島根女子大生バラバラ殺人事件・その8(県境跨ぎと臥龍山) | 雑感

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9月21日追記:


島根県浜田市旭町今市

(赤枠で囲まれた薄桃色の部分が島根県浜田市、が臥龍山、水色の部分が浜田市旭町今市)


昨日は、


「11月4日未明に臥龍山山頂付近で長時間ヘッドライトを灯し停車していた(と見られる)車 = 犯人の車であり、遺棄の最中だった」


という仮定に立ち妄想を膨らませてみましたが、実のところ謎です。よくわかりません。


ヘッドライトの車が犯人の車でなかった場合、10月中には遺棄を終えていたことも考えられます。


では殺害時期についてはどうかというと、ヘッドライトの車が犯人のものであろうとなかろうと、殺害時期については謎だと思います。


「10月26日の行方不明直後に殺害された」のかもしれず、また10月中か11月に入ってからかは知りませんが、「遺棄の直前に殺害された」のかもしれません。


ところで添付の画像を見ると、臥龍山ってほんとに、島根側から広島側へ県境を跨いですぐのところにあります。


犯人が島根側の人間であるとすれば、もう、この図を見れば見るほど、「たとえ1メートルでも、県境だけは跨いでやる」という「意欲」みたいなものが見え隠れしているように感じます。


「被害者の失踪現場から大きく離れて、県境向こうで遺棄された」


という例は色々あるのでしょうが、思い出されるのは2005年12月に栃木県旧今市市で起きた「吉田有希ちゃん殺害事件」です。


有希ちゃんは旧今市市の木和田島で行方不明になり、県境向こうの茨城県常陸大宮市三美の山林で遺棄されました。

(失踪現場とおぼしき場所から常陸大宮市の山林までは、直線で約60キロ離れていました。)


「都道府県境を跨いだ犯罪は解決が難しい」

「それぞれ管轄の違う警察の捜査協力がスムーズに行かないことが多い」


嘘かホントかは知りませんが、そういうことがまことしやかに言われたものです。


この島根県浜田市の事件の犯人がもし島根人(事件当時島根在住)だとすれば、人口の少ない島根県内に遺棄すれば、仮に遺体が発見されたときに疑惑のほぼ100%が島根在住者に向けられることになり、そこから容易に嫌疑が自分に向けられることになるかもしれず、犯人にとっては非常に危険でしょうから、犯人的には遺棄に際して、


「県境を跨ぐ」


というのは絶対だったのかもしれませんが(くどいですが犯人=事件当時島根在住者、という仮定の下の話です)、もしかすると犯人は、「県境を跨いだ遺棄」で話題になった栃木県旧今市市の事件のことを(よく)知っていたのかもしれないな、と思うのは、島根県浜田市にも


「今市」


という地区があるようなのでした。

今回添付した画像中、水色の部分がその今市地区になります(浜田市旭町今市)。


「今市」という地名は日本の他の地域にもいくつかあるようですが(ウィキ)、この浜田市にもそれが存在しました。


島根人(浜田人?)である犯人は浜田市にも「今市」という地区があることを知っており、遠く栃木県旧今市市で起きた女児殺害事件についても


「同じ地名だなあ・・・」


などと思いつつ注目しており、「県境を跨ぐ遺棄方法」についても印象深く見ていたとすれば、いざ自分が遺体を遺棄しなければならないとなったとき、「県境を跨ぐ」というアイデアはごく自然に浮かんできたのかもしれない、という風に想像したりします。


以上、いつも通りの与太話ながら。



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9月20日追記:


2009年11月3日深夜_満月


しかし仮に

「2009年11月2日の平岡都さん公開捜査開始」

の実質翌日の深夜(11月4日未明)に臥龍山山頂付近で長時間ヘッドライトを点けたまま停車していた車が「犯人の車のもの」であり、しかも「遺体を遺棄していた」のだとすれば・・・


平岡さんは10月26日午後9時15分以降に行方不明になり、11月4日未明に遺棄されたということになるのですが、この場合、特に


「推定される平岡さんの死亡日」

「行方不明になってから亡くなるまでの流れ」

「なぜ犯人は遺体をバラバラにし、内臓を抜く、肉を削ぐ、焼く等の処理を加えた(と見られている)のか」


ということの理由として、どういったことが考えられるのでしょうね?


