---------- 2月21日アップロード分↓ ----------
(事件を担当した当時の松井田警察署長・温井守夫氏)
※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います。※※
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ところで話が変わるのですが、
つい先日もフジテレビで、
『日曜ファミリア ~最強FBI緊急捜査!日本未解決事件完全プロファイル~』
という、いわば超能力~霊能力捜査系の番組が放送されたんですが、
ああいうのを一応は視聴したうえで、
それでもなんとなく、
「こういう取り上げ方は怪しからん」
と、言ってしまう(思ってしまう)方っていませんか。
私も心のどこかにそういう感情がないわけではないんですが、
でもまあ未解決の---犯人が野放しになっている---事件が
世間から忘れ去られる(風化)よりはいいんじゃないか・・・
などと自分に言い訳をしつつ、
毎回録画しては見ているんですが、
実はこの霧積の女性殺害事件(1972)についても、
かつて取り上げた心霊系の番組がありまして、
それはもう、いわゆる不謹慎さというのか、
いわゆる良識派の眉をひそめさせるであろう度合いというのが、
2010年代の現在のそれ系の番組の比ではないというか、
いまどきこれ系の番組が少なくなった(もっとやってほしい)と皆さん仰いますけれども、
そりゃこんな調子でやってたら、そのうち作れなくもなるわなぁ~、
という感じの番組で、
それはいまでもYoutubeで視聴でき、
しかも(ここが重要なのですが)、
遺体発見現場---おそらくは殺害現場でもある---の様子や、
当時この事件を担当した松井田署の署長(温井守夫氏)による現場での解説などもあり、
事件を考える上で参考になるというか、
遺体の状況や遺棄現場付近の様子をざっくり把握するのには役に立つ、ということで、
少し長い動画ですが、以下、2本紹介しますので、
時間あるときにでも、ご覧になってみてください。
冒頭のイントロが怖すぎるのですが・・・
https://www.youtube.com/watch?v=_wPZ5XTXXXM
(その1)
https://www.youtube.com/watch?v=9i3_3oCr2es
(その2)
動画に出てくる登場人物のウィキペディアや、画面中のテロップなどから推し量って、
おそらくこれは、フジテレビ『超常現象を見た!』というシリーズで、
1992~1993年にかけての放送分ではないか、と思います。
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遺体発見現場は、以下の地図の通りであり、
現在のグーグルストリートビューでは、次のようになっており、
(2012年8月の様子。向かって左側の道を進めば霧積温泉へ。右側の脇道に赤い車が駐車しているが、そこをほんの少し奥に下ったところに、遺体が発見された作業小屋があった)
同じ場所の2014年3月の様子は、こんな感じのようですが、
右の脇道の先は、地図上では次のようであり、
(川は霧積川。小屋のすぐ脇にえん堤があり、これは当時から存在していた)
これらに、先のフジテレビ番組の静止画像で補足してみると、
(画像中、赤丸の位置あたりに作業小屋があった。番組は1992~93年の放送と思われるが、この時点ですでに焼却処分されていたのか、現場には、灰のような痕跡があるのみとなっている。赤丸の位置の右上にえん堤が見えているが、作業小屋は、事件から数年前のこのえん堤工事の際に使われたのを最後に、しばらく使われていなかったという)
(先ほどのストリートビュー赤い車の駐車場所あたりから、作業小屋のあったあたりを眺めると、こういう感じかと思われる)
(在りし日の作業小屋。内部は6畳と8畳の構造。8畳間のほうから遺体が発見された。発見時や遺体の様子については後述)
