以前うちに来てオイオイ泣いて帰ってしまった人の話を書いたと思う。
心が壊れてしまったらしく、その後しばらく精神科のクリニックで暮らしていたようである。

 

日本ではイタリアには精神科の病院はない、と言われているが、日本のようないわゆる病棟がないだけであって、治療する場所はあります。行ったことないけど。

 

しばらく入院して帰ってきたらしく、3日前久しぶりにあったら非常に元気そうであった。

それはよかった、と思ったが、治っても普通の人ではないのである。

彼女は非常に曲者である。

 

昨日の夜、久々に一緒に食事をしてそれを存分味わう羽目になってしまった。

 

彼女は恵まれない犬や猫を救うボランティアに身を捧げている。その献身的なケアには頭が下がる。

今一緒にいる犬は3か月クリニックで治療をするほど弱っていた、路上に捨てられた犬である。

そこまでできる人はなかなかいないので尊敬するのだが、彼女を支えるロジックはなかなか捻くれている、と私には思えてしまう。

 

私達が近隣の人からネコを譲ってもらった、と言うと、

 

「なぜもらったの?大変な間違いを犯したわね。その猫は母猫を避妊施術しなかった人が責任を持って飼うべきよ。あなたが背負うものではない。あなたが買うべき猫は、センターにいるのよ」

 

と言う。

彼女曰く、全世界の犬と猫は、全て避妊手術をすべきなのだそうである。

交尾をすると病気になって死ぬので、猫や犬の幸せのためにはするべきなのである。避妊手術をした猫や犬たちがどんなに幸せに暮らしていることか!

避妊手術をせず、子猫や子犬を産ませた飼い主は、どれだけ罪深いことをしているのか、生まれたすべての子猫子犬を引き取り、育てるべきで、人に譲ってはならない。
ネコや犬がほしい人は、センターに行き、センターに引き取られた動物たちを救うべきである。

それなら最初に避妊手術すべきなのは人間かもですね、と言いたいところ。

「もし妊娠したことが分かったら、避妊手術をすればいいのよ。生まれてはいけない子たちなのだから」

と子供に話し始めた時に、我慢の限界が来てしまった。

お酒が入っていたこともあるが、それ、ちょっと待て、である。

 

それではセンターにいる動物は救っても、誰かの家で生まれた動物は殺した方が良い、と言うことになるではないか。

「それは納得できないわ。センターの動物と近所の動物たちと、命の重さが違う、と言う意味?」
「そうよ、違うわ」

彼女はハッキリそう言った。

命の重さを、一体誰が決められるというのだろうか。

「私ができるのは、たまたま出会って一緒にいたいと思う子と一緒に暮らすだけ、センターであろうが、近所の人から譲った子であろうが、関係ない」

「違うわよ!あなたは近所の人を啓蒙するべきよ。避妊をさせるように話をしてちょうだい」

「それは私の仕事ではないわ。あなたがすればいい。私は聖人でもないし、世界を救えるべきではないもの」

「もちろん私はしている」

そこまでかなり熱くなって声高に話をしつつ、自分に言い聞かせる。

 

こんな不毛な話。掘り下げる価値もないのに。

頭のおかしい人と議論してもしょうがない。

確かなことは、そんな啓蒙活動を必死にしても世界中の犬猫を救えるわけではなく、結局奪われる命の方が多い、ということだ。
そして、それを知ってなお、例え少ない数であっても、幸せに満ちた時間を一緒に過ごせるように勤めるぐらいしか、自分には力がない、そんなちっぽけな存在であることも確かなのである。


 

40代後半に入ってから、生理前後に激しい頭痛がするようになった。

 

一昨日の夜も一時間ごとに目が覚め、徐々に首の血管が詰まって行くように感じ、朝起きるとはたして頭痛がする。

 

どうして生理と頭痛が関係するのか、ちょこっとだけ調べてみたが、やはりホルモンがイタズラするらしい。

 

頭痛を持っている女性は全体の半数、そのうち頭痛と生理痛が関係している、と思っている人がほとんどいない、と言うことに驚いた。

 

ここに生活していると月の満ち欠けも毎日観察しているので、生理と月がはっきり関係を持っていることが分かるし、月が満ちてくるにつれて自分の体調も変化してくるのが分かる。

満月が近づくと憂鬱になる。

 

