(この画像は、2003年に捜査本部が作成し、全国警察に配布したDVD内に収められているもの。捜査方針を周知するべく、捜査のポイントをまとめたもの、とのこと。
水色の矢印は当方による補足、矢印の先、これが例の、"外されていた"とされる、中2階風呂窓の網戸だと思う。このとおりフェンスに立てかけられた状態で撮影されており、事件発覚時、網戸はまさしく、この状態だったとみてよいのではないかと。)
※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います。※※
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続いてその他の論点について、残すところは、
1.指紋や足跡について
2.染料について(ローダミンの件)
3.スリッパに付いていたという犯人のDNAについて
4.目撃情報について
このあたりかと。
詳しい方からは、「まだまだあるぞ」と、突っ込まれてしまうかもしれませんが、
この事件、あれもこれもと取り上げていると際限がなくキツイので、
このくらいでお許しいただくということで・・・。
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さて、先の4点について、手短な感想としては、
1については、指紋も足跡も、その数や場所を警察が正確に公表しているとは思えず、
例えば足跡については、土足、ソックス、はだし、泥の付着多、泥の付着中、泥の付着少、血の付着多、血の付着中、血の付着少、
その他、つま先の向きも含めて何パターンもの足跡があっただろうと思うのですが、
はだしの足跡があったかどうかは別としても、私は、上のような足跡が家中いたるところにおびただしい数が残されていたのでは、と想像しており、
時折目にする、「この場所に、こちら向きの足跡が何個」等々といった限定的な情報については、記者からの質問に対して、警察が足跡の全容については伏せながら、その一部のみを適当に答えたものかなと、妄想していますし、
よく言われる横歩き(カニ歩き)についても、
屋内外を問わず、歩き回ったり、何かの作業をしているうちに、意図せずに数歩横方向に移動(横歩き)してしまうことはよくあることだと思いますので、
指紋や足跡については、どこにどんなのが何個・・・といった情報には拘らず、
「そこら中に、いっぱい付いていた」という、漠然とした理解で進めてみたいと。
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2については、赤系の蛍光染料が、ラグランの胸の部分に微量、
ヒップバッグの内側にわりと多め、
また、事件当日に犯人が侵入した形跡のない、「宮澤家のガレージ内にあった、横倒しの棚の引き出し(の底?)」に、親指の指先程度の範囲に付着していたとされており、
この事実から、
「犯人とみきおさんは、染料を扱う趣味か何かを通じて、顔見知りだったのではないか」
という見方(顔見知り説)もあると。
(車庫と書いてある部分がガレージ。ここには、棚が横倒しにされ置かれていたという)
ただ、それはそれとして、自分的にはこれまで書いた通り、
犯人と宮澤家との間に知人友人の関係はなかった(赤の他人)、と妄想しているので、
染料についてもその方向から---「面識がないのに、この染料の付着状況になるのはなぜなのか」という視点から---考えてみたいと。
(「犯人=知人」説を否定するものではありません。自分的には違う方向から考えてみたいというだけのことで。さらに言えば、以下は、「ヒップバッグ内の染料は、犯行前から付着していたものだ」という、個人的な設定をもとにしての考えでもあります。)
互いに面識なしの状況で、この染料の付着状況になるのは、どんな場合が考えられるのか、
思いつくところでは、まず、犯人が事件当日あるいは事件の2~3日前のいずれかの時刻に
窃盗などの目的のため、一度ガレージに忍び込んでいた(その時に染料が棚に付着した)可能性がある、ということでしょうか。
「当日ガレージに犯人が入った形跡がない」ということが言われますが、