私はもはや考えたくもないので、そのあたりはこのブログをご覧いただいているそれぞれの方に考えていただくとして、


「犯人はどうして遺体を、例えば可燃ごみとして自治体に処理させてしまう、というようなことをしなかったのだろう?(もしかすると一部はそうしたのかもしれませんが)」


ということを考えてみると、(これも犯人=浜田人と仮定しての話ですが)可燃ごみとして回収させたくてもできなかった、という事情があったのかもしれず、例えば浜田市は2009年の時点から、


「可燃ごみ用の袋には自分の名前を書いて出す」


という決まりごとがあり、これでは人間の遺体などを入れて出すには危険であり(名前を書かずに出せばなおさら怪しまれるでしょうし)、ならば


「遺体とは分からないほどに細かく解体して出してしまえばいいではないか」


とも思えるのですが、例えば犯人が人的・地理的に平岡さんに近いところに存在しており、警察による任意の捜査協力くらいは求められるであろう立場にいたとすれば、


「一刻も早く遺体を手放さなければ」


という焦りに駆られていたかもしれず、つまり可燃ごみとして(袋に自分の名前を書いて)出し得るほどに遺体を細かくする時間的猶予が無かった、ということなのかもしれません。


またどうやら浜田市では、地区により可燃ごみ(not”可燃粗大ごみ”)の収集曜日が異なっているらしく、


A.「月曜日と木曜日に収集する地区」
B.「火曜日と金曜日に収集する地区」
C.「水曜日にも収集する地区」


ということらしく、AとBが最もメジャーで浜田市の大半の地区を占め、Cのみが例外(具体的には金城地区)ということでした。


平岡さんが公開捜査になった11月2日は「月曜日」でしたが、焦った犯人がこの日から遺棄のための解体(考えたくはないですが殺害も)を始めたとして、過去の女性によるバラバラ殺人事件などから推し量っても、大まかな解体は4~5時間内には終えたことだろうと想像します。


おそらく11月3日(火曜日)の朝頃でしょうか、遺体の各部位に囲まれながら、


「さてどうやって遺棄するか?」


と周囲を見回してみたところ、可燃ごみとして出すとしても、可燃ごみ用の袋は足りていませんでした。


なにしろ胴体の運搬用に昔(1995年ごろ)のNTT電話帳配布用のビニール袋を持ち出してきた(と推測されている)ほどの用意周到さに欠ける犯人のことですから、浜田市指定の可燃ごみ袋のストックは、足りていなかったのではないかと想像します。


袋がない以上、そもそも可燃ごみとして出すことはできません。


それでは浜田市指定の可燃ごみ袋(緑色)を買い足すかというと、買い足してそれぞれに(決められたとおり)自分の名前を書き、遺体の各部位が入った全袋を一括して出せばこれまた目立つかもしれないのであり、かと言って一括ではなく何週にも分けて出すということは


「遺体を相当期間、手元にキープし続ける」


ことを意味し、早く遺体を手放したい犯人としてはそれも避けたいのであり、またそもそも可燃ごみとして怪しまれず収集場に出し得る程度に(それが人間の遺体だとは一見わからない程度に)遺体を細かくする時間的猶予もなかった(と犯人は感じていた)と想像されるのであり、さらにいえば「曜日」の問題もあったのかもしれません。


もし犯人が、上のA~Bのうち、

「水曜日にも可燃ごみを収集する唯一の地区(C地区=金城地区)」

ではなく、浜田市の大半を占めるA~B地区の居住者であった場合はどうなるかというと、


犯人がA地区居住の場合 → 11月4日(水曜日)には可燃ごみの収集なし
犯人がB地区居住の場合 → 11月4日(水曜日)には可燃ごみの収集なし


ということであり、かと言って犯人は5日(木曜日)や6日(金曜日)まで遺体を手元に置くことも避けたかったのであり、そこで


「3日中か、4日未明までに処分できる他の方法を考えた」


ということかもしれません。


犯人は浜田人=海側の人間(という設定)ですから、東京や横浜、名古屋、大阪などならいざ知らず、山陰の小都市・浜田で


「自分の居住地に近い海に遺体を遺棄する」


などは最初から選択肢にはなく(危険すぎる)、かと言ってどこかに埋めるとしても適当な場所の心当たりはなく、また遺体の各部位をそれぞれ別の場所に埋めていく労力を想像すると嫌なのであり、


