(この図は、以前、常陸国だいだらぼっち伝説を書いていた時に掲載したもの。図中、18番の事件---茨城大女子大生殺害事件---は、つい先日、13年の時を経て、容疑者が逮捕された。逮捕の決め手はDNA型の一致だった。世田谷事件についても、DNAや指紋が採取されている以上、今後の急展開もあるかもしれない。)
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ここで、入江杏さんの著書、『この悲しみの意味を知ることができるなら---世田谷事件 喪失と再生の物語』から、自分的に気になった部分を、そのまま引用させていただきます。
(「」内が引用部分。特に重要と思った部分については、すでに「その9」までに引用を終えており、そういった部分については、以下には掲載していません。また、何ページからの引用か、といった説明は省略しています。
最も近くで、事件を見聞きされた方の一人だと思います。この事件を詳しめに見てみたいといわれる方は、是非買って、読んでみることをお勧めします)
■ 立ち退きに関する記述
「それにしても、公園を抜ける道を車で走っても、人通りがまったくない。公園計画のため、立ち退きが進んで変わっていった周囲の光景。
英国に生活の基盤を置いていた私たちは、帰国するたびに目をみはった。あまりの風景の変わりように、だ。歯が抜け落ちるように家がなくなって、不揃いな空き地が増えていく。公園、といえば聞こえはいいが、野原と呼んだほうがいいような、手入れの行き届かない空き地ばかりだ。夜のひとけのなさはもとより、町並みがどんどんよそよそしくなるように思えた。
なぜ、こんな開発をするのだろう? この土地に緑地公園が本当に必要なのか? そんな本質論はとうに脇に追いやられていた。
実行と決まった公園計画は、バブル崩壊後、とりわけ熱心に推進されているわけでもないのに、どんどん進んでいった。
土地神話は崩れ、民間では買い取り手がなくなった土地家屋を、都はいまや市価より高く買い上げてくれる。そう思って立ち退きを決める人は多かっただろう。高齢化に伴い、新たな人生設計を描いて買い替える人も少なくなかった。だが何より、自治会が成立しないほどに立ち退きが進み、コミュニティがなくなることへの不安が、立ち退きを促進させたのだと思う。
当時はまだイギリスに拠点をおいていた私たちは、この土地に根を張って暮らしているわけではなかった。地縁が薄かったからこそ、この地の様相の変化をいっそう客観的に見られたのかもしれない。
立ち退きのための説明会は毎年行われていた。町並みを見るたびに、何か治安への不安が募った。
『ここにいつまでも住んでいてはいけない。』
妹たちに何度も繰り返して説いた。でも妹たちはしっかりと、この土地に根を下ろして生活していた。
『野原だから気兼ねしなくていいのよ。』
この場所だから、ご近所に気兼ねすることなく子育てができると、いつも言っていた妹。
礼くんの奇声と表現するしかない大声、それは何年続いただろうか? 立て込んでいる市街地に住んでいたら周囲の人の迷惑になる、と妹は言うのだ。
だが、その声も就学を目前にしてだいぶおさまってきた。たくさんの人に支えられて、ようやくここまできたのだ。
それだけに保育園の先生や仲間、地域の方々の存在を心強く思っていたのだろう。妹一家は立ち退きの決意ができないでいた。
礼くんのような子どもにとって、環境の変化が及ぼす影響ははかりしれない。引っ越しだけならまだしも、慣れ親しんだ保育園の卒園、さらには小学校への進学も目前に迫っている。が、ようやく、妹たちの心が決まった。土地の譲渡、新居への移転。
『本当によかった・・・。』ほっとした思いだった。妹の決心がなにより嬉しかった。」
「妹たちは、あの家を気に入っていた。礼くんがどんなに大きな声を出しても、気兼ねすることなく、のびのびさせてあげることができるから。立ち退きが遅れたのもひとえに子どもたちを思ってのことだった。」
■ 事件当日、12月30日(土曜日)午後6時半~就寝時の描写
「夫と一緒に帰宅すると、妹宅の車がなかった。六時半だった。
今頃出かけているということは、夕飯は外食かしら、鍋料理はどうなったのだろう、とふと思ったが、家族で出かけているなら大丈夫だ、私はそう思って、さほど気にとめなかった。
あとで知ったことだが、その時間、妹たちは揃って、行きつけの写真屋さんで写真を受け取っていた。
写真はみきおさんの趣味でもあった。