「形跡がない」のではなく、「形跡が見つかっていない」ということかもしれないなと。
あるいは、「ラグランとヒップバッグ内に付着した染料」「ガレージの棚に付着した染料」について、
前者を犯人由来、後者をみきおさんの由来とし、
両者は無関係としてみるとか。
(みきおさんが、仕事や趣味、何かの補修の際に、同型の染料を扱った可能性もあるかと)
またあるいは、ガレージの棚に付着していた染料は、何かの拍子に警察が付けたとしてみる。
そんなミスがありうるのかと言われれば、「ありうる」と思うわけで、
例えば、旧今市市の吉田有希ちゃんの事件を見ていても、
その遺体に、捜査幹部のDNAが付着していたとアナウンスしていたかと思えば、
今度は、「遺体を鑑定した技官のDNAが付着していた」と検察が言い始めるとか、
2008年には、当時の日下部進・合同捜査本部長が、「出血した血を洗って(遺体を)捨てたという状況です(原文ママ)」と卓話で明言していたのに、
いつのまにか、遺体が洗われた話は、なかったことにされている、
同じく、日下部進・合同捜査本部長が、「今回なんの遺留品もありません。犯人側から言わせれば完全犯罪をしたと思っています(原文ママ)」と卓話で明言していたのに、
いつのまにか、「容疑者が飼っていた猫の毛が付着していた」という話が出てくる、
その他にも、遺体発見現場付近(ヒノキ林)には刺した痕跡(血痕等)がない(殺害場所不明)と言っていたのに、いつのまにか、「遺棄現場からわずか数メートル上の林道で刺殺された」ことになっている、
世田谷事件でも、「平成●●年分の年賀状が消えている」と言っていたら、実は捜査員が持ち帰っていただけだった、捜査報告書の偽造も発覚する、
時系列的に合わないと思われるのに、14年経って、「おばあちゃんがマウスを落とした可能性」と言い始める、とにかく、そこにあってはならないものがなぜかそこにあったり、
あると言っていたものが実はない、ないと言っていたものが実はある、
事件の話を見ていると、この手の話が多いので、
世田谷の染料の話も、あまり真に受けないことにするのもありかなと。
そもそも、ヒップバッグ内にたんまり染料が付いていた、とのことですが、
そのヒップバッグには、おそらく包丁や黒ハンカチが入っていたのであり(想像ですが)、
長袖のラグラン(あるいはその上にエアテック)を着た手で、そのヒップバッグ内をまさぐっていたと思われ、
だとすると、ヒップバッグに入っていた包丁や黒ハンカチ、ヒップバッグに突っ込んだ腕(ラグランやエアテックの袖)、場合によっては、例の豚革の手袋の外側に、染料の粉が付いていても不思議ではないと思われるのですが、
なぜか、包丁や黒ハンカチ~ラグラン、あるいはエアテックの袖、豚革手袋の外側に染料が付いていたという話は、今に至るまで出ておらず、
また、ヒップバッグに突っ込んだ犯人の手には、真っ先に染料の粉が付くと思われるのですが、
その手で触れたであろう包丁や黒ハンカチ、エアテック(これは脱いで椅子に掛けられていた)、
豚革手袋の内側(犯行後に装着した形跡あり)、
その手で触れた礼君の首や口、
ドアその他、室内の各所、ポッポ公園側のフェンス上部、
風呂窓枠からも、染料の付着が確認されたという話はなく、
それが付着していたのはただ「ラグランの胸あたり」と「ガレージの棚」に微量であると、
この状況を不自然なものとしてみるとすれば、
もしかすると、ラグランの胸やガレージ棚の微量な付着分は、捜査の過程で、誤って付着させてしまったのかもしれない・・・
そう見るのもありではないかと思います。
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3について、このスリッパは、犯行当日に犯人によって使用された形跡のないものであると、
にもかかわらず、そこから犯人のDNAが採取されているということから、
「犯人は以前、客人として宮澤家に招かれたことがあったのではないか(犯人知人説)」
という見方もあると。
一方で、自分としては例によって、
「犯人は、宮澤家とは顔見知りの関係ではなかった」