「なるべく手早く、楽に・・・」


と考えるうちピコンときたのは


「山奥の藪の中にばらまき、獣に食べさせてしまう」


ということだったかもしれず、と同時に思いついたのが、かつて1~2度行ったことがあり、その際、助手席の人と


「こりゃあ、クマがいるな」
「いるいる、絶対」


などの会話をし、ローカルニュースなどでも「クマの生息地」と聞いたことのある、県境向こうの


「臥龍山」


だったのかもしれません。


出発の準備を終えたのが、公開捜査開始の翌日、つまり11月3日の深夜だったでしょうか。


まん丸い月明かりの下を、臥龍山に向けてひた走ったのでした。


しかし犯人のこの山に関する知識は、あったとしても半端なものであり、その半端さが遺棄の態様の端々に出ているようにも見えます。


そもそもこの山は名水(雪霊水)や食用キノコ、光るキノコその他で、夜とはいえ、いつ何時不意の訪問者があるかもしれず、しかも山頂に続く林道は離合も厳しい約4.6キロの逃げ場のない袋小路であり、これらの危険にかんがみれば遺棄場所として臥龍山を選択するのが妥当だったかは疑問でした(頭部は早々にキノコ狩りの男性に発見されました)。


少なくとも遺棄に際して長居するべきではなかったと思われるのですが、犯人はどうやらそこにヘッドライトを灯しながら3時間程度も居続けたようであり、しかもその様子は、山頂付近を臨める地点にある麓の人からは丸見えになっていたのでした。



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9月19日追記:


2009カレンダー


この島根県浜田市の事件について、被害者(平岡都さん)の死亡推定時刻はウィキペディアによると、


「2009年10月26日~31日」


となっており、6日もの幅がとられています。


ウィキペディアにはそれへの補足的説明として


「遺体状況から、連れ去りに近い時間に死亡」


ということが書かれていますが、ここで言う「遺体状況」が具体的に何を指しているのか、また「連れ去りに近い時間」の「近い」とはどの程度を指すのかが分からず、また「連れ去りに近い時間に死亡」といいますが、実のところ「いつ連れ去られたのかも確定はしていない」のであり、もっと言えば「連れ去られたのかどうかさえも実は確定していない」というのが本当のところですので、この


「遺体状況から、連れ去りに近い時間に死亡」


という言い方は、とても曖昧な、かなり幅広い解釈の余地を持たせた言い方だと思えます。


この曖昧な言い方は、島根・広島県警による合同捜査本部がこういうリーク(発表?)をしたのだろうと想像するのですが、警察が平岡さんの「死亡推定時刻」に関して、これらの説明によって言わんとしたことは曖昧ではあるものの、その曖昧な説明の裏に見え隠れしている意図、つまり


「平岡さんの死亡推定時刻を、公開捜査開始(11月2日、月曜日)よりも前に設定したい」


というあたりの意図は、曖昧というよりは、露骨なほどに見えているのではないかと思います。


警察は死亡推定時刻を「10月26日~31日」としていますが、これを例えば、


「10月26日~11月2日(公開捜査開始日)」あるいは

「10月26日~11月3日(翌日未明に臥龍山山頂付近で長時間ヘッドライト)」


とすることに、なにか科学的に不都合なことでもあったのでしょうか?