子煩悩なふたりは、もう数えきれないほどの写真を撮っていた。誕生日、運動会といったささやかな家族のイベント。それだけではない。公園の小手毬の花がきれいだからと言っては写真を撮り、雪が降ってたくさん積もったからと言っては写真を撮る。そんなふうだった。
(ブログ筆者注:入江さんによると、みきおさんはライカのカメラをコレクションしていた)
(中略)
午後七時、我が家の夕食が始まった。年末の騒々しい特別番組を見ながら、賑やかにいただく。七時半。ふだん日本のテレビを見られない夫、暮れの屈託のないテレビの特番は、家族の憩いの時間だ。
私たち三人といっしょにテレビにつきあった母が、騒々しい番組に倦んで自室に引き取ったのが、八時半前か。一階で私たちは引き続きテレビを見ていた。ビートたけし主演の三億円事件のドラマ。母は二階で、美空ひばりの特番。夫はもう夜九時過ぎには、うとうとしていた。
『パパが寝ているからね、静かにね。』『うん。』
(中略)
『今頃、にいなちゃんや礼くんはポケモンを見てるんだろうね』と息子は言う。
私と息子は、十一時にドラマが終わると、それぞれの寝室に行く。子どもは三階、私は二階、母の部屋の隣で床に着く。
母はテレビをつけっぱなしで寝てしまうことが多い。そのせいもあり、夫も私も耳栓をして寝るのが習慣になっていた。あの日は美空ひばりの特番が終わると、母は自分でテレビを消した。
静かな夜、妙に寝つかれなかった。完全に眠りについたのは、一時過ぎだったろうか。あとで、どれほど思い返しても、変わった物音など何一つしなかった。耳栓はしていたけれど、そんなにきっちりしていたわけではない。時々風の音がするだけで、いつものように静かな夜だった。」
■ 12月31日(日曜日)午前、事件発覚直後の現場の印象
「あの場を目にしながらも、殺人、といったことがまったく頭に浮かばなかった。殺人ほど、妹たちの日常とつながらないことはなかったから。もちろん、その顔を、傷とか血とか、明らかに傷害を想起させるものを確かめていなかったということもある。が、なによりどうしても、妹たちと殺人事件といったものが結びつかなかった。
妹たち全員をその目で確認している母は開口一番、『殺されている』と言ったのだ。でも、母の言葉を信じたくない。確認するのが怖くてたまらない。いや、そんなことがあっていいはずはない。
はじめに頭をよぎったのは、『ガス中毒?』ということだった。殺人などということが自分の周囲で起こるとは想像もしなかったからだ。まさか心中? とも思った。
でも、そんなことがあるわけはない、あんなに頑張っていたもの。
妹たちは近年、たいへんなこと続きだった。礼くんの誕生、発達障害という診断、みきおさんの転職・・・経済的にも決して楽ではなかった。だけど、どんな時でもみんなで助け合っていた。これからという時だったのだ。心中なんてそんなこと、あるわけがない、ましてや殺人なんて、あるはずもない・・・頭の中は混乱するばかりだった。
早く早く、誰か早く来て、なんとか妹たちを助けてほしい、と私は大声で叫びたかった。でも、どうしても、妹たちの体があると思われたところへ駆け寄る勇気がなかった。
明らかに異常な事態が起きたことはわかっていた。どれほど否定しても、尋常ではない何かが起こったのは事実だった。だからこそ、それを確かめるのが恐ろしかった。
救急車を待つ十分ほどの間、どうしても妹の家に入ることはできなかった。ただただ恐ろしくて。
なんと言ったらいいのだろう、あの部屋には異常な何かが充ちみちていた。異常な何かの痕。憎しみの痕跡というものだろうか? 私がまず見たのは、ばらまかれたたくさんのものの間の、みきおさんらしい人の片足だった。異様な姿で倒れている。素足は異常に白かった。よく見れば血も流れていただろうに、刺されていたと言われる頭の傷などは見えなかった。あまりに雑然とした散らかりようで、物に隠れて見えなかったのだ。
いま思うと、犯人も、見たくないものの蓋をするという思いで、人の姿らしきものを部屋の中のありとあらゆるもので覆い隠したのだろうか。
『とっちらかった』という言葉があるが、そんな感じの散らかりかた、異常だった。
(中略)
その部屋はいつも何かの音に満ちていた。子どもの声、コンピューターの作動する音、テレビやビデオの音、本をめくる音、紙にクレヨンを走らせる音、エアコンの音、さまざまな生活音がそこにはあった。
それなのに、その日、扉を開けたときのあの静けさは何だったのだろう? 異様な静けさ、それは死の静けさといったものだろうか?