という設定からスタートしてみたいのですが、
そもそも、「どこに置かれていたスリッパから、どういう形で犯人のDNAが出たのか」・・・そこがはっきりしない限り、何かを言いにくいと思うのですが、それでもあえて考えてみるとすると、
たとえ犯人が「宮澤家と何の接点もない人」だったとしても、犯行当日に犯人が使用した形跡のないスリッパから、犯人のDNAが採取される・・・これは、ありうることだと思うのですよ。
例えば、犯人は刃物をふるう過程で手に怪我をして、かなりの流血をしたのではないか、そう考えられていますし、狂ったように刃物をふるったでしょうから、犯人自身の血や汗、唾液、場合によっては皮膚片が飛び散り、体毛も落下したかもしれず、
そうしたものが飛散~落下した先に、たまたまスリッパが置かれていてそれに付着する、これはありうると思いますし、
警察的には、「そんな過程でスリッパにDNAが付着したのだろうな」と思ってはいても、
例の一年一度の話題作りの一つとして、「スリッパにも、犯人のDNAが付着していたよ」と、その他の詳細は伏せてリークし、世間をざわつかせ、風化の防止を試みる・・・
そういった流れもあるのでは、と。
また、「事件当日に犯人がそのスリッパを使用した形跡がない」という情報自体に、誤りはないのかどうか(少し履いてみてすぐやめた、とかの状況がなかったのかどうか)、
さらにいえば、それを報じた記事の正確性はどうだったのか、
例えば、一部記事で、「スリッパに付着した汗や皮膚などを鑑定したところ、犯人のDNAと一致した」とあったとしても、もしかするとそれは、
刑事:「スリッパから犯人のDNAが出てる」
記者:「血がついていたとかですか?」
刑事:「いやそうじゃない」
記者:「汗とか皮膚とか?」
刑事:「まあそういったものだ」
記者:「スリッパから汗や皮膚片ね・・・メモメモ・・・」
この程度のやり取りで記事化されたものだったかもしれず、
先の今市事件の例の通り、他の事件報道などでも、
あると言っていたものがない、ないと言っていたものがある、
こうだと言っていたはずなのに、数日後には矛盾することを書いていたりする、
事実は一つにもかかわらず、報道各社により、記事内容に矛盾が見られる・・・
それはよくあることで、
「犯人は宮澤家と顔見知りの関係ではない」という設定上の考えですが、
自分としては、このスリッパのDNA~の話は、
犯行時に、何かの拍子で偶然に付着した、
場合によっては、警察が誤って付着させたということで、
とくに重視はしないでおこうかなと。
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4については、不審者の目撃情報や、
犯行当夜にこれこれの不審な声を聞いた、という情報がいくつかある中で、
自分的に、気になるものを挙げるとすると、
・成城学園前駅近く(成城橋のあたり)で薄着をしていた男(事件前日、29日の午後3時ごろ)
・いわゆる飛び出しマン(事件当日、30日の午後11時35分~40分ごろ)
・吉祥寺の西友で柳刃包丁を買った男(事件前日、29日の昼ごろ)
・東武日光駅で手の怪我の治療を受けた男(事件発覚日、31日の午後5時20分ごろ)
この四つでしょうか。
(向かって左が飛び出しマン、右が吉祥寺西友男)
どれも怪しいですが、やはり場所的、時間的に見て、
怪しさという点では、飛び出しマンが頭一つ抜けているかなと。
捜査本部が置かれている成城署の元署長・土田猛氏が、退職後の2012年、
東京MXの取材に対して、飛び出しマンについて、「事件の最大のカギとなる目撃情報」と話していますし、
この目撃情報、たしか、車に乗った母親と娘2人(計3人、全員が目撃したかは不明ですが)による目撃情報なのですよね、
そこも、自分的には目撃情報としてポイントが高いと思いました。
あと、気になるのはこの飛び出しマン、
車の前に飛び出し、道路を横切った後、スケボー公園側の縁石に飛び乗り、
宮澤家のほうを振り返って見た、という話があるんですよね、
あれなども、何をソースにしたものか私は知りませんし、
確かなものかもわからないのですが、もしそれが本当なら、