仮にそういう不都合がなかったとすれば、どういう理由で死亡推定時刻を「10月26日~31日」の6日間と限定したのでしょうか。


標高1200メートルの遺棄現場には大小の肉食獣あり、肉食昆虫あり、降雪あり、遺体はバラバラ、内臓は抜かれ、ある部分は焼かれ、肉を削がれ・・・


という状況で、死亡推定時刻に6日の幅を持たせた、ということは理解できるとしても、その6日間を


「11月2日(公開捜査の開始日)よりは、前なんだ」


と言わんばかりに、「10月最後の6日間」に限定しているあたりに、「何らかの余計な意図があったのでは?」と勘ぐってしまいます。


ここで思い出されるのは、


「11月4日の未明(午前1時~午前4時ごろの3時間)に、臥龍山山頂付近でヘッドライトを灯して停車していた車が麓から目撃されていた」


という情報です。


このヘッドライトが目撃された「11月4日の未明」というのは、すなわち「11月3日の深夜」と言い換えてもよいと思いますが、さらに言えばこれは

「11月2日の公開捜査開始の翌日の深夜」

のことであり、まさにその夜に、臥龍山の山頂付近で長時間にわたりヘッドライトを灯して停車していた車が麓から目撃されていた・・・


ということになるのですが、このヘッドライトの目撃証言などは、実は警察は2009年の事件発生直後からとっくに掴んでいたと思われるのであり(この情報を世間に公表したのは事件から5年も経った2014年10月のことでしたが)、この「11月4日未明ヘッドライト目撃情報」を掴んでいた警察としては、


「11月2日の公開捜査開始」


が何かの重大な(下手をすると平岡さん死亡の)トリガーを引いてしまった可能性があるということを考えざるを得ず、そのことを恐れるあまり、嫌な言い方をすれば世間から


「公開捜査がきっかけで、平岡さんは殺されたのではないか」


と思われたくないあまりに、死亡推定時刻を「11月2日の公開捜査開始よりも前」すなわち


「10月最後の6日間(10月26日~31日)」


に限定したかったのではないか、などと想像しています。

(10月最後の6日間に限定するだけの確かな理由があるなら別ですが、仮にそういったものが特にないとすれば、なぜ、その6日間に限定したのでしょうか。)


しかし、公開捜査が何かの(場合によっては平岡さん死亡の)トリガーになったかどうかは別としても、悪いのは人殺しをした犯人に違いありません。


何を心配してなのか、警察は重大な情報を事件から5年も経って公開するようなことをしていますが、情報を抱え込み秘匿するのではなく、できるだけ公開して市民から情報を募るほうがいいのではないか、という気がするのですが・・・。



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先ほど「その7」の記事に「9月18日追記」という形でアップロードしようとしたら、「字数オーバー」ということでアップロードを拒否されてしまいました。

考えてみると「その7」に追記追記でやっておりましたので、仕方ありません。

やむなく今回は「その8」という新記事の形でアップロードさせていただきました。


9月18日追記:


臥龍山_林道一本道


「遺体をどこかに遺棄しなければならない」

「遺棄の最中やその直後を誰かに見られるのは絶対に避けたい」


とかの状況に立ち至った場合、その遺体を車に積み、その地方ではそうマイナーでもないらしい山の山頂をめざし、離合もキツそうな4.6キロにも及ぶ細道(袋小路、逃げ場なし)を延々と進み、

「山頂に約3時間も留まって遺棄をする」

というようなことをするものだろうか?


ということを自問してみると、やはり「そういうことはしない(危なすぎる)」と自答せざるを得ません。


「山頂に3時間も留まって・・・」の部分については、あのヘッドライトの車が犯人のものであったと確定しているわけではないのですが、それ以外の部分はすべて確定事項とみてよいと思います。

(徒歩やバイクによる遺棄の線もありますが、このブログではそれを前提としないということで。)


ストリートビューを見る限り、あの山頂へ通じる片道約4.6キロの一本道で仮に対向車が来た場合、深夜の細道(片側が崖)を延々バックするという恐ろしいことにもなりかねないのであり、対向車の運転手の記憶にも強烈に残るに違いなく、犯人はそのあたりどうするつもりだったのでしょう?


「隠密裏に遺棄を完了する」

という観点からすれば、往復10キロ弱の袋小路に入り込むのは危険過ぎる行為であり、どう言いわけしても取り繕うことのできない、マズいやり方であったと思います。


犯人は、臥龍山への車や人の出入りをコントロールできる身分ではないのですから、

「往復10キロ弱の林道の途中で誰にも鉢合わせなかった」

のは、単に(犯人にとって)ラッキーだったとしか言いようがありません。


「目撃されない」という点で最大限の注意が払われているとは言い難く、多分に偶然のラッキーに依存した遺棄の仕方だったと思います。


先日の高槻~寝屋川の事件で、犯人が平田奈津美さんの遺体を高槻の某駐車場に遺棄しましたが、その遺棄の様子は、夜間で不鮮明ながらも、隣接する解体会社の防犯カメラによって正面から捉えられていました。