さらにあの異様な寒さ。子どもが風邪をひかないように、また、寒がりのみきおさんを気遣って、いつも室温を温かく保っていたあの部屋が、その日はひんやりとしていた。冬だからヒーターを切ったら寒いのは当然かもしれない。でもかつてないほど底冷えのする部屋だった。何かがおかしい。普通ではない、妙だ、というのが第一印象だった。でも、それが何かはわからない。
妹宅の一階で、私はその日、血溜まりなど見ていない。
『ドアを開けるとそこは血の海だった!』などというような報道があったけれど、見てきたような嘘を書き、というのはこのことだと思う。
私が見たのは母の手についていた少量の血だけだ。
血を見ていない私にとって、母の言葉は私の頭の中に事実として入ってこなかった。母は『殺された』『死んじゃった』という言葉を使っていたけれど、そんなことがあるはずがない。でも、この異様な空気はなんだろう? 明らかに日常とは違う異様さだった。」
■ 救急車や警察の到着、事情聴取
「あの日の人の出入りの慌ただしさと言ったらなかった。警察というのは、どういう組織・構造になっているのか当初はよくわからなかったが、成城署と警視庁捜査一課、それと鑑識、少なくともこの三つのグループがあるらしいことはわかった。
家族全員の指紋と唾液のサンプルを採取する。事件現場のどこまで入ったか、何度も何度も尋ねられる。同じ人間にではない。担当が違うのか、別系統の人間なのか、同じ質問を何度も別の刑事さんが尋ねてくる。
『妹たちは助かるんですかっ?』
『誰か助かるんですかっ?』
私はそればかりを尋ねていたが、誰も私の質問に答えてくれなかった。
(中略)
そのあいだにも時間がたってしまう、救急車は? 焦る気持ちを抑える。
実はあとで夫から聞いたのだが、救急車はパトカーより早く到着していたのだという。だが、その時の私は、救急車の到着には気づかないままに警察への対応に追われていた。救急車はいつ来るのか、そればかりが気になっていた。
何人かの刑事さんが、玄関口で、『仕事はっ? 旦那の仕事はっ?』と、口々に息せき切って尋ねる。
『CIの仕事をしています。』
『CI?』
訝しげな顔、無理もない。母だってみきおさんの仕事を初めて聞いたときは同じような表情だったから。
『コーポレート・アイデンティティと言いまして、企業のイメージをデザインしたりするお仕事で・・・』と私が言葉を継ぐと、
『デザイナーか?』
『いえ、デザインじゃなくて、コンセプトと言いますか、まあ、経営コンサルタントと言ったらいいでしょうかしら?』
『企業の経営コンサルタントだね?』
と、聞き返す刑事さんの顔を見返しながら、俗にいう経営コンサルタントとは違うんだけれども・・・と思う。なんと説明したらいいだろう?