男が見せたというその仕草は、
私としては、非常に気になるところではあります。
(9月11日追記: 「男が宮澤家のほうを振り返って見た」という話のソースは、どうも、2014年に放送されたテレビ朝日の特番のようです。)
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さて、様々な論点について感想を書き連ねてきたのですが、それはこのあたりにして、
ここで、事件現場周辺の変遷の様子が見られる写真を、下にいくつか並べてみます。
宮澤さん宅あたりについては、祖師谷公園拡張計画のため、地区住民の立ち退きが進んでいたという事情があり、そのあたり、実際どんなもんかと思い調べてみたものですが、よければ何かの参考にしてみてください。
■ 1941年7月27日
(日米開戦の約4ヵ月半前。黄色〇のあたりが、のちの宮澤邸の位置。のどかな田園風景)
■ 1947年9月8日
(戦後2年。日本国憲法施行。黄色〇のあたりが、のちの宮澤邸の位置)
■ 1963年6月26日
(みきおさん小学校入学の年---泰子さんは3歳年下。駒大の野球グランドができている。この年、世間では、吉展ちゃん誘拐殺人事件、狭山事件、草加次郎事件、ケネディ大統領暗殺事件などがあった)
■ 1975年1月19日
(黄色矢印の先が、のちの宮澤邸の位置<以下同>。その北側、ポッポ公園に隣接して赤屋根のアパートか寮のようなものが3棟見えるが、これは何だろうか。同じくポッポ公園に隣接した現在の「第2マンション薫」は、まだ建っていない。現在のスケボー広場、運動広場、テニスコートなども、まだできていない。周囲の住宅はそこそこの数が建っている。この年、まるか食品「ペヤングソースやきそば」発売、ローソン、マイクロソフト社などが設立された)
■ 1979年10月8日
(ポッポ公園に隣接する「第2マンション薫」が、すでに完成しているように見える。この年、三菱銀行人質事件、長岡京ワラビ採り殺人事件などが発生した)
■ 1984年11月22日
(みきおさんと泰子さんは、この約2年後の1986年12月に結婚した。結婚時、みきおさん30歳、泰子さん27歳)
■ 1989年10月20日
(現在スケボー広場として使われている広場や、その隣の運動広場が、すでに完成しているように見える。この年、昭和天皇崩御、「平成」開始。宮澤夫妻が姉夫婦と共にこの地に土地建物を共同購入したのは、翌年の1990年5月といわれる。この土地建物購入時点で、すでに、祖師谷公園拡張計画があったらしい)
■ 1992年10月10日
(宮澤夫妻がこの地に住み始めてから約2年半後。この年の4月に、長女・にいなちゃん誕生。礼君は2年後の1994年に誕生。すでに一部、立ち退きが開始されている様子も。ポッポ公園に隣接する、例の赤屋根3棟はまだ存在している。のちのテニスコートとかは、まだこの時点で整備されていないように見える。このブログ的には、金沢スイミングインストラクター殺人事件が発生した年)
■ 1997年6月30日
(事件の3年半前、宮澤家周辺の住宅の数が激減。ポッポ公園に隣接していた、あの赤屋根3棟も消えているように見える。入江さんの著書でいう、「自治会が成立しないほどに立ち退きが進み」とは、この状況を指すと思われる。運動広場のすぐ南側、テニスコートは出来上がっているように見える。この年、東電OL殺人事件、ダイアナ元イギリス皇太子妃、パリで交通事故死)
■ 2000年12月31日
(世田谷一家殺害事件、事件発覚の日。黄色矢印の先が宮澤邸。玄関前の通路を挟んで、向かい側に一軒、さらに直線で南に80mほど離れた場所に一軒が残っているが、ほぼ、野中の一軒家に近い状態。立ち退きが進んでいるとはいえ、世田谷の住宅地、隣家とは屋根続きで、一見して比較的大きな一軒家に見える建物、裏が公園・・・よくない考えを持つ人間に目を付けられる条件としては、揃いすぎていたといえるかもしれない。)
■ 2001年12月31日
(世田谷一家殺害事件発生から1年。近年、倒壊の危険性などから、建物解体の計画が持ち上がったが、結局はそれを免れ、現在に至る)