続いて作者は、「股割れ」の素性を語り始める。
股ワレハ 富田デ生レテ 学こうヲデテ
(股割れは、富田で生まれて、学校を出て)
定説通り
「股割れ」=「売春婦の別称」
と解すれば、この部分は、
「売春婦は富田で生まれて学校を出て」
と読めるが、しかしこれでは、
「会社員は富田で生まれて学校を出て」
というのに似て、主語の特定が十分ではなく、意味は通じるが日本語としては変かもしれない。
これに対して、「股割れ」を「個人名」を指すものだと捉えると、この部分は、
「●●●●(個人名)は富田で生まれて学校を出て」
と読めることになり、日本語としての違和感はないように思う。(だから正しい、ということではなく。)
ところで、「股ワレハ 富田デ生レテ」と似た表現は他の箇所にも出ており、それは文書終盤の、
「股ワレワ ダレカ、ソレハ富田で生レタコトハマチガイナイ」(股割れは、誰か? それは富田で生まれたことは間違いない)
というものだが、つまり、
「股割れ」=「富田で生まれた」
ということが、文中2度に渡って念押しされており、そこに不自然なまでの強調を見てとることもできるかもしれない。
そもそも妙だと思われるのは、普通、
「キムタクとは、誰か?」
と問われたときに、
「それは東京で生まれたことはまちがいない」
と答える人はいないのであって、
「キムタクとは誰か?」と問われれば、普通は誰もが
「それは木村拓哉だ(そしてSMAPのメンバーだ)」
と答えるのである。
ところが怪文書の作者は、文中2度に渡って、「股割れは、富田で生まれた」ということを持ち出しており、特に2度目は、「股割れは、誰か?」という核心に迫る問いを自ら発しながら、
「それは富田で生まれたことは間違いない」
などと間の抜けた自答をしている。
この白々しいとも取れる自問自答の裏に作者の意図があるとすれば、やはりここでも、作者は何らかの「個人名」を暗示したかったのかもしれない。
何度も個人の名前を検討するのは恐縮だが、文中2度に渡って登場する、
「(股割れは)富田で生レ」
という表現に着目すれば、そこに意図された名前としては例えば、
「富●生子」
「富●生江」
「生●富子」
「生●登●子」
「生●●江」
「生●登●恵」
などが考えられるかもしれない。
さらにいえば、
「股ワレハ富田デ生レテ学こうヲデテ」
「股ワレワ ダレカ、ソレハ富田で生レタコトハマチガイナイ」
などという書き方をしているところに作為を見るとすれば、先の名前の中でも、
「富●生子」
「生●富子」
「生●登●子」
あたりが有力かとも思われるが、自分で書いておいて言うのもなんだが、さすがにこの解釈は厳しいかもしれない。
いずれにしても、こう解した場合は、作者のいう、
「コンナコとヲシタノハ トミダノ股割レトオモイマス」
ということの意味は、まず定説どおり、「股割れ」=「売春婦」と解した上で、
「こんなことをしたのは、売春婦の富●生子だと思います」
とするか、あるいは
「こんなことをしたのは、富田の売春婦、生●登●子だと思います」
などと解することができるかもしれない。
仮に、これまでの記事で列挙したような名前の人物が、行方不明女児の周辺に実在したとすれば、女児の両親には、この怪文書を読んで何かピンと来るものがあったかもしれず、
少なくとも怪文書の作者は、女児の両親がこの文書を読んで、何かに感づくことを期待していたフシがある。
なぜなら作者は、文書終盤で、
「(自分は股割れという人物について、文書の中であれこれ述べてきたが)確証を掴むまで、捜査機関に言うな。気長に、遠まわしに観察すること。事件が大きいので、決して急ぐ手はないと思う」
などと助言している。これは、裏を返せば、
「犯人は、あなた方から遠まわしに観察可能な人物だ」
という意味にも読み取れる。
もちろん、「確証を掴むまで捜査機関に言うな・・・」の部分が、両親に事件の追及を諦めさせるための(真犯人による?)陽動作戦、という可能性もあるとは思うが。
その5へ。