防犯カメラの正面で事に及ぶという、この一時をもってしても(犯人について)粗忽な印象を受けたものですが、この島根の事件についても、


「地元ではファンも少なくはないらしい臥龍山の山頂へと続く、離合も厳しい袋小路みたいな林道を往復10キロ弱も走行した」


という、この一事から、およそその程度の思慮の厚さ(薄さ?)の犯人像が浮かんでくるのではないかという気がします。


ところで犯人は広島県の臥龍山に遺体を遺棄しているのですが、浜田市から県境を跨ぐとすれば、


1. 「鳥取県への県境を跨ぐ」

2. 「山口県への県境を跨ぐ」

3. 「広島県への県境を跨ぐ」


この三つの選択肢があると思うのですが、犯人がなぜ「3」を選択したのか・・・


ということを考えてみると、

地図で見ると浜田市から鳥取県の県境までは非常に遠く、それは150キロ前後の道程なのであり(往復300キロ超?)、では山口県の県境まではどうかというと浜田市からは片道50キロ超はあるのであり、こういう走り方をしていると労力は多大な反面、路上や道脇の監視カメラに補足される危険は増すのであり、しかも鳥取県(山口県)まで遠征して遺棄してみたところで、これらの2県はおそらく人々の意識の中では浜田市(島根県)と同じ


「日本海側の県(いわゆる山陰)」


というくくりになっているのであり(山口県については南半分が瀬戸内側ですが)、例えば浜田人が鳥取県まで遠征して遺棄したとしても、


「無理しちゃってw」 (島根人なんでしょ?)


ということにされてしまうのであり、それならということで山口県まで遠征して遺棄したとしても、


「な~に(笑)」(島根人なんでしょ?)


などと一笑に付されてしまい、結局この2県(鳥取・山口)に遺棄していたのではどう頑張ってみても、


「山陰人が山陰で拉致して山陰で遺棄した」


という範疇を出ることができず、結果として


「犯人は山陰人だ(特に島根の、浜田人が怪しい)」


という方向に自ら誘導してしまうようなものとなり、まさに犯人にとっては「労多くして益少なし」であることが想像されるのですが、これが


「3」

(浜田市から約28キロ、186号線一本で南下できる広島県への県境を跨いで遺棄)


という方法を採り、しかも


「遺棄現場近くの国道(186号、191号)を南下すると、その先に広島市がある」


という状況になってくると、一気に様相が変わってくるのではありませんか?

(人々の目が大きく広島側に向けられる)


犯人が浜田人であるなら、おそらく犯人自身の中にも上と似たような意識が働いており、人口の少ない浜田市周辺に遺棄することは危なすぎるので論外として、やはりどうしてもベタな方法ながら「県境を跨ぐべきだろう」と、そして


「県境を跨ぐなら広島側だ」


というのは、浜田人の犯人にとっては議論の余地もないことだったのではないか、と想像します。

(労が少なくして益が多い)


では広島県への県境を跨いだのが犯人にとって当然だったとして、なぜ「臥龍山」なのでしょうか?


これが全く謎なのですが、考えられることをいくつか挙げてみると、


1. 臥龍山への何らかの強いこだわりがあり、遺棄は臥龍山でなければならなかった

2. 広島側の山奥といえば車で山頂付近まで行ける臥龍山がすぐピンと来たので、そこに決めた

3. 知らない山だったがナビを見ると車で山頂付近(最深部)まで行けそうだったので、そこに決めた


おおむねこんなところかと思うのですが、「1」については


「臥龍山山頂につながる約4.6キロの、離合も厳しい一本道を走行した」


というリスキーな行動を実際にとっている以上、この犯人が臥龍山への強いこだわりを持っていたことは、あり得なくはないと思いますし、ストーリー的にも興味深いものになるのでしょうが、