(当時の松井田警察署長も出演して現場で解説。当時の記事によると、この人は当該事件の捜査本部長でもあったらしいのだが、ここまでする企画って最近のテレビには無いような・・・)
(番組の基本スタンス。今なら即BPOか)
(被害女性の霊に憑依される芸能人。先日のスウェーデンの霊能者、ヨルゲン・グスタフソン氏の”泣き芸”というのもありましたが・・・)
しかしこうしてみると、松井田署長のシーンはいいですねえ。
このように、実際に現場を担当した人に出演してもらって、
徹底的に現実路線で突き詰めたものを作ることができれば、
良いものになるような気がするのですが、
やはり難しいのでしょうかね。
---------- 2月24日追記分↓ ----------
さて本題に話を戻して、
Kさんの遺体が発見されたのは、
安中市の親子に最後に目撃されてから3日後の、「1972年8月16日(水)16時半ごろ」、
場所はやはり、上記親子による目撃地点から約1.5km---徒歩なら25分程度?---下ったところ、
現在の群馬県道56号沿いを流れる霧積川えん堤横の小さな作業小屋ですが、
小屋の位置やその外観は、すでに先の画像や動画で示しているので、
そちらを参照いただければと。
小屋内部およびその周辺の見取り図については、以下のようです。
間口4m、奥行7mの板張りで、6畳と8畳の構成、
もともとは、造林や木の切り出しの際に利用するものとして建てられたもので、
事件の数年前に真横のえん堤工事で利用されて以来、
しばらく使われていなかったとのこと。
8畳間にある西側の窓はガラス窓で、
遺体発見時、ここにはハエがびっしりたかっていたそうなのですが、
1972年(昭和47)8月17日付の上毛新聞記事によれば、この窓は
「こわされていた」
とあるので、
ガラスが割れている等の状況だったのかな、と想像します。
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遺体発見時のKさんの着衣は
紺色ノースリーブのブラウス、白のミニスカート、白の運動靴、
スカートがまくれ、下着に乱れあり、
その状態で、8畳間の南側西隅に、頭を南へ向けて仰向けに横たわり(先の図を参照ください)、
上からは数枚のトタンの波板がかぶせられていたとのこと。
(トタンの波板。この手のもので、遺体その他を覆い隠していた)
同じ8畳間の北側西隅には、
Kさんのカメラ、手編みの白い帽子、高崎駅のスタンプが押された旅行帳、
針が10時9分を指して止まっていた時計、下着類など、
Kさんの所持品40数点が、紺色の布製バッグに入れられ、
これも、上からブリキ板をかぶせられた状態で発見されたとのこと。
その他、8月18日(金)付の上毛新聞記事によると、
「血痕の付着した床板、腰板すべての場所をトタンで覆い隠している」
とあるので、床板の全面が覆い隠されていたかどうかは不明にせよ、
少なくとも、血の付いた個所は板で覆われていたのかなと。
(隠ぺいに使用された板の種類については、各資料で「トタン(の波板)」「ブリキ」「べニア」など一貫しておらず、その枚数についても、例えば、遺体を覆っていた板の枚数については「2枚」「数枚の」などバラつきがある。しかし要するに犯人は、見つけられないようにするためか、あるいは時間稼ぎのためかは別として、板でけっこう一生懸命隠したらしい)
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司法解剖の結果について、
遺体発見の翌日(8月17日)午前10時から、群馬大学法医学教室で、
同大医学部の古川研助教授---この方、ググると色々出ます---の執刀により、
約2時間にわたって解剖が行われ、
それによると、死亡推定時刻は「8月13日(日)の昼から夕方にかけて」、
(安中市の親子連れによるKさんの最後の目撃情報は、13日の14時ごろ)
直接の死因は、深さ8センチ、幅5センチにおよぶ左胸の刺し傷による失血死で、
心臓にまで達していたその傷は「アバラ骨三本を切るすさまじいもの」であり(上毛新聞)、