今回の生理は満月と少しずれた。

最近そのずれが大きく前後に動くようになった。年のせいだと思う。

8月15日、お盆で皆さん故郷に戻られているのだろうか。

私はこの時期にお盆に田舎に帰ったこともないし、何かを家でしたこともない。

皆さんがそれぞれ家族で過ごしている様子を見ていると、なんだかぽっかり穴が開いているような感じがする。

 

そう言えば盆踊りも全く重要ではなく、子供の時に浴衣を着せてもらえなかった理由は何だったのだろうか、と今更思うが、それこそ今更聞けない話である。経済的な理由とは違うと思う。

40年近くたって改めて「そう言えば自分は着たくてしょうがなかったんだよなー」と思い出す。

うちの子のようにしつこくしつこく食い下がってねだったらもしかしたら着れたのかもしれない。

 

そして終戦記念日、と言うことで、また色々と考えさせられるのは毎年のことで、

そしてイタリアでは「聖母昇天祭」ではあるが、それとは関係なく普段とほぼ同じように仕事をした。

もうすぐ怒涛の収穫が始まる。

子供の友達の誕生日会の合間を縫って、夫のポロシャツを買うことができた。

たかが一枚のシャツを買うのにも苦労する。

誰も私がこんなに買い物に苦労しているとは思わないだろう。

 

自分も何かないか物色、一枚、良いかもしれない一枚を見つける。

素材は綿がほしい。少なくても自然な素材を。

どこに行っても化学繊維なのでそれが嫌なのである。

暑くていつまでもダメにならないか、着心地が良くてもすぐにボロになるのどちらかだ。

 

着て見てこりゃダメだ、と思った。

穴がいっぱい開いている生地で、下着が丸見えである。下着を見せないために中に何か着たら暑い。

イタリア人は気にしないだろうが。

これを買ってしまったら何を着るか悩むに違いない。

お金払って悩みを買っても仕方がない。

結局滅多に着ないのは目に見えているので、

自分の分は諦めた。

今度自分の物を探せるのはいつだろうか。

うちの子は日本で言うと3年生だが、半年早く始まったこちらの学校はもう3年生は終わり、9月から4年生である。

かなりの勉強嫌いで、夏休みが始まった6月からほとんど勉強をやっていない。口酸っぱく言ってもやらない。

忙しい、疲れた、明日やる、言い訳ばかりである。

 

勉強嫌いで日本のように九九がないイタリア、九九は覚えるしかないおっくうな課題で、未だにまともに九九が言えない。

車で出かけると、車内で思いついたらテストをするが、昨日は返ってきた答えが、

「ママはイタリア語もろくに話せないくせに」

だったので、一呼吸おいて家に帰って車を降りてから火山大噴火である。

 

あたしがイタリア語がダメなのは本当のことだが、それは彼女が九九を覚えなくていい理由にならない。

どうしてこう言い訳と口答えばかりがつらつらと出てくるのであろうか。

思い出すのはこの間いけしゃあしゃあと、フォトショップで合成した写真を送ってきたマルコ青年のことである。

口ばっかり、中身のない人間に腹の立つことの多いイタリアで、自分の娘が同じようなことをしているのが許せない。

やることやってから口を利け。

 

相当絞っても堪えない、ふてぶてしさも、どこでも転がっているそこいらのイタリア人そっくりである。

のど元過ぎたらケロッとしているのも腹が立つ。

今まで適当に流し過ぎたのかもしれない。反省を込め、昨日から日本式イジメでネチネチ・キリキリ締め上げたる、覚悟せえよ、と鬼母になる覚悟でいる。

 

あんたんが勉強が嫌いなのはわかった。だが、今度こそ、せめて九九位は覚えて新学期を迎えてくれ。

前から電気がガチャガチャついたり消えたりついたり消えたりすることがあって、

夫は隣の爺さんが溶接をやるからこっちの電気が減るんだという。

確かに溶接と言うのは電気を非常に食う。

うちでやっても似たような現象は起こるが、それにしてもこんなのしょっちゅう溶接ってやるもんなんか、と思った。

夫は隣の爺さんが溶接好きだからしょうがない、というが、なんだか納得しがたい。

 

そもそも天気が悪くなったり風が出ると始まる。

爺さんは、

「天気が悪くなったからそろそろ溶接でも始めるか」

とタイミングを計って溶接をしているということなんだうか。しかし、天気が悪いと溶接をしたくなるのはどういうことだ。

そもそもなんためにやっているのか。ビルでも建てるつもりだろうか。

 

一昨日、そのガチャガチャがメチャクチャ激しくなって、こんなんやられたらうちの家電全部ぶっ壊れる、と言うぐらいのガチャガチャぶりだった。

これはさすがにまずい、と思い、全ての家電の電源を抜いた。

 

