生と死のはざまにラブホテル

 

ラブホテルで働き始めたときの私は、毎日の95%を自宅のベッドの上で過ごしていた。朝が来るという現実に耐えられず、感情がなくなり、全てのことに興味関心が持てず、寝られるだけ寝ていたいと思っていた。

そうなってしまったのは、大学院での研究活動にある。

 

映画の世界とバイト日々が重なった

バイトといっても、1ヶ月半の業務を全体的に体験するインターンとして採用してもらい、けれど、多くの時間を清掃やフロントの業務を行うスタッフの人たちと同じように働いた。
 
覚えるボタンや作業は多くなるが、頭を使わなくてもいいようにPCとは違ってボタンに全てが書いてあるのだ。ラブホテルのシステムは使いこなせても、パソコンのコピー&ペーストを知らないフロントスタッフの存在がその象徴だった。
 

淡々とした世界の住人

『PERFECT DAYS』は、ドイツの名匠ビム・ベンダースが、役所広司を主演に迎え、東京・渋谷を舞台にトイレの清掃員の男が送る日々の小さな揺らぎを描いた映画だ。
 
「こんなふうに生きていけたなら」が副題であり、ルーティンの中にある毎日の小さな変化を愛おしく感じながら過ごす生活、そんなものを描いていた。
 

「外から見る分には素敵な生活のように見えるけど、実際に平山のようにトイレ清掃をして低賃金で暮らそうとは思えない」

「TOKYO TOILETの広告的な側面があり、トイレの清掃員を過剰に美化して自分達に都合のいいようにしているだけなのではないか、本当にこんな人間がいるのか」

 

「無為」にみた、いくばくかの希望

そんな私には、映画『perfect days』の描いた平山の世界がそのまま真っ直ぐに刺さった。なんでも出来ること、能力があることを示し続け、変化に遅れず成長し続けなければいけず疲れ果ててしまう世界ではなく、淡々とした日々を送ってこの世をゆっくり愛しながら生きられる世界、というふうに、メタ的な視点から批判する間も無く真っ直ぐに届いてしまった。

 

 

 

その誰かとは、私を含めた、絶えず能力を発揮し、成果を求めて活動し続けなければならない、という能力社会に生きる現代人である。そんな現代人が想像する理想的な無為を表現したのがこの作品だったのではないか。

 

そして、<自分がないからゆっくり行動せず刹那的に生きる。きみたちの勤勉とは逃避であり、自分自身を忘れようという意志である>とニーチェが語るように、人は自信がないと無為を選べない。 その結果、計画、自発性、動機付けといったものだけに突き動かされながら忙しなく生き急いで、大学院での私のように、燃え尽きてしまうのだ。

 

ラブホテルのバイトに集まるほとんどが、高給と引き換えに高いスキルや能力を求められる仕事を選ぶことすらできない、“いろんな人”たちが多い。平山のようにたくさんの選択肢がある中でわざわざトイレの清掃員を選び取るような人間はとてもレアだ。

 

けれど、平山ほど高尚な生き方をせずとも、選択肢がそれしかない中で最初からラブホテルでバイトしているいろんな人は、私よりずっと健康そうに見えた。少なくとも、この映画を見て刺さる必要がないほどには健康だろうと。