その致命傷に加えて、長さ7センチに及ぶ右頸部の切創、
左手首を貫通した刺し傷、同じく左手に、刃物を握ったとみられる防御創、
その他、背中、臀部、下腹部など、全身にわたり24ヵ所の刺し傷や切り傷が認められ、
下腹部の傷の一部には生活反応のないもの---死後付けられた傷---もあったとのことですが、
いずれにしても、当時この事件を担当した松井田警察署の元署長(温井守夫氏)が
先に紹介したフジテレビの心霊番組中で(1分38秒~)証言している通りの、
いわゆる「メッタ刺し」の状況であったようです。
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遺体発見に至るまでの経緯について、
8月16日(水)16時半ごろに遺体で発見されたKさんでしたが、
そこまでの経緯を、桐島卓氏のレポートや、当時の新聞記事をもとにまとめてみると、
まず8月12日(土)に「2泊くらいするかも」と言って
霧積温泉に向け出立したKさんが(「1~2泊の予定で出立した」とする記事もある)、
14日になっても帰らなかったと。
家族は心配し、
まずKさんの姉(当時28)が15日に霧積温泉に赴き、消息を探るも不発、
16日の朝には、Kさんの父親(当時55)が伊勢崎署に捜索願を提出、
それと同時に、家族や近所の人たちと私設の捜索隊を組み(総勢10名)、
16日中に、数台の車に分乗して霧積温泉に赴き、
そこで、前日から霧積入りしていたKさんの姉と合流、
姉と、東京小金井市から駆け付けた銀行員の弟(当時23)は、
碓氷峠から軽井沢へと抜けるハイキングコースを歩いてKさんを捜索、
一方で、父親らのグループは、来た道とは逆方向に、
霧積川沿いの林道(現・群馬県道56号)をゆっくりと車で下りながら、
沢や笹やぶ、橋の付近など、要所要所で停車しつつ捜索、
やがて16時半ごろ、車は問題の地点---例のえん堤横---に到達、
進行方向左手に小屋が見えたため、念のため車を降りて、道から小屋を見下ろしてみると、
西側の窓に大きなハエがびっしりとたかっているのを確認、
この状況を不審に思った父親らが小屋の内部に入ったところで、
変わり果てた姿のKさんを発見、
(遺体が発見された作業小屋は、標高700メートル程度、この場所の過去の気象データがないので、その目と鼻の先にあり、標高も割と近い軽井沢の当時のデータを、参考として掲載します。えん堤横の古びた小屋内部の湿度は、もう少し高かったかと想像しますし、気温や湿度、日数などが遺体の腐敗状況にどう影響するのかは知りません。上の表は、あくまで参考程度ということで。)
現在でも、霧積温泉の宿泊レポートには、
「霧積ダムを 過ぎたあたりで、携帯電話の電波は途絶え」とあり、
金湯館ではdocomo以外は電波が入らない、とのことですが(ソフトバンク、auは圏外)、
1972年の当時は、携帯の電波が入る入らないどころの騒ぎではなく、
金湯館にさえ電話が通じていない状況の中で、
遺体発見現場から直ちに警察に通報する手段は絶無にも思われたのですが、
この時の私設捜索隊は結構本格的で、
捜索人の一人である左官業・N氏(Kさんのご近所、当時42)が、
アマチュア無線を装備して来ており、
そのアマチュア無線により、
伊勢崎のN氏宅で待機していたN氏の次男(当時15、市立殖蓮中3年)に連絡し、
その次男が直ちに、2軒となりのKさんの自宅(母親待機中)に知らせに走り、
そこから、伊勢崎署 → 松井田署へと連絡が行き、
松井田署員が現場に急行、Kさんの遺体確認となった・・・
という流れだったとのことで、桐島卓氏のレポートによると、
実は、遺体が発見される前日の8月15日にも、
霧積温泉を目指してふもとから林道を上っていた一人の登山客が、
この作業小屋の近くで一休みし、弁当を食べた際、
小屋の窓あたりにぶんぶんとハエが群がっているのに、気付いてはいたらしいのですが、
(遺体が発見された作業小屋)
その時には、この登山客は、食事を済ませるとすぐに現場を離れており、
遺体発見には至らなかった、
とのことでした。