そして電気会社に電話すると女性が出て、

 

「近くで工事していますからその影響です。しばらく待って下さい」

 

と言う。

しかし、500メートル離れた所に住む義姉の家はガチャガチャしていない、と言う。工事していたのなら、義姉のうちも同じ現象が出るはずである。

 

夫が家の見回りをすると、うちと爺さんの家の境目にある森の木に、電線が絡みついていた。

もう一度電話をして電気会社に来てもらうことになった。

 

その頃にはガチャガチャどこか、電気は完全に無くなってしまい、夕飯時なのに家の中は真っ暗である。

ようやく来たのは7時近かっただろうか。

それでもヨーロッパの夏、外はまだ明るい。窓の小さい家の中だけが暗いのである。

 

若い男性二人であっと言う間に枝を落とし、行ってしまった。多分よくある話で手慣れた物らしい。

 

夫は爺さんに謝りに行っても良いぐらいだと思うが、確かにその日も溶接をしている音が聞こえてきた。

何を作っているかは、未だに謎である。

 

 

 

脳科学者の中野氏話をここの所ずっと聞いて入る。

大体なるほど、そうなのか、と納得したり、自分を分析したり、今の世の中を俯瞰するのに役に立ちそうな知識なのだが、

人生相談で「能力がなくてイライラさせれる同僚がいるがどうしたらいいか」、と言う質問に、

サンクションするしかない、と言う結論は、どうなのかな、と思った。

要するに、相手にはっきりダメなところを伝えて変えてもらう、あるいは上司に相手のダメなところを言って制裁を加えてもらう、ということらしい。

彼女曰く、それ以外イライラを解決する方法はないらしい。

 

うちも今、何度言っても仕事をやってくれない人が居て本当にこまっている。

お前はダメだ、と言ったらそこで関係性は終わるので、どうやる気にさせるかが問題なのだが、相手をやる気にさせるのに「制裁」と言う言葉は合わないと思う。

飴とムチ、おだててやらせたり脅したり、そしてそれでもできないことはしゃあねえな、と飲み込んだり、自分が背負ったり、人間の社会も脳が出来上がったころよりかなり複雑で面倒になっているなんじゃないだろうか。

先週の水曜日からの大型イベントが終わった。

終わって見て色々感想がある。

自分たちのことは置いておくとして、イベント自体は大体はうまく行っている、と思うが、完璧ではなく、足りないことも多く、そしてぞっとすることもあった。

 

気が付いたには、開催3日目、友人達と出かけた時のことである。

町全体が会場になっているが、その中でもゆったりと過ごせる場所が、町のまんなかにある博物館である。その中庭が食事処になり、

去年までは博物館は無料開放されていて、トイレも使えた。全部で4か所ある。

 

ところが今年は空いていない。

トイレはあることにはあるのだが、たった1か所。外から来た人には非常に分かりにくく、使いにくい。私は使わなかったのだが、後から聞くと電気がつかなかったそうである。

 

開催5日目に同じ場所に行き、トイレはどこが使えるか会場の聞いてみた。

するとここのトイレは使えないので、外のバールを使え、と言う。

そんなバカな話はない。

 

そして同じくその日も博物館は空いていなかった。

 

他の場所にポータブルトイレがあったか、と言うと、そうではない。

ではあの何万人もの人間が皆どこで用を足したのであろうか。

 

今年最大のなぞであった。

不安的中なのか、嵐がやって来て、我が家の庭にある大木が真っ二つに折れた。

こんなに恐ろしい風や雨を経験したことがない、と言うほど酷かった。

 

私などまだ家の中にいたから良かったのであって、外にいた人たちは生きた心地がしなかったそう。

風で車が飛ばされるかと思うほどの強風で街路樹が目の前で倒れたりしたそうである。

 

終わって見て、大木の折れた様子を見るほど気持ちが沈むものはない。

 

これから先、一体どうなって行くのだろう。

皆平気なふりをしている。

が、地球環境は絶対におかしい。どこまでついて行けるんだろうか。

 

夫が言う。

「農業って言うのはそういうものだから」

と。今までだってあったんだから。まだまだ対応できる、と。

 

丁度長野で農家を営む友人からも話が聞こえてくる。

こんな暑さは経験したことがない。

それでも自然と調和する道を探さなければ、と言う。

それが農業だから、と。

 

まだ頑張れるんだ、と自分に言い聞かせ、不安をかき消すことにする。