにしていたから。
ようやく九九年の年末、今後の生活設計を考えるうえでも査定だけはしてもらおうということになったのだ。
景気の低迷期だったので、査定値は民間の値をかなり上まわったものだった。これで移転先を確保できる。私たちはひとまず安堵したのだが、その後の生活設計を考えると、決して楽観できるものではなかった。
(中略)
(特に発達障害のあった礼君の今後の育児・教育のためにも)希望の条件にかなう次の移転先が見つかるだろうか? そんな不安を見越してか、東京都は、土地譲渡後に新たな移転先が見つかるまでに、十分な時間的猶予を認めていた。移転先を確保し、生活再建の目処がたつまでは、土地の譲渡者が現在の住居に住み続けることも可能だったし、猶予期間を延長することもできたのである。
移転に伴う経済的な負担は楽ではないが、新たな移転先で生活を再建すること自体、決して無理なプランではないと算段して、私は妹たちを説得したのだ。」
(ブログ筆者注: 結局、立ち退き後の移転先としては、都が候補地として提示した近所の都有地の中に好適地があったらしく、そこを宮澤家に必要な坪数だけ分割して売却してもらうという方向で話は決まっていたらしい。)
■ 常夜灯設置の要望、不審者
「当時の妹たちは、立ち退きが進んで治安が悪化していることを、ことさら心配しているようには見えず、『だいじょうぶ、だいじょうぶ』と、いつも鷹揚だった。が、小さい子どもたちを抱えて、やはりなにがしかの心配、懸念を抱いていたことが、事件後、明らかになっている。
私がまだイギリスにいた頃から、妹が何度か公園管理課にかけあって、常夜灯の設置を依頼していたことを知った。不審者を見かけて通報した記録も残っている。
妹たちも、公園に囲まれた生活を決して安寧なものと思っていなかったのだ。
家を買った当初からすでに緑地化の話があったのに、なぜあの場所に家を建てたのか、と問われると私も胸が痛む。けれど、当時は十年後のこの変化がとても予想できなかった。この地域に家を建てた時点ではまだ町内会も機能していたし、住宅地としての町並みも保たれていたのだ。
そもそも東京都の公園課の人の言葉が忘れられない。『この仕事に誇りが持てなくなりました。』かつては公園をつくるというと住民には喜ばれたのに、今は皆、公園は不審者のたまり場になると言って嫌う、というのだ。人の心も変わったのだろうか?」
(ブログ筆者注: 泰子さんが治安をそれなりに気にかけていた様子は、みきおさんの父・宮澤良行氏の証言からもうかがわれ、『真犯人に告ぐ!』からその部分を引用すると、
「最期のクリスマス---。一緒にケーキを食べていた時、泰子さんがこうつぶやいたことが今でも良行さんは気にかかっている。
『うちの前の道路に最近、よく車がとまっているのよ。誰かしら?』
この時期、みきおさんと泰子さんは東京都の祖師谷公園拡張などの区画整備計画のため、家の立ち退き準備に追われていた。みきおさんから移転先の土地、建物の購入資金が足りないので2千万円を貸してほしいと頼まれた良行さんは、年明け早々に銀行にお金を振り込む約束をしていた。この立ち退き問題で一家が何者かに狙われて殺害されたのではないか。そんな怨恨説も盛んに報じられた。
『思いあたることは正直、まったくなかったが、今の世の中はささいなことでも人に恨まれるので・・・』そう思い悩む日々もあった。」)
■ 2001年1月17日(水曜日)、音漏れなどの再現テスト
「その夜、警察立ち合いのもとに再現テストが行われた。妹宅に警察官が数名入る。その警察官は一階からロフトにかけて、大きな音を立てて動きまわる。
私たちは捜査官とともに自宅に待機して、どれほどその音が漏れてくるのか、その聞こえ具合をテストするのだ。
耳をすます。じっと耳をすますが、何も聞こえなかった。
妹たちの叫び声、犯人に抵抗して戦った音。あの夜、私たちに届かなかったいのちの抗いの音は、やはり聞こえてはこなかったのだ。
音が漏れてこないように、みきおさんが配慮してくれたこの二世帯住宅。
二世帯で暮らすうえで、生活音が快適さを妨げることがあるのをよく知っていたのだろう。でも、それもまた水くさい遠慮ではなかったか?
音なんて、たいして気にならなかったのに。いや、むしろ、建てた当時は我が家のほうに小さな子どもがいたのだから、私たちがもっと配慮すべきだったのか?
いずれにしろ、気遣い、配慮、細やかな心使いが仇となって、必死の叫びが届かなかったとは。残念でならない、無念でならない。」