死産をひとくくりにしてはいけない | 天使ママ ゆっくりゆっくり頑張るぞ

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不妊治療~顕微受精~妊娠。
システィックヒグローマの診断をうけ、家族一丸となって戦ったブログ。
21週1日で人工死産に。
今は不妊治療はお休みし、復職にむけ、日常をかいている気の向くままに書いている天使ママのブログです。

こんばんは。

長らくブログを更新できず、
月日がたっておりました。



仕事やプライベート
いろんな変化があり、なかなか記事に
タイムリーでかけなかったのですが、



今日の出来事は、
仕事での出来事の一つなのですが、
自分や同じように感じられた方
もしかしたら、いるのでは?


私は心療内科に受診し、
少し理解できたこと

それを自分の中に残したいので、記事にさせて頂きます。







私は医療職です。


本日、死産のされた方が私の職場にやってきました。

私は自分の職場で産むことを選択し、
専門の先生に妊娠、産後も担当医でした。


死産のとき、
病院側はできるだけ休める環境

個室を選択してくれます。


私の職場は、産婦人科関係なく
個室が埋まっていれば、
他の診療でも、死産をされたご両親を
引き受けます。

もちろん、診察や処置は
産科での対応となりますが、
入院する部屋として、他の部署でも休める条件を優先としています。


私は復職して、自分の職場で
今まで一度も
死産をされたご両親をお見かけしたことはありませんでした。


たまたま、今日
死産のご家族が自分の部署にやってくることになりました。

部署にくるという情報をきいてから、


そわそわした気持ち
落ち着かない
ここの場にいたくない
違和感を感じていました。


前より自分の感情を冷静にみられるようになってきたのですが、勝手にフラッシュバックしていました。

ましては自分の時の担当医。


私の職場は妊産婦は、通常と違う色や形態のパジャマをきています。


服装をみて、
回りと違うのが一目瞭然なので、
職場にきたことを
目でも確認し、
自分もきていたなと少し記憶が蘇ってきました。
ご両親の顔までは見ることはできず、


このご家族は今はどんな気持ちなのかなと思いながら、
自分達夫婦の出産の記憶を呼び起こしていました。



さらに職場にきて
子供に会いに行きたいんです

と、会話をきいてしまいました。


わかるんです。
死産の後の経過を、

蘇るんです。
あのときの自分のことを。

鮮明に蘇ってきて、
その場からいられなくなりました。



息子を産んだことは
誇りに思っています。

でも、やっぱり声のない出産

まもなく二年が経とうとしていますが、
そのかたを通じて、
人の体験から自分の記憶が
蘇り、さらに気持ちがコントロールできなくなり
泣いていました。


でも、なんの涙なのか
私は息子を産んだことは悲しいことではないのに
この感覚は息子を産んだことを悲しい記憶になっているのか、理解ができなくなりました。


このまま、仕事がおわり、休んでもリフレッシュしても感情は変わるわけではなく、

仕事柄、今後も起こりうること、
今は、どう気持ちと向き合えばいいかわからず、

すぐに心療内科に行ってきました。


先生に事柄を話ながらも
涙がとまりません


涙がでるくらい、まだ私は感情をコントロールできていないのがわかりました。


先生は、今日のできごと、仕事柄辛かったこと、
今も涙を流しながら話していること
当たり前の反応だと話してくださいました。


子供をなくすということは風化するわけでもなく、場数を踏めばなれてくるものでもないと。

親が子供をなくすということはどれだけ悲しいものか計り知れないから、なく反応が正しいとおもう。と言われました。

ただ、フラッシュバックと思い出は違う。

今の私は人の体験を通じて、自分の記憶を呼び起こし、自分の感情がコントロールできない
それがフラッシュバック

思い出したいときに、思うことが思い出

思い出になれたらいいんだろうなと。

死産をひとくくりにまとめてはいけない
今回のタイトルのことをアドバイス受けました。


死産も

生みたくてうめなかった
病気があって、うめなかった
生みたいけど、生めない理由
望んでいない妊娠

家族背景もちがえば

死産が全く自分と同じ体験しているひとはいないとおもう。
と言われました。


確かに今回のご家族がどんな背景で
死産の形になったのか私は知りません。


知る気持ちにはなれませんでした。


ひとくくりにせず、他者の体験を自分と同じだと感じるのは違うと思うと。


死産という言葉は一緒かもしれませんが、
自分と他者の事柄をリンクさせるのではなく、

それは、違う事柄と考えられるようになったら
自分の体験に重ねず
寄り添っていけるのではないかと言われました。


今、寄りそうことをしたいわけではありません。
先生もそうして欲しい意図でお話はなさっていません。


我が子が生きていたことを認めながら
違う事柄として、
見られる感覚がまだ私にはできないんだと
わかりました。

間違っていないし、まだ受け入れられないときはその自分を受け入れようと。


ただ、いつか、思い出になれるように、
私もいつか寄り添っていけたら


息子を産んだことを本当に誇りにおもえるときなんだなって感じた言葉でした。


でも、頭と心は足並みはまだまだゆっくりなので、今は心の反応を無理やり否定や見失うことなく、振り返り、受け止めていきたいと思っています。



長文にお付き合いくださり
まことにありがとうございました。