「いかなるリスクを負ってでも臥龍山に遺棄しなければならない、そのこだわりって何だろう?」


というあたりが、私にはさっぱり想像がつきません(ギブアップ)。


また犯人は遺体を山頂付近の車両回転場にこれ見よがしに放置するでもなく、その遺棄の態様を見れば藪の中に隠したかのようでありますので(隠す意図はあった、と想像)、


「地元でそこそこ有名な山の山頂付近に、これ見よがしに遺棄して目立ちたかった」


というのとも違うのではないか、という気がします。


自分的には真相はやはり「2」か「3」ではないかと思われ、仮に「2」だとすれば、


「山頂に通じる約4.6キロの一本道(袋小路)を承知していながら、最奥まで入り込んで遺棄した(隠密裏に遺棄するという点では愚かな行為だった)」


ということが言えるので、要は「それなりの人物だ」ということが想像されますが、この点はもしかすると、公開捜査の開始により、急ぎ遺体を手放さなければという焦りが生じており、じっくりと広島側の遺棄場所の選定を行うことができなかった、という事情があったのかもしれません。


また臥龍山を知っていたとしてもその知り方は中途半端であり、秋には紅葉を見に大勢の人が訪れるであるとか、雪霊水や食用キノコ~光るキノコを求めて少なからぬ人が入り込んでくる、というけっこう面倒な事情にまでは通じておらず、基本的に

「山奥だから人はほとんど来ず、夜ともなれば人は皆無であり、遺体が見つかることもないだろう(動物も食べてくれるだろう)」

という程度の認識だったのかもしれません。


次に、仮に「3」だとすれば、山頂への離合も厳しい約4.6キロの一本道(袋小路)を最奥まで入り込んで遺棄をしたという点については、


「犯人はもともと現地の様子を知らず、臥龍山を目指したのはただナビで見る限り

”この臥龍山という山は車で山頂付近(最深部)まで行けるようだ”

”山奥だから誰も来ないだろう”

という理由だけであり、またナビの画面だけではその山頂に通じる4.6キロの一本道が具体的にどういう幅や形状の道であるかの実態が掴めなかったため、逃げ場のない袋小路のようなそこに入り込んでいくことの危険性が分からないままに車を進入させ、その細さに戸惑いつつも、気づけば最奥(車両回転場)まで入り込んでしまった」


と想像できなくもないのかな、という気がします。


いずれにしても犯人は、おそらく公開捜査の開始により、「遺体を早く手放さなければ」と、焦ったのではないでしょうか。


臥龍山で発見された遺体の各部位についても、一部は肉が不自然なまでにきれいに削ぎ落とされているかと思えば(左大たい骨)、内臓を抜かれ焼かれているような部分もあり(胴体)、かと思えば足跡やイボイボ軍手の痕が付いているものもありと(顔面)、緻密なような杜撰なような、よくわからない状況でした。


しかし実のところ犯人としては、最初はこの事件の約1年半前に起きたあの


「江東区マンション神隠し殺人事件」


のように、可能な限り完璧な遺体処理を行いたかったのかもしれず、あまつさえ一時的にはその方向で着手さえしたかもしれないとも思うのですが(その犯人なりの”努力”の片鱗があの肉片の付いていない左大たい骨や、燃やそうとした形跡のある内臓の殆どない胴体だったのかもしれません)、公開捜査の開始によって、いつ自宅のドアを刑事がノックするかと思うと気が気ではなくなり、


「遺体を早く手放す必要がある」


と不本意ながらも決断し、ナビを見てだか、過去の1~2度の臥龍山行きの経験に基づいてだかは知りませんが、とりあえず遺棄場所を


「広島側への県境を跨いだところにあり、しかも車で山頂付近(最深部)まで行ける臥龍山」


と(さして深い考えはなしに)決定し、焦っていたので、他の「埋める」「水没させる」等の遺棄方法を検討するとか、遺棄場所として他の候補地を検討してみるとかの余裕もなく、11月4日の未明(つまり実質的には公開捜査開始の翌日深夜)にはそそくさと臥龍山に赴き、袋小路になっている4.6キロの細道をひたすら登り、遺体を山頂付近の藪の中に適当にバラまいた、


ということだったのかもしれない、などと想像します。


いずれにしても、見つかった遺体の状況が、あたかもやりかけの仕事を途中で放り出してしまったかのような様相を呈している(と見えなくもない)、というのは、犯人の側に


「一刻も早く遺体を手放さなければ」


という事情と焦りが生じていたせいかもしれない、などと思ったりしています。