三代揃ってのご襲名披露公演を前に、松本幸四郎家のこと、さらっておかなくてはと自分で勝手に課題を課しております。

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歌舞伎を見始めると同時に図書館で片っ端から歌舞伎と名のつく本を借りて読み、これは持っておいたほうがいいと思ったものだけを買うようにしています。このところその箍もはずれがちではありますが。

本のなかに埋もれて暮らしたいというのか幼い頃からの憧れでしたが、管理できずかびやらほこりやらで傷めてしまった蔵書を悉く始末した後、本は極力増やさないと決心しましたので。その代わりといってはなんですが、本の好きな孫には好きなだけ買ってます。

左の二冊を参考にしています。
中川右介著「歌舞伎 家と血と藝」(2013年発行)には團十郎家、菊五郎家、歌右衛門家、仁左衛門家、幸四郎家、吉右衛門家、守田勘弥家の七家の家と血と藝の継承の歴史が描かれています。時代としては明治以降現在まで。

読みかけの「歌右衛門の60年」も今日こそ読みあげたいと一緒に並べました。

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明治以前、初代幸四郎のことからは悲劇の名門團十郎十二代も参考にします。50頁参照。
①初代松本幸四郎は延宝二年(1674年)
下総国香取郡小見川(現の千葉県香取市)で生まれる。久松小四郎、松本小四郎を経て幸四郎となる。ちなみに初代團十郎は1650年に生まれ、1673年初舞台〜1704年没。

②初代の養子七蔵は二代目松本幸四郎となりのち四代目團十郎になる。

七蔵は正徳元年(1711年)堺町の茶屋・袋屋源七の未婚の娘が産んだ子だが、出生は謎。父親候補が四人いて今日では二代目説が有力視されているという。

和泉屋勘十郎実子説。
狂言作者二代目津打治兵衛の子説。
二代目團十郎実子説。
松本幸四郎実子説。

源七は茶屋の和泉屋勘十郎家の養子となり次男として育てられる。和泉屋勘十郎家は初代團十郎の娘の嫁ぎ先。

さらに七蔵三歳のとき(1714年)松本幸四郎の養子になる。1714年幸四郎は実子を亡くしその年七蔵を養子にしている。

⭐︎現代にまで続く江戸歌舞伎の代表的な演技・演出形式・荒事を生み出したとされる初代團十郎は一座のものの愚心から横死を遂げます。このとき長男九蔵はまだ十歳でしたがすぐさま二代目を襲名。父の荒事を受け継ぎ、さらに実事や和事味も演じ芸域を広げ、助六を創演。江戸のみならず大阪でも大当たりをとり團十郎の名跡を確固たるものとしました。初代、二代目の活躍により荒事は市川團十郎家のお家芸として現代まで連綿と受け継がれているのです。
(松竹歌舞伎検定公式テキストより)

二代目團十郎と妻の間には子ができず門下の三升屋助十郎の五歳になる子・升五郎を1725年に養子にし、1727年7歳で初舞台を踏ませ、1734年15歳で三代目團十郎を襲名させ、暫のツラネも二代目とそっくりと絶賛されたそうです。が、1742年22歳の若さで早逝。

三代目團十郎が亡くなると、自分の出生の謎も知ってしまっていたであろう二代目幸四郎は四代目團十郎名跡継承権を主張しますがなかなか二代目の首は縦には振られなかったそうです。

二代目幸四郎は二代目團十郎の養女(初代の孫)が妻だから義理の息子。問題は二代目に似ていないことと、その芸風が團十郎家三代だれとも違うことだったようです。神経質で喧嘩早い感情家だったなんてことも記録されているらしい。

二代目幸四郎の四代目團十郎を襲名からはまた。


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昨日から、またさらに今朝はぐんと寒く、身体にこたえている実感がありますので、適度に体を温め、動かしながら、労わり回復したいです。鈍感力が足りないよと笑われてる気がします。どんまい。