『会社名は?』
そのとき、みきおさんの会社の正式名称も知らなかったことに気づかされる。前の前の会社はよく覚えていた。その後、転職をした会社も辞めたはずだ。
今の会社はなんだったかしら? 確か、インターとか、インタラクティブとか、今風の名前だったけれど、とっさに出てこなかった。
『英国系の大手のCIの会社です。本社の住所は麹町だったと思いますけど。』
いや、半蔵門だったか? 英国大使館の近くだとも聞いていた。我ながら、心もとない。妹とはなんでもあれこれ話すのに、肝心の連れ合いの会社名も曖昧だなんて。
その時点では、刑事さんは明らかに仕事がらみのトラブル、怨恨による凶行と思っているような口ぶりだった。でもみきおさんの仕事ぶりを思うと、怨恨ましてや殺人なんてまったく結びつかない。
金銭がらみということも考えられない。どこにもトラブルの種などなかったのだ。でも警察としては、一家の世帯主の仕事がらみと考えるのが、常套なのだろう。
すべて玄関先のことだ。玄関先で立ったまま、三十日と三十一日の行動を、入れ替わり立ち替わり現れる何人もの刑事さんに話した。
(中略)
そのとき、待ちわびていた救急隊の人とおぼしき白衣の人が我が家の玄関に入ってきた。頼もしい姿だった。私はこの人たちを待っていたのだ、と思い、叫ぶ。
『助けてくださいねっ、ねっ、どうなんですかっ?』
何度頼んでも、何度尋ねても、誰も答えてはくれない。白い服の人は捜査員に何やら話しかけている。
私は、魂が抜けてしまったような状態なのに、できるだけ、取り乱さないようにふるまっていた。
『妹たちはあちらにいます!』
救急隊員の人に夢中で呼びかけて、自分で隣の家まで案内しようとしていた。一瞬でも速く、現場に行ってほしい。間に合えばいい、間に合えば。
いったい、何に間に合うというのだろう? でもその時は何も考えられず、白衣の人に何とか妹たちを助けてほしいと願っていた。
でも実際には救急車は現場にとっくに着いていたのだ。白衣の救急隊員は一度、私の家に入ってきて、私の叫びにうなずいたように見えたが、何も応えず、すぐに出て行った。
(中略)
四人全員の絶命が伝えられたのは、いつ、誰からだったろうか? 誰も正式に私に対して、妹たちの命がこの世から消えたことを伝えてくれなかったように思う。
慌ただしく出入りする刑事さんのひとりが、『死後十時間から十五時間経過』と言っていたのを聞いたときに、『もう、だめなのだ』と悟った。
『死後』という言葉が現実となって私に迫ってきたのは、異様な光景を目にしてから、小一時間も経っていたように思う。
(中略)
が、泣き疲れる間もなく、警察対応が待っていた。事件当日の話を家族別々に聞いて、照合したいと言う。そのための場所が必要なのだそうだ。みんな一緒だったのに、なぜ? と思ったけれど、仕方なく、広くはない家の中で、聴取のためのスペースを用意した。一回の居間は母、ダイニングは私、二階は夫。三階は息子という具合だ。それぞれの聴取に刑事さんが二人組で聴き手となる。」
■ 成城署での聴取と警察のマスコミへの警戒感
「気がつくと、もう日暮れ時だった。昨日の今頃は、にいなちゃんから受け取った割り下を使って、夕餉(ゆうげ)の食卓を整えていたのだ。でも、今日はそんな日常など吹っ飛んでしまっていた。
警察の人に促されるままに、第一発見者の母を伴って成城署に行くことになった。夫が息子と家に残ってくれることになった。もう午後七時をまわっている。これから警察に行って聴取というのも大変だと思ったが、その間、夫と息子が少しでもゆっくりできるならよかった、と思った。
(中略)
車で署に向かい、裏口からそっと署内に入る。
『ここにもマスコミがいますよ!』といきり立つ刑事さんの言葉を聴いていると、私たちは否応なく、マスコミへの警戒心を持ったものだ。
(中略)
成城署で、私と母は、みきおさんのお父さんに会った。私たちは、お父さんに抱きついて泣いた。お父さんは、四つの遺体を確認していた。
『お父さん、どうしてこんなことに・・・』
泣き崩れる私たちに、お父さんはただ黙って涙を浮かべてうなづいていた。その後、お父さんは淡々とした声で、遺体の様子などを話してくれた。どんなに辛かったろう。
病院までお父さんはひとりで運転していったというのだ。
私たちはその時は知らなかったけれど、あとで聞くと、非常線のため、たったひとりの我が子の自宅にも近づけなかったという。
なんの案内も連絡もなく、ただ病院に行くようにと言われ、不慣れな道を運転してやっとたどりついた病院で、駐車場を探して車を停め、変わり果てた四人と対面したという。
そんな馬鹿なことがあっていいのだろうか? 私たちも、四人がいつ病院に運ばれたのか、いつ解剖されたのか、そのあたりの経緯の説明は何もなかったように思う。
いつの間にか病院に運ばれて、解剖されてしまったのだ。
もちろん、そうしなくてはならなかったのだろう、捜査のためには。でも、でも・・・。思い返すと、胸が締め付けられる。」
■ 2001年1月2日(火曜日)、刑事が発した言葉
「今日もまた、バタバタと轟音が響いて、ヘリコプターが飛んでいるのに気づく。しかも私道の入り口にも、仙川脇の土手にもテレビカメラが並んでいる。
『うじ虫どもがいるから気をつけて。』
何気なく耳にする刑事さんの言葉に、マスコミへの憎悪の念のようなものを感じる。母はすっかりマスコミ恐怖症になってしまっていた。
警察のマスコミに対する敵愾心というものに私は驚いた。そんなことすら知らなかった。こんな事件に遭遇するまでは、警察とメディアは手を携えて、捜査に協力していると思い込んでいたから。
遠い出来事だと思っていた犯罪。その被害者、遺族の立場に立ってみて初めて知るカメラの暴力。我が家の玄関ドア、鍵穴まで、川向うからズームアップされる。
家の出入りもまったく自由にできず、ごみ捨てにも困る状態だった。
担当の刑事さんに言われて、この日から、出入りした人、電話のあった人などのメモをとることにする。
(中略)
この時点で警察はとても自信満々に見えたし、私たちはすべてを脇におき、すべてを投げ打って、警察に協力した。近日中の犯人逮捕を信じて疑わなかったからだ。
(中略)
母は、公園に不審者が出入りしているのが気になった、と何度も刑事さんに繰り返し訴えた。
『かわいい子どもたちがいるし、若い人がいるんですからねぇ、公園からは丸見えなのが気になって気になって。』
そうだ、私が治安を気にするようになったのも、母があまりに心配するからだった。
母はいつも洗濯物を乾すのも気遣って、色物は外に乾さないように努めていたし、公園の不審者に目を光らせていた。『私がうるさく言うから、かえって泰子たちは笑って取りあわなかったのでしょうかねぇ』としみじみ言う。
(中略)
『鍵のかけ忘れはありませんでしたか?』と聞く警察。
昼間は私たちも出入りするし、鍵をいつもかけていたとは限らない。でもあの日はみきおさんも一緒だったのだ。几帳面だったみきおさんが鍵のかけ忘れなどするわけはない、と思った。
その日も知るだけのことを話す。私は、自分たちの生活の状況をすべて刑事さんたちに語った。関係ないと思われることまで洗いざらい語った。生い立ちから、結婚まで、結婚して子どもが生まれるまで、そして今に至るまで。関係ないと思っても、もしかしたら、妹たちと交錯する点があって、事件解決のヒントになるかもしれない。
刑事さんは言う。『正月明けの四日が勝負だよ。』
『どういうことですか?』と聞くと、『銀行が開くのは四日だろう? 金の流れがすべてを教えてくれる』と自信に満ちて言うのだ。
そうか、とも思うが、なんとなく、得心がいかないようにも感じる。
確かに妹たちには土地の譲渡代金がすでに支払われている。が、そこからローンの返済もしているのだ。
お金の流れが勝負というと、金銭目的の殺害ということなのだろうか?
腑に落ちないながら、自信ありげな刑事さんの顔を見ていると、『信頼して任せよう、四日が来れば・・・』祈るような気持ちになった。」
■ 事件後に書かれた噂について
「事件後、世田谷事件の真実を伝える、と謳った単行本が何冊が出た。内容は乏しく、真実とはほどとおいように感じた本ばかりだった。
なかでも、立ち退きの費用が高額でそのお金を狙われたとか、家に金塊がある、とか荒唐無稽なものもあって、呆れはてた。
また、私の夫が日本人ではない、在日だと書かれたこともあった。
夫の親族すべてのルーツは明らかで、日本人だ。
もちろん、在日と書かれたことが嫌だと言っているのではない。私たちはどの国にも偏見はない。だが、真実でないことを書かれたことが納得がいかないのだ。
夫の会社は、日欧英米のどの企業とも取引があるが、今のところアジアの会社との取引はない。なんの根拠で、どういう意図でそんなことを書くのか、きちんと聞いてみたい気もするが、取り合うのもばかばかしいように思う。
妹が礼くんの言語遅滞に悩んだ末、カルトに入信したともある。
私はミッション・スクールで学生生活を送ったけれど、幸か不幸か信者ではない。
夫は宗教には否定的だし、私たち一家の誰ひとりとして、カルトとは縁もゆかりもない。過去も現在も